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私は私を愛したい【リレーエッセイ⑩】by逸見(はやみ)

この記事は、リレーエッセイ企画「あぁ、愛しのコンプレックス様」10番手として書かせていただくものになります。9番手は逢坂志紀さん。11番手は最後に発表します。お楽しみに。

ナルシシズム全開のタイトルで少し恥ずかしいのだけど、今回はコンプレックスがテーマのお話。

かつての私はコンプレックスまみれだった。今もまあまあまみれている。コンプレックスと共に生きてきて、コンプレックスを解消することが人生の課題だと思うくらいには、私とコンプレックスは切っても切れない関係がある。

きっとコンプレックスというのは、フラットに見ればただの「特徴」にすぎないのだと思う。それをポジティブに捉えれば魅力に、ネガティブに捉えればコンプレックスになるというだけ。つまるところコンプレックスとは、自分を否定的な目で見てしまう心の問題。

だから私は心の方をどうにかしようとして、自分を受け入れようと向き合っている。けれどある時までは、コンプレックスを隠したり、目を背けることばかりしてきた。

増えるコンプレックス、削れる自信

物心ついた頃から自己肯定感というものが地にめり込んでいたので、誰かから何かを否定されるとそれまで自信を持てていたことでも気にするようになった。ただでさえコンプレックスまみれだったのに、雪だるま式にコンプレックスが増えて行った。はっきり言って地獄だった。

そうしてコンプレックスが増える度に、どうにかして隠そう、誤魔化そうとしてきた。

たとえば腫れぼったい一重まぶたがイヤで、細い目をできるだけ大きく見せようと太いアイラインを引いたり、デスクワークで激太りしてからは身体のラインが出ないよう「体型カバー」を謳う服ばかり買ったり。

ある時「声が大きくてうるさい」と言われた事を気にして小さい声で話すようにしたり、ガサツで女らしくない自分が嫌で、初対面の人の前では過剰に緊張して丁寧にふるまって後でどっと疲れたりしていた。

そうした努力は結局続かなかったし、上手くも行かなかった。体型カバーは逆に太って見えたし、メイクはケバいと不評。声は逆に聞き取りづらいのか何度も聞き返されて心が折れたし振る舞いは言うまでもない。

そしてどんどん自信をなくし、心はボロボロ、見た目も最終的にはノーメイク、髪の毛もほったらかし、おしゃれをしようという気持ちすら放棄した。どうせブスなのだから何しても意味が無い、という具合に。そうして「根気がない」「なんの取り柄もない」と責め続ける負のスパイラルに陥っていた。

あの頃の自分は、自分の至らぬ点を見つめるのもできる所を見つめるのも怖くて、思考停止してダメ出しを全て鵜呑みにして、「自分には価値がない」と思い込むことで現実から目を背けていた。目は開いていても、心の目は閉じていた。

どん底からの自分の再定義

そんな私がコンプレックスと向き合うようになったきっかけは、体調を崩して働けなくなり、仕事をやめざるを得なくなったこと。

それまでの私は自分の価値を「働くこと」に定めていた。けれど働けなくなったことで「ひとりの人間としての自分の価値」というものを徹底的に見つめさせられ、これまでいかに自分が自分から目を背けていたかを思い知った。

そしてそのとき、私がもう一度社会に出るための自信を取り戻すには、これまでのような付け焼き刃の自信ではダメなんだと思い至った。根本から自分を見つめ直して再定義する必要があると。

私がそれから何をやったかと言うと、コンプレックスをただの「特徴」として捉え直すことだった。平たく言えば「自分を客観視する」「相対的に見る」ということ。そしてあわよくば、ちゃんと褒めてもらうこと。

具体的な行動としてはカウンセリングやイメコンなど、他にもいくつかあるけど、一本筋を通すとしたらそういうこと。


……というのは、これまでnoteでも書いてきたお話。今日はここからもうひとつ掘り下げてみる。

受け入れられたが腑に落ちない

自分を受け入れるために客観的な視点を持ったことで、コンプレックスは魅力にもなりうるということを理解した。おかげで、前よりも自分が好きになれたし、付け焼き刃ではない本当の自信がついてきたように感じている。

特に見た目に対する自己認識にかなりメンタルが左右される。私は物心ついた時から、何故か周りの目が怖かったためだ。だから、イメコンのおかげで自分の顔や身体のコンプレックスを受け入れられたのは、大きな心の余裕になった。

旦那はずっと私のことを可愛いと言ってくれるのだけど、そう言われても以前は「お前の目にはPhotoshopでも入っているのか?」と思うほど卑屈だった。でも今は「お前がそう思うならそうなんだろう、お前の中ではな」くらいに緩んでいるし、メイクすればそこそこになるとも思う。イメコンの先生にも整った顔立ちだと褒められた。

顔だけでなく、体型も前ほど気にしなくなった。私は標準体重より大幅に重い。全盛期より15kg落としたけど、それでもなお。もちろん痩せたいとは思っているけど、それは追い追い、くらいの気持ちの余裕が出てきた。

自分の顔や身体の特徴は、割と客観的に把握していると思うし、多分説明しろと言われたら出来る。これが私なのだと受け入れているし、私の見た目が好みな人も多分どこかにいるはずだろう、とも思う。

ただ、どうにも違和感を感じるときがある。旦那に褒められて、プロに整った顔立ちだと言われて、確かに嬉しい時はある。メイクのおかげで自分の顔を好きだなと思えた瞬間も、稀にある。けれど、どこかでピンと来ていない自分がいた。

実はこのエッセイで、最初はこの見た目のコンプレックスについて書こうかと思っていた。その流れで、何故違和感があるかを考えていたら、あるシンプルな答えにたどり着いた。

単純に、自分の見た目が「好みじゃない」だけだったんだと。

好みと真逆の顔と身体

おそらく性別問わず「刺さる見た目」「好みの見た目」みたいなのはあると思うんだけど、私の場合、好きな見た目と自分自身の特徴がことごとく逆だった。

以前は視野が狭くて、自分の価値観が全てだと思っていたから「好みじゃない=醜い、魅力がない」だったのだと思う。

イメコンを受けてどんな人にも良さがあることを知れたおかげで価値観は広がったし、自分の魅力も理解した。けれどやっぱり、見た目の好み、美人だと思う枠に、自分は当てはまらないのだ。

この好みはあまりにも自分自身と真逆なので、もしかしたらコンプレックスの裏返しなのかもしれないけど。それでも憧れる気持ちは未だに強い。

そんなに好みじゃないなら整形でもすれば?と思う人もいると思う。考えたことがないわけじゃない。けど、整形は選ばなかった。

一度、つけまつげをつけたらニセ二重のようになったことがあった。その時の自分の顔は割と好きだったけど、なんだか自分じゃないような気がして怖くなってしまい馴染めなかった。見た目まで別人になってしまったら、ただでさえ自分が自分であるという感覚が乏しいのに、本当にどうにかなってしまいそうで。あと、問題の本質は多分そこじゃないんだろうなと思ってもいた。

そもそも、好みを自分に求める事がおかしいのかもしれないけど、私はやっぱり憧れる綺麗な人や可愛い人に少しでも近づきたいと思っている。だから今はできる範囲で努力するし、できる範囲を少しずつでも広げたいと思ってる。

素の自分から目を逸らさない

改めてコンプレックスに向き合ってきた過程をふりかえりながら、気付いたことがある。

整形もそうなんだけど、向き合い始めてからこれまで、自分を無理に変えようとはしなかった。これまで人の基準にばかり振り回されてきたので、とにかく自分に正直になろうとしてきた。というか、そうしなくちゃいけない気持ちに駆り立てられていた。

「ありのままの自分」なんて最近はもう手垢の付いた言葉だけど、とにかく素の自分の良さが必ずあるはずだって信じて、自分から目を逸らさずに、自分に問いかけるようにしてきた。

向き合い始めて4年経った今でも、まだ自分が嫌いで、許せない部分は多い。自分で自分を追い詰めるし、すぐ逃げるし、不安定になると死にたくなる。そのくせ寂しがりで、嫉妬深いし、本当に面倒くさい奴だと思う。

けれど、そうして悪態をつきながらも懲りずにしっかり向き合っているのを客観的に見て、なんだか私は自分自身に対してすごく誠意を持って接しているように感じた。そして、それは何より私自身が「私を愛したい」という気持ちの表れじゃないのか、と。

その答えに気付いた瞬間、ふっと力が抜けて、心の中があたたかいもので満たされた。

ああ、なんだ。私はなんやかんや言いながら、自分のことが大好きなんだって。

これまでコンプレックスをどうにかしたいという思いは「愛されたい」「認められたい」という気持ちから来ていると思っていた。でもそれだけじゃなくて、私自身もどうにかして自分を好きになろうとしてる。

コンプレックスが強いってことはそれだけ自分を愛したいという思いの裏返しなんじゃないだろうか。

私は自分に冷たいと思ってたけど、そう思えたら、私って案外いいやつじゃん?と思えてきて、もうちょっと仲良くしようかな、みたいな気持ちになってきた。

私は自分の中で少なくとも3つくらいにメンタルが分かれてるので(軽く解離してる)、そういう自己対話はすごく大事だったりする。

閑話 コンプレックスと手放した理想

ここで少しだけ、語れる範囲で自分のコンプレックスと理想についての小ネタを。

私は肩の薄い華奢な女の子に憧れていた。痩せたらそうなれることを夢見て一年間ダイエットを頑張った。

ダイエットのおり、骨格診断を受けた。診断結果はストレートだった。ストレートはいわゆる骨太がっしり体型(ちなみに憧れの華奢な肩はウェーブ)なので、絶対に痩せても華奢にはならないということを知って絶望した。あと、たとえ15kg落とせても、肩幅は縮まない。

ただ筋肉は付きやすいのと、上半身逆三角形で腰は細いので、じゃあせめてグラマラスと言えるような体型になりたいと理想を軌道修正した。いずれ鍛えて、かっこいい女になりたい。いずれな。

たとえ嫌いなところだったとしても、コンプレックスがどうせ魅力になるならフル活用したい。

でも神様、できれば来世は二次元ヒロインみたいな華奢な女の子がいいです。「その折れそうな細い肩」とか言われるやつな。「戦えそう」とかは間違っても言われないやつな。お願いね。

閑話休題。

どうしても自分を好きになれない人へ

私はコンプレックス克服のために頑張ってはいるけど、今でもどうしても自分を好きになれなかったり、好きになれない自分がいる。

私じゃなくても、そういう人は多い気がする。

今よく言われてる「自分を好きになろう」とか、「ありのままでいいんだよ」みたいなキラキラした言葉に逆に息苦しさを感じてしまうような人。

そういう「自分を好きになるのが難しい族」の人は、好きになれなくてもいいから、まず「自分を許す」「自分に正直になる」事をするといいのかなと思う。

たぶん、本当は自分を進んで嫌いになりたいわけじゃないと思う。

自分が嫌いなのはきっと「ダメな自分は、嫌われても仕方ない」と思うことで、過去に傷ついた自分自身を守っているんだと思う。あるいは心のどこかで「特別な自分でなければならない」と思ってしまっている。

そういう自分をまずは受け止める。できるなら少しずつでも許す。「愛される、特別な自分でなければいけない」という自分を縛る心を少しずつ解いていく。許せないならそのままでもいい。無理にはやらない。本当に、少しずつ。

自分を受け入れるというのは、楽なことばかりじゃなくて、その渦中に苦しい思いもするし、見たくない自分に会って辛い思いもすると思う。でも、案外悪くないなと思う自分にも必ず出会えるはず。

そして、そういう試行錯誤を繰り返す中で、コンプレックスはただの特徴に、そしてゆくゆくは魅力に転じていくんだと思う。

客観的に見ても「至らぬ点」だと思うこともあると思う。けれど、それはコンプレックスではなく、ただ理想や、基準値が高いだけだ。理想が高いのは悪くない。それが絶対的なもので、それ以外が全てダメだと思うから苦しいだけ。

だから、それで自分を縛るのは一旦脇に置いておいて、まず今の自分を受け入れる。

「こんな自分じゃダメだ」という思いが「こんな自分でも、まあまあなんとかなる」に変わる。そう思えたら心も身体も軽くなるはず。きっと「もっと自分を高めたい」という気持ちにいつか変わるから。

次の走者:マリナ油森さん

長々と語ってしまいましたが、いかがだったでしょうか。助走の記事で、「人がコンプレックスを気にする姿は愛らしく映る」と書いたのですが、少しは愛らしかったでしょうか。(自分で言っててこそばゆい)

さて。「あぁ、愛しのコンプレックス様」はリレーエッセイなので、次の走者にバトンを渡さなくてはなりません。

というわけで、次の走者はマリナ油森さんです!

マリナさんは、noteではエッセイを中心に書いています。日常系のほっとする話から、少し心にずんとくる重い話まで、書かれる話題の幅が広い方です。最近はnote珍百景マガジンや、#呑みながら書きましたなどの企画もされています。

私の個人的な印象ですが、振り幅が広いように見えて、その裏には一貫して、静かで暖かい優しさがあるように感じています。noteから感じる個人的なイメージは、焚き火とか暖炉。人を暖めたり焚き付けたり。でも本当はもっと強く燃えようと思えば燃えられる人。とにかく、火を感じます。

自らを「コミュ強」と言い切るマリナさんですが、その背景には苦しい過去や素敵な人との出会いがあるというのはnoteでも書かれています。

そんなマリナさんがコンプレックスについて書いた文章を読んでみたいと思い、お願いしました。マリナさん、ご快諾ありがとうございます。

お楽しみに!私もとても楽しみです。

◆「あぁ、愛しのコンプレックス様」マガジンはこちら



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