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高い理想を追い求めることが恥ずかしいことだと思っていた

理由はわからないけれど、幼い頃から「一生懸命やらなくちゃ」「結果を出さなくちゃ」という気持ちが強かった。だからなのか、よく「完璧主義」「ストイック」と言われていた。

親にあまり褒められなかったからとかそういうのは抜きにして、自分に求める「当たり前」のラインが高かった。そしてほとんど無自覚に、それを人に押し付けてもいた。

そのせいで、周りから人がいなくなっていった。

おまけに自分の中での基準が高すぎて、自分の実力不足を受け入れられず、そこから目を背けるようになった。

幼い私の心は、そういう孤独や、頑張っても報われないことに耐えられず、次第に頑張らなくなり、そしていつしか真面目なことを恥ずかしいと思うようになった。

だからずっと、目立たないように下を向いて下を向いて生きてきた。自分より下だなと思う相手とばかり付き合って安心していた。自分が楽にできる範囲のことだけをしていた。

「みんなそんなに頑張ってないじゃん。私も適当でいいや」 
「頑張ったって一人ぼっちになるなら意味がない」
「理想ばかり夢見て、どうせ叶わないんだから目指さない方がマシだ」

そんなふうに思っていた。

かつて「真面目系クズ」という言葉を見たことがあるけど、まさにそれだった。

苦しいことから逃げ続け、自分の人生が思い通りにいかないのを他人と心の病のせいにしていた。けれど本当に足を引っ張っていたのは自分の心だ。そうしながら、必死に「頑張ったけど認めてもらえなかった自分の心」を守っていたんだ。

苦しいことから逃げる代わりに、楽しいことからも目を背けた。楽しいことの前にある苦しいことがつらいからだ。

だからいろんな「やりたいこと」「ほしいもの」を諦めた。はじめから諦めれば、欲しがって苦しくなることもないだろう、と。頑張ってない私にはこの程度でじゅうぶんだ、と妥協もした。

けれどそれは、いっときは楽だったけど、決して楽しくはなかった。

諦めれば諦めるほど心は削れて、反比例して諦めたものへの憧れは強くなっていった。

それでもどうやら無意識にがんばってしまうのか、周囲からは「頑張り屋さんだね」なんて言われて。私自身は頑張っている自覚がないから、なんだか周りを騙しているような気分になってしまった。

そして本当に行きたい方を無視するから、心の底には「こんなはずじゃないのに」という不満だけが積もって行った。

……と、何故今更こんなことを書いたかと言うと、最近ふと、いつの間にか上を目指すことに抵抗がなくなっていることに気づいたからだ。

それも頑張ることから逃げていた自分がいたことすら忘れていて、そのきっかけをわざわざ思い出す必要があったほどに。

だから、この気持ちを忘れないように書き留めておこうと思う。

私は4年前に体調を崩し、勤めていた会社を辞めざるを得なくなった時、自分の存在価値をとことんまで打ちのめされた。

しかしある時から、みっともなくっても自分に正直に生きようと心に決めた。それ以来、数年かけてじっくり自分に向き合わせてもらっている。

そんな私がふたたび理想を目指してもいいのだと思い始められたきっかけは、大きく分けてふたつある。

まずひとつめ、人生のどん底でいちばん鮮烈に響いたのは「Fate/stay night」の主人公、衛宮士郎のあるセリフだった。

偽物でも、叶えられない願いでもいい。(中略)衛宮士郎は最後までこの夢を張り続けられる。たとえその先に求めていた物が何一つないとしても

彼の目指す理想は「全ての人を救いたい」というもの。しかしそれは、現実では到底叶えられない。ましてや個人の力では難しい。しかし作中で、彼はそれを知ってもなお目指し続ける、と腹を括る。

私は凡人で、フィクションではなく現実に生きているから、彼のように間違ったままがむしゃらには生きられない。けれど、その先に求めていたものが何一つないとしても、それでもその理想を目指す姿こそが美しいのだと。そう言いきる彼の生き様は、私の根っこに折れない剣として深く突き刺さっている。

そして、もうひとつはnoteで記事を書き始めたこと。自分自身の言葉で、発信をし始めたこと。

苦しいことも、楽しいことも、嬉しいことも。
頑張っていようが病んでいようがなりふり構わず書いた。自分の気持ちを見つめ直すためだと。

そんな中で、自分では当たり前だと思っていたことが喜ばれたり、無駄だと切り捨てようとしていたものにたくさんの反響をもらえたり。

目が覚めるような新しい出会いがあった。価値観も、人も、知識も。自由に書き始めたこのたった半年の間に、沈黙の10年間を取り返している感覚すらあった。

はじめの頃は心のどこかで「できやしない」と思う気持ちもあったし、恥ずかしさもあったけど、たぶん、本当に心の底から「届かぬ理想でも、手を伸ばしたい」「もっと上に行きたい」と望んだのだと思う。

そう思い始めたら、私を応援してくれる人とも出逢えた。褒められると照れくさい時や、卑屈になってしまう時もあるけど、背中を押してもらえる事が増えたのは素直に嬉しい。

そして、学ぶことの楽しさも思い出していた。たとえ目指した高みに生きている間に辿り着けなくとも、その過程が楽しい、そんなふうに思えるようになっている。

そして今は、それが自然なこととして自分に身についている。

一年前には、考えられなかったことだ。

もちろん、まだまだ頑張りすぎるし、タイムマネジメントとか、スケジュール管理とか、課題は山積みだ。

けれど少しずつ足場が固まってきているのを感じる。そして、ふしぎと「自分にはできっこない」という諦めの心は前よりなりを潜めている。

目の前の日常は相変わらずと感じるけど、何も変わっていないように見えて、少しずつ、確実に変わっているのだなと。

はたから見たら「完璧主義」「ストイック」なのは変わらないかもしれない。それらのせいで苦しくなる時もある。

けれど、楽だけど楽しくない道を選ぶくらいなら、苦しくても楽しい道を選んでいきたい。

今は自然とそう思えるようになっている。

目指したところにはたどり着けてないけれど、ようやくここまで来ることができたよ。

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