見出し画像

感情を認めて、自分を満たすことの大切さ

感情は脳内物質の作用。だから感情の原因を他人に求めない。できるだけ自分一人で解決しようと思えばできる……そういう風に考えていた。

たとえば、誰かと話した次の日に悲しい気持ちになったとしても、それは疲れたからで、相手の言葉が原因ではない。誰かに恋をしてしまったとしても、それはアドレナリンの作用で一過性のものだから、この感情を行動に移すべきかどうかは慎重に選択する。誰かの言葉で傷ついたと感じたとしても、相手にその意図があるかどうかはわからない。

そうやって突き詰めていけば、最悪一人でも平気になると本気で思っていた。しかしそれらは純粋な想いやりからではなく、相手を傷つけてしまうことや相手の重荷になることが怖かったからだ。

体調が悪いと述べれば「自分のせいなのか?」と考えさせてしまうのが怖かった。心配させてしまう自分を責めてしまうから。私は感情が揺らぎやすいから、好意を伝えて距離を縮めるのも怖かった。突然嫌いと言えば傷つけてしまうから。

人を傷つけ傷つけられるのは、私が感情と上手く付き合えないからで、相手は悪くない。だから私に対して責を負わないで欲しい。

本気でそう考えていた。

でもそれはとても危うい考え方だったと思う。実際に私はやればやるほど消耗し、苦しくなっていった。

傷付けるのが怖いのは、過去に傷付けられた被害者意識と、傷つけた人に恨まれた経験への恐怖からだった。そして迷惑をかけて見捨てられたくない、嫌われたくないという不安が強かった。憎まれるのが怖かった。気を揉まれる事が申し訳なかった。

他人の心に自分が存在することが恐ろしかった。

しかし、他人の感情を恐れるということは翻って自分の感情を恐れているということだ。私の中には、持て余すほどの負の感情がある。これでもかなり片付けてきた方だと思うけど、未だに恐れているし、それさえなければと思うことがある。怒りと憎しみ、そして嫉妬心。だからこそ、相手がそういう感情を抱く可能性に怯えている。

けれど客観的に見れば、私の気持ちで相手が傷付くかどうかは相手の問題だ。私が相手を糾弾し、仮に相手が傷ついたとしても、それで私を憎むとは限らない。逆になにかしているつもりがなくても知らず傷つけて恨みを買うということもありうる。

そしていくら相手に責を求めないと理性で縛っても、所詮理性は人間の一割。一時的には凌げても、感情を消してしまうことなど出来やしない。行き場をなくした感情は、もはや言葉では届かない深さに泥のように蓄積し、じわじわと私を蝕んでいた。

かつて、私はむしろ過干渉だった。頼まれていないお節介を焼くなどしょっちゅうだった。「話聞くよ」「何かあったら相談して」が口癖だった。そういう関わり方しか知らなかった。どうしてそんな関わり方しかできなかったかと言えば、親の影響もあるけど一番は自分の不安から目を背けていたからだと思う。不安から目を背けているから、自分の不安を呼び起こす他人の不安を解決していた。

それではいつまでも自分の不安は解決されないから、やはり破綻してしまった。それからは人に対して必要以上に干渉するのはやめて、求められた時だけ応じるように気をつけた。自分の不安とのケリをつけるために、意識の矛先を自分に向けた。

でもその不安は根深く、今度は極端に不干渉になりすぎてしまった。それが冒頭の状態だ。

けれどこの過干渉と不干渉は表裏一体だ。相手の気持ちや行動を決めつけるという点においては同じことだ。そして感情から目を背け誤魔化していることに違いなく、またどちらも相手が本来果たすべき責務を奪う行為だった。そうならなかった場合もあるけど、多くの場合そういう側面があった。

何故そうなってしまうかと言えば、私が相手を、そして自分自身を信じていなかったからだ。

紆余曲折あり、自分の考え方とやり方が間違っていたことに気付くことができた。いや、間違っていた、というより、足りなかった……と言えるかもしれない。感情を誰にも求めないなどと自己完結できるほど自分の器は成熟していなかったし、そもそも視点が抜けていた。これは自分への失望と受容を繰り返し、ようやく自分を信じることができるようになってきたから、気付くことができたのだと思う。

冒頭に述べたように、感情は脳内物質の作用というのは、事実ではある。食べたもので感情が変わったり、疲れることで落ち込んだりもする。栄養を適切に補うことで冷静になれる。ジャンクフードでも瞑想でも、分泌されるのは同じ脳内物質であるという。

しかしそれはあくまで、感情の一側面に過ぎない。だから、脳内物質を意図的にコントロールすることだけでは、人は本当の満足は得られない。

これから書く気付きは漠然とした感覚の話で、もしかしたら偉い人も同じようなことを既に論じているかもしれないけど、これまで学んだ知識と私の感覚を総合して言葉にしていくので、ふわっと理解してもらえると嬉しい。

まず、心と体は繋がっている。だから運動や呼吸を気をつけたり、栄養や脳内物質、腸内環境に着目するなどの体からアプローチは非常に理にかなっている。だからといって、精神的・感情的なアプローチを無視することはできない。

なぜなら、心と体の奥には魂があり、そこは集合的無意識と繋がっている。潜在意識とも。いやまあ、呼び方はなんでもいいんだけど、とにかく私たちの奥底は繋がっている。沸き起こる感情は、そこからのメッセージ、サインだ。

そして、それはひとつの点というより、大きな流れの輪ようなものだと思っている。この世界(人類社会だけでなく自然界、つまり宇宙)はエネルギーが流れ、巡ることで成り立っている。

地脈、龍脈、気の流れ、マナ、エーテル、量子……。呼び名は色々ある。空気や水、経済すらその流れのひとつ。血液だってそうだと言える。血は気そのものだ。精神世界であれ物質世界であれ、エネルギーという視点で見れば、それらが動くことで全体の流れに多かれ少なかれ影響を及ぼす。

このエネルギーは、形はどうあれ等価になりたがるという性質がある。あるいは、流れようとする性質というか。失われたものは無意識に満たそうとするし、過度に溜め込めば放出しようという動きが起きる。そうして流れは繰り返され、循環していく。

この流れはフラクタル構造なので、自分の中、他人との繋がり、社会との繋がり、それぞれに存在する。そして、そのどれもが適度に循環している状態がベストと言える。そしてあらゆる不調はその循環がとどこおることや止まってしまうことで起きると私は考えている。

だからこそ、大きな流れに完全に抗うことはできないまでも、自分の流れくらいはせめてきちんと巡らせておくことで、いい流れに乗りやすくはなる。

そして、私達が持つ感情もエネルギーの一種だ。だから自己完結し一人で感情を抱え込むことは、エネルギーを滞らせることになる。

たとえばある人が6エネルギーを持っていたとする。その人が友人に、自分が持っている6エネルギーすべてを使って何か(たとえば相談に乗るなど)をしてあげた時、エネルギーは一旦0になる。

そこで相手から感謝の気持ちや代価を貰えれば、相手のエネルギーで補うことができる。6返してもらえれば万々歳。運が良ければ10返ってくるかもしれない。でももし、してあげている本人が6も減らしていることに無自覚で、1使っているつもりしかなかったら、相手からは1しか受け取ろうとしない。もしくは相手が、してもらうことに対して当たり前だと考える人だったら、返ってくる量も少なくなる。

そして結果、1しか返ってこなかった場合(仮に受け取る側の意思で1しか受け取らなかったとしても)残りの5は、バランスを取るために無意識が何かしらで補おうとする。これは無意識の世界で個人の望むと望まざるにかかわらず自動的に起こるエネルギーの法則だ。

エネルギーを意識的に補えないとどういうことが起こるかといえば、まず単純に疲労。そして体調不良、メンタルの不調。そして相手のことがなんとなく苦手、嫌いになる、逆に相手に過剰に執着するなど態度に出ることも。怒りをあらわにしたり、精神的に傷付けることで奪おうとするかもしれない。金銭を要求するということもありえる。

関係がギスギスする、片方が体調を崩すという状態はあまり健全とは言えないが、それもエネルギーを補おうとする流れの一貫なのでそれは起きて然るべき道理。そこに善悪はない。そして尽くした側の理性がどれだけ受取拒否をしても、無意識は相手から奪おうとしてしまう。

ではどうやって満たせばいいのか。一番はまず本人が6使ったことを認めること。そして「残り5も欲しかった」と相手に伝える。喧嘩でも話し合いでも、相手がそれを受け止めるということがあれば、やりとりは終わるので関係は破綻せずに続いていくだろう。

とはいえ、これはとても難しい行為だ。互いに歩み寄りが必要だからだ。そして実際は果たされないことのほうが多いと思う。尽くした側が相手に執着して関係を繰り返すこともあるし、相手は奪われているのだから縁を切られることもある。逆に奪っていると気づいたなら、自分から離れるということもあるだろう。ただその代わり、消耗した側は別の方法で満たさなければならなくなる。

しかしここで問題がひとつある。消耗した側が、自身の無意識の欲求に無自覚である場合だ。過去の出来事から欲求を抑え込んでいるのかもしれないし、自分にはそれほどの価値がないと思ってしまっている場合もある。それはエネルギーを受け取る心の器に蓋をしたままだということ。先の例えで言えば「6使っているのに1しか使ってないと勘違いしている」状態。そのままではどれだけ無意識下で求めても、少量しか得られず、いつまでも器は満たされない。

だがエネルギーが等価であろうとする力は絶対だ。理性でいくら蓋をしようが、潜在意識は心の蓋が開くようにあらゆる出来事を自身に引き寄せる。不安や恐怖などのネガティブな感情が強いと辛いことばかり起こるのも、そういう仕組みだ。頑張っているのに似たような失敗を繰り返すのは、やり方が間違っていてエネルギーが満たせていないことを無意識が知らせているのだ。

自己犠牲や謙遜が美徳とされる風潮が根強く残る日本社会では、自分の価値を低く見積もることや進んで苦労することを推奨されがちだ。しかしそれは人間の本質的な行動じゃない。善意で尽くしてもその対価は受け取ったほうがいい。それが感謝であれ金銭であれ。そのほうがお互いのためになる。心からそう思えないのに「当然のことをしたまでです」なんて言わなくていい。いいことをしても結果的に疲れるし、その上相手も傷つけてしまうなんて、なんだかバカバカしくないだろうか。

ちなみにお金もエネルギーの観点から見れば同じものだ。だから必要以上に単価を安く設定したサービスや商品でも、同じようなことが起こる。

今の社会を見てほしい。安く大量に売ることがいいこととされた結果、価格競争が激化してサービス提供側がどんどん消耗している。客に適正に求めないから、社内で軋轢が起きたりするし、業界の気力が失われ衰退する。

失ったものを相手から取り返せないのなら、当然ほかの誰かから奪うしかなくなる。しかし奪われた側もまた奪おうとするため、争いや搾取を産み、いずれ破綻する。

逆に顧客と企業の間で適正価格で取引すれば、顧客満足度として感情が上乗せになって返ってくる。溢れた良いエネルギーは企業認知度アップや新しい顧客という新しい縁を連れてくる。そしてさらに発展していく。

エネルギーはフラクタルだから、規模の大小はあれど法則は変わらない。そしてこれについて語ろうと思えばどこまでも話を広げられてしまうので、一旦個人、自分ごとに話を戻す。

私がやっていた行動は、まさに心に蓋をして、消耗していることに無自覚なまま、必要なエネルギーを補おうとしていなかったということだ。傷付けたくないからと心に蓋をして、自分の感情から目を背け、失ったものを求めることをしなかった。流れを止めていた。だから、蓋を開けろと無意識に突き上げられていたので、苦しいことが次々に起こっていた。

では気づいたのなら、これからはどうすればいいのか。それは「自分を大切にすること」。これに尽きると思う。

「自分を大切にする」とは、エネルギーの観点から言えば「エネルギーが満ちた状態をできるだけ保つこと」であり「エネルギーが消耗したらそれを補い、自分の中に循環させてやること」だと言える。それに付随して語られる「良い習慣」とは、エネルギーを補い、循環させる仕組みのことだ。

逆に悪い習慣とはエネルギーを消耗してしまうものや流れを止めてしまうもの。今はこのエネルギーの消耗に対して無自覚な人が多いと思う。消耗している状態が当たり前になっている。私自身もその一人。だいぶマシになったけど、前はひどいもんだった。

けれど、消耗はしているので無意識下では満たそうとする。しかし湧き上がる欲求に対して環境や周囲の人間、権力者、あるいは常識や理性がアレコレ理由をつけてそれを阻む。結果として満たされないため、あらゆる不調やトラブルが顕在化する。

そこから抜け出すには、どうあれ欲求を認める。そして“適切に”満たせるように行動し、ゆくゆくは環境や習慣を変えていくことだ。一時的に満たしたような気にさせるものではなく“本当に”満たしてくれるものに触れなければいけない。

確かに今は戦いが良しとされる時代ではないし、厳しい身分制度も日本にはない。個人の自由と尊厳がある程度尊重されていて、それぞれに選択の自由がある。だからこそ感情を自分で処理できるようになることはトラブルを避けるためには必要だ。けれどそれは常に感情を封じ込めたり、一人で抱え込んだりすることとは違う。

ただ、フラットに。否定も肯定もせず、その感情を認めるということ。どう処理するかの判断は一旦置いておいて、その感情がただそこに在ることを許すということ。それはつまり、先に述べた心の蓋を開ける行為に繋がる。

感情……つまり「心の正直な欲求」。それは既に器にたまっている水だ。それの清濁はさておき、まずはただ欲求が“在る”と認めることで、少しずつ潜在意識と顕在意識が統合され、深いところでエネルギーを満たす準備が整う。

「感情を認める」。言葉では簡単だが、実際は結構難しい。人によっては強制的に「突きつけられる」という場合もあるし、湧き上がる感情全てが自分にとって都合のいいものとは限らないからだ。器の水がどろどろに濁っているなら、それをかき出すほうが先だし、仮に気付いたとしても表に出せない感情もあるだろう。感情と理性の矛盾に耐えられず、なかったことにしてしまうかもしれない。

たとえば、ずっと信頼していた相手に「裏切られた」と感じてしまったら。大事な人がいるのに、別の人に「好きだ」という気持ちを抱いてしまったら。会社でチームメンバーから信頼されているのに「辞めたい」と思ってしまったら。育ててくれた親に対して「憎い」と思ってしまったら。

そういう感情を認めるのは、なかなか難しい。余裕がないと出来ないことだし、社会的倫理に悖るような感情が浮かべばなおさらだ。だからこれは、できるだけ落ち着ける、安全な場所でやったほうがいい。きつい蓋は無理に開ければ壊れてしまうし、器に貯まっていた水が泥ならまず出さなくてはいけないし、安全ではない場所で蓋を開けたときに入ってくる水がきれいな水とは限らないからだ。

けれど、安全な場所でじっくり時間をかけて、蓋をゆるめ、泥をかき出し、減ったものをきれいな水で満たしていければ。つまり、認められない原因をクリアにして、素直な気持ちを認めることが出来れば、行動は自然と変わってくる。泥のような暗い感情を起こしてしまうほどに枯渇したエネルギーを満たすための行動を、自分の意思で起こしていける。

上にあげたような極端な例でなくとも、たとえばパートナーに対して「年甲斐もなく甘えたい」という感情が浮かんだり、会いたい誰か、話したい誰かが思い浮かんだり。傷付けられたので謝って欲しいと思ったり。仕事でも、もうちょっとサービスの値段を上げたいなと思ったり。そういう時はまずは言葉にしてみる。まずは受け止めてくれる誰かに話したり、言葉として書き出せばいい。そして行動に移せるなら、移したほうがいいと思う。移さなくてもチャンスがやってくるということもあるかもしれない。そしてそれを逃さず経験して、きちんと学んでいけばいい。

それが自然なあり方だし、自然な流れだ。もし正直になって離れていく人がいるなら、その人はこの先の人生には必要がない人なのだろう。

もしそれでもなかなか動けないのなら、流れを阻む何かが自分の中や環境にあるだろうから、それを取り除くのが先だ。あるいは、今は動けない、そういう時期であり状態なのかもしれない、とゆっくり構えるのもひとつだ。何より大事なのは「ただ認める」こと。

認められない感情が意図せず出てくるということは、それに向き合えというサインでもあるが、同時に「エネルギーを消耗している」という事でもある。よく「疲れていると気持ちがネガティブになりやすい」と言われるがそれと同じだ。向き合うにはエネルギーがいる。だからまずは、満たすことから始めればいい。

もし心に蓋があって満たせないのなら、体から満たすという手段もある。心と体はつながっているからだ。しっかり栄養のあるものを食べて、お風呂に入ったり深呼吸したりする。落ち着く曲を聞く。マッサージやストレッチ、ヨガもいいと思う。体を動かす方が元気が出る人は運動を。そしてたくさん水を飲む。タンパク質を摂る。動物と触れ合う。掃除をする。気の置けない友達と話す。自然の中でゆっくり過ごす。わざと笑えるものや泣けるもので感情を開放する。

それすら無理なほど蓋がきつい人もいる。その行動すら起こせないほど気力が湧かない人がいる。というか私がそうだった。そしてそういう人ほど焦りがちだ。まずは自分は「焦っている」ということを認める。「ゆっくりでいい」と言い聞かせる。繰り返し。そして並行して蓋を緩めるためにヒーリングやカウンセリングを受けたりするなどしていけばいい。自分に合ったやり方がきっとある。停滞も必要なプロセスだ。

あとはエネルギー総量は人それぞれ違うので、近い価値観やエネルギー量の人を探すというのも手だ。循環がスムーズに行きやすい相手は必ずいる。

そもそも現代社会はエネルギーを消耗する要素が多すぎる。だから、少しでも自分を満たす方法は知っておいた方がいいと思う。それが他人に頼るものであっても。

私たちは孤独に生きるためでなく、助け合うために生まれてきたのだから。

そして、その一人ひとりが自分を満たそうとする流れが、いずれ社会全体に広がっていけば、きっと変わっていくはず。そう、信じたい。

具体的な方法は、私もこれから模索していく。

そしてゆくゆくは、満たしたエネルギーを溢れさせて人に還元できるようになりたい。今回は悪循環からの脱却に重点を置いたので、いつか良循環についても語りたいと思う。

私は私なりに、不安や恐怖に向き合ってこられたのだろう。具体的にやって効果的だったことはいずれまた別の機会に紹介したいと思う。それらのおかげでようやく「自分を大切にすること」の本当の意味に気付くことができた。自分の中で感じている目に見えない世界の法則をきちんと信じられたことで、深いところで繋がっているのだという実感も、以前より強い。

また、繋がることで人を傷つけることが怖くなくなってきた。と言うと、ものすごく性格が悪いように思われるかもしれないが、そういうことではなくて。私が私であるというだけで傷付けてしまう人がいるとしても、それに合わせて自分を曲げる必要がない、と思っているだけ。仮にそれで相手が傷付いたとしても、そのあとの行動をどう選択するかは相手の自由だし、俯瞰すれば、それが相手にとっては必要な経験とも言える。

これはある意味、自分の尊厳を保つと同時に他者を信頼するということであるのだと思う。傷付いても相手にはその後の人生を選択する権利があるのだ。それを尊重するということ。流れに身を任せる、とも言えるかもしれない。もちろん、相手との距離感や思い入れ、縁の強さ次第で、関わり方は変える。自分のできる範囲で。それが、健全に繋がるということだろう。

かつての私は「他人に期待しないこと」と「誰にも頼らないこと」を混同していた。けれどそれは違うと今ならわかる。

「他人に期待しないこと」すなわちデタッチメントは愛着(アタッチメント)の先にあるものだ。愛着の先は信頼。つまりそれは、わざわざ期待する必要がないほどに、自他ともに信頼をしている状態のことなのだろう。そして真に人に頼るということは、自分の身の丈を知り、相手を信頼してこそできることだ。

「他人に期待しない」と「誰かに頼ること」は両立できる。

けれど、まだ私は他人に期待してしまうから、きちんと人と繋がって、学んでいく必要があるんだと思う。だから今は、必要以上に他人に干渉しないことも、積極的に関わることも、どちらでも心のままに選べばいい。そう思っている。

そこで消耗しすぎないように加減をする、あるいは消耗してもすぐに回復できるようになるために。よい距離感を保つための境界線を引くために、それが自分に必要な経験なんだ。

これまでの人間関係の辛さや生きづらさは、それに気付くためのプロセスだったのだと思う。今ならそう思える。

話がかなりちらかってしまった。ほとんど感覚でソースもあたらず書いているので、抜け落ちている点は目を瞑ったり、補足したりしていただけるとありがたい。

久しぶりに長文を書いたし、結構読んでいて苦しくなるようなことも書いたので、ここまで読んでくれる人は少ないかもしれないけど、一応まとめと、最後にメッセージを。

私たちは大きなひとつの流れの中にいて、感情はその中のエネルギーのやりとり、循環のプロセスのひとつ。だから繋がりを絶って生きていくことはできないし、人に求めてしまうことも自然なこと。苦しくなるほど求めるということは、自分が必要以上に相手にエネルギーを与えてしまっているか、自分自身が消耗している可能性がある。まずはそれを認めて、満たしてあげることが大切。

ある程度感情を自分で処理できるようになることは必要だと思うし、その方が結果的に楽だ。けれど、それは押し殺すことではなく、感情を認めること。認めたくない感情に苦しむかもしれないし時間もかかるけど、そこを乗り越えれば自然と自分を満たすことが出来るようになっていくのだと思う。

ここまで色々、複雑なことをつらつら書いたけれど、つまるところ言いたいこともやるべきこともシンプルだ。疲れたなら休む、お腹がすいたら食べる、息を深くする、お日様にあたる。そして、悲しいなら悲しむ、嬉しいなら喜ぶ、大事な人を大事にする……そういう単純なことだったりもする。

それが素直に出来ないほどにねじれてしまった現代社会とは、一体なんなんだろうとも思う。

長い目で見れば、どんな感情も体の不調も、行動を起こさせるためのきっかけであり、メッセージだ。健全な関係も不健全な関係も、そのメッセージに気付くために必要なプロセス。そう思うことができれば、失敗に傷付くことを恐れる必要はない。

「はいそうですか」とすぐにそうは思えないと思う。でもそういう人はまず、自分が「怖くて動けなくなるほどに傷付いた」ということをどうか認めてあげて欲しい。そしてまずはその傷を癒して、自分をたくさん満たしてほしい。人を傷付けてもいい。わがままでもいい。嫌われてもいい。離れていく人は、そういう縁の人だ。その中で気付く思いもあるだろうし、離れていって空いた席に新しく座る人もいる。

全ての人がそうあることは出来ないかもしれない。動けない人もいるだろうし、心が折れる人もいるかもしれない。けれど、折れないなら。折れてもまた立ち上がれるなら、いつか必ず、守る必要なんてないと気付けると思う。

与えるのではなく、満たすことがまず先。満たされれば変わってくる。少しずつ、ゆっくりと。

これは付け焼き刃の達観でなく、心からの言葉だと胸を張って言える。

私もようやくここまで来た。

大丈夫。暗闇でも、手探りでも道は必ず繋がっているよ。

最後までお読みくださりありがとうございます。この記事が気に入ったら♡を押してくださると嬉しいです🙂SNSでのシェア、サポート等もとても励みになります。