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ぜんぶ、自分なんだ

私は時折、脳みそだけ、肉体を超えた存在になりたいと思う時がある。攻殻機動隊の素子さんとか憧れる。ああいう世界観は、現実にあるといやだな、とは思うけど。

自分の肉体がきらい。きらいだけど、すき、すきだけど、きらい。

たとえば体型。標準よりはるかに重い体重。これでも1番太っていた時よりは痩せたけど、あらゆる部分がだらしない。それに顔。見る人が見れば美人らしいけど、自分の顔面はそこまで好きではない。メイクするのは、自分の顔面が少しでもマシに見えるようにするため。

そんなことを言いつつ、いい部分だってちゃんとわかってる。人間は相対的なものだ、自分にないものを持っている人がいるように、わたしが持っているものもちゃんとある。それを知るために色々とやってきたわけだし。それでも、いい部分があるのと、好き嫌いは別だ。その好き嫌いすら、気分によって変わってしまうのだから救えない。

そうして「自分の肉体」というものに理解を進め、以前よりは自分というものに対する認識が(これでも)遥かにマシにはなったものの、わたしは思考ばかりで体が置き去りなので、そのスピードの落差に耐えられなくなる時がある。

思考やイメージだけでは現実には寄与できない。頭のシミュレーションや見積もりに対して、肉体の造形、実物、そして動かなさにうんざりするのだ。

念の為ここで補足しておきたいのだけど、この思考の速さというのは「賢さ」とは別のものだと私は思う。少なくとも「ただ速いだけ」のものが優れている訳ではないと私は思っている。賢さというのは、自身の納得の行く答えを導き出せる事、そしてそれを現実に生かせていることだ。そこに速さは関係ない。少なくとも私はそう思う。

ただ回るだけの頭は、荒ぶる嵐のようなもの。知恵なき力は、ただの力でしかない。私が持っているものはまだまだ、知恵の伴わないものだ。

さて、肉体というのは、もちろん肉声も含む。

先日、音声配信をした。ありがたいことに、声を褒めていただいて。話し方がプロっぽいとまで言っていただいて。正直、文章だけじゃ物足りないな、と思っており、かねてからやってみたい気持ちもあり、楽しかったことは事実だし、いただいたお言葉は有難いものであることは変わらない。褒められたことは純粋に嬉しい。

ただ、やはり自分の声や話し方が気に食わない、と思う自分は確実にわたしの中にいる。この感情が、「わたしの声を好きだと思ってくれる人に対して失礼になる」という指摘があるかもしれないことは百も承知だ。それはそれとして、そういう感情が浮かんだ。

創作、表現というのは、自己肯定と自己否定のせめぎあいだと思うけど、文章というのは自分の声がしないからまだ楽だな、と音声編集をしながら感じた。文章の推敲はほとんど他人事で行える。デザインも然り。しかし声となるとそうはいかない。否が応でもこれは自分だと思い知らされる。

自分の声をよく聞く環境にいたために、自分の声を聞くことに抵抗はないのだけど、録音をリプレイするときは解離させなくては難しい。自分の喋りの粗も耳につくし、喋っている自分に対して「なんだこいつエラソーに」みたいにつっこんでしまう。

そしてまた話し相手によってもテンションがかなり変わる。文章との落差も激しい。お前はフォロワーをどこへ連れて行く気だ。振り回すにも程がある。そう思う。

以前フォロワーさんから「ジェットコースターみたい」と言われたことがあるけれど、本質を突いているなあ、と思った。あまりの浮き沈みの激しさ、一日のうちでも安定しない自分自身に自分でも疲れてしまうし、こんな意味不明なやつは、嫌われても仕方ないだろう、なんて思ってしまう。

けれど、ネガティブな自分も、ポジティブな自分も、高尚な自分も、低俗な自分も、真面目な自分も、遊んでる自分も、傲慢な自分も、冷たい自分も、嫉妬深くて恨みがましい自分も、誰かに対してとてつもなく愛情深い気持ちになる自分も、それを全て俯瞰している自分も、全部が全部わたしなのだと思う。

そしてその全てに嘘はない。真剣だ。

周りに馴染めず、家族にも理解されず、自分は何者なのだろうとずっと考えてきた。本当の自分はどちらだろう、と悩み続けてきた。あまりに不安定すぎて、自分が空っぽだと思った日もあった。

けれど最近は、その悩みもそろそろ終わる。

どっちが自分だとか、考えなくなったのだ。

この半年ほどの間、変わりゆく自分を、好奇心を持って観察していた。過去に囚われているのではなく、未来を向くために過去を見つめていた。どこに行くかはわからない。コントロールできないならせめて、見守ってやろうと。

そして、この半年の間、あまりにもめまぐるしい変化があった。自己観察、自己分析の過程を人前に晒すことで、受け止めてもらい、思わぬ言葉や反応をもらい、新たな価値観や、わたしの本質を見抜いてくれた大事なひとに出会って、失敗もして、しょげて、また立ち直って。今は、もう、まるごと全部を受け入れよう、みたいになっている。

もちろん、持て余す能力を使いこなすための努力は必要だと思っている。力に溺れない為にも、荒波を乗りこなす、嵐にも負けない船を作らなくては。けれど、その努力をするためには力がいるから。自分を否定、抑圧したままでは、力が出ないから、まずその努力をする力を手に入れるために、全部をまるごと晒して、出して、過不足なく受け止めた。

そして知ったのは、自分にとっての当たり前は当たり前ではないということ。そしてどうあっても他人にはなれないし、多面的過ぎて理解されにくくても、これが自分なんだと胸を張って言えば、わたしのことを受け止めてくれる人がいること。

苦しかった過去は、もう目の前にないのだ。

だから、そろそろ、未来の話をしてもいいかな。

本当に闇の中だった半年前には考えもしなかった将来のイメージが浮かんでいる。まだ形ははっきりとはしないけれど。それでも何か、手に掴んだものはある。

宿命は変えられない。けど、運命は変えられる。

もしかしたら長い人生、また挫けそうになることもあるかもしれない。けれど、自分の力で乗りこえた経験は必ず役に立つはず。

乗り越えた先の景色は、乗り越えた人間にしかわからない。わたしはまだまだ立ち止まらない。けれどいつか、わたし自身が、苦しみの渦中にいる人を照らす光になりたいな、なんておこがましくも思うよ。

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