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絶望の淵を歩くひとと蜘蛛の糸

丑三つ時にふと何か書きたくなった。頭の中に流れる音楽ってその時一番好きな曲とかでもない。なんで今これ?!って思うことが大半だなあ。昨日は、Helsinki Lambda Clubの「眠ったふりして」だったし、今はandymoriの「Peace」が私の脳内をジャックしている。これは本当にいい曲で、あんまり人には教えたくないんだけどいつかみんなで大合唱したいという夢もあるから、マルチ勧誘みたいな謳い文句で「本当に良いから言いたくないんだけど、、、」と全員に言いまわっている。

私は人に何か相談されたり、悩みを打ち明けられたりしたときに上手に返せたためしがない。問題が逼迫してその人に密着すればするほど、自分が何をどう包装して配送しても規格外として返品されそうだし、正論なんて絶対言いたくないけど、自論もエゴが先走って気持ち悪いし、考え得るどのパターンもなんか違うし、ていうかそもそもパターンの中で考えているのも嫌だし、言葉と空気は宙ぶらりんのまま時間だけがさやさやと過ぎていく。相手の、悩みを他人に打ち明けるという勇気に釣り合うだけの覚悟がないんだと思う。「自分の言葉なんて」とかいう謙遜の皮を被った傲慢な奴にはなりたくないが、今のところそいつらと全く同じだ。

それに対して私は人の言葉に少なくとも5000000回は拾ってもらってきた。絶望の淵をスレスレで歩いているところに、蜘蛛の糸を垂らしてもらってきた。でもよく考えたらそれは別に私へ向けて発せられた言葉じゃないことの方が多かった。60年前のおじさんの言葉が18歳の人間素人女に刺さったりすることもあるんだ。誰かを救おうなんて思わない偏った言葉は誰かの命を拾ってどこまでものびていく。絶望の貯金を誰かが希望として引き落としていくんだなあ。私が偉そうに人に本を読んだらいいよというのは、本当にときどき胸にどーーーーーんとくる、「この一文に出会うために、、、私は、、、」という言葉に出会えるからなんだ。

これを読んでいるちょっと上手くいってないあなたと、そしてもっと上手くいってないわたしへ!
早く寝ろ!!!!!!

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