早見慎司劇場3:夏の少女

夏の少女   早見裕司

 ちょうど十年前、暑い盛りだった。
 大学二年生だった私は、夏休みにふと思い立って、東京からそう遠くない山の多い土地へ、ひとりで出かけた。せっかくの休みを、いかにエアコンが利いていても、部屋の中や街なかで過ごすのはごめんだ。行ったことのない場所へ、ふらりと旅に出たかったのだ。どうも私は、ひとつ所に落ちついていられない質なのかも知れない。
 それほど高くはない山道を歩いていくと、広い草原〔ルビ「くさはら〕に出た。腰の辺りまである草が生い茂る中をかきわけて進むと、草の丈が短い、天然の芝生のように開けた場所があった。
 太陽は天頂近くで照りつけていたが、私は気にせず、ごろりとそこに寝転がった。草のちくちくとした感触と、まるでジーンズを焦がすような日なたの匂いを気持ちよく感じながら、目をつぶると、瞼の裏は、陽の光が血を透かして真っ赤だった。
 眠るでもなく、かといって、すっかり目が醒めているという気もせず、しばらくは、光の暑さとかすかに吹く風の、山ならではの涼しさを楽しんでいた。
 どれほど経っただろう。ふと、草を踏む音が聴こえた。
 目を開き、半身を起こしてみると、草原の向こう側に人の姿が見えた。おそらくは、十四、五の少女だった。
 この陽差しの下でも抜けるように色が白く、麦わら帽子に、真っ白なノースリーブのワンピースを着て、サンダルを履いていた。飛び抜けて美人というほどでもなかったが、顔立ちは充分に整っていて、それ以上に、何か、ひどく人を惹き付ける魅力があった。こんな山の中で逢ったせいかもしれないが、どこか、現実離れした雰囲気を感じさせた。俗世の塵にまみれていない、純粋で謎めいたものを。
 夏の陽差しの中で、彼女は、この上もなく美しかったのだ。
 しばらくは、少女に見とれていたが、やがて、あることに気づいた。
 少女は、左手に、草刈り鎌を提げていた。特に変わったところのない、ただの鎌だ。しかし――。
 鎌の刃は血まみれだった。鮮やかに赤い血が、まだ、したたり落ちていた。
 しかし、少女の衣服にも体にも、血は一滴もついてはいない。白い少女を汚したくない――神様か誰かが、そう考えたかのようだった。
 夏が、かも知れない。
 私の姿を認めたらしく、少女は、サンダルで一歩一歩ゆっくりと草を踏みしめ、近づいてきた。少女の足許で、小さな蝗虫が何匹か、思い思いの方角へと跳び上がって消えた。
 ―― ……街の人? ――
 少女の声は、ガラスのように硬く透き通っていた。
 ――いや。旅の途中で、気が向いて山に入ってみたんだ――
 少女に襲われる、などということは、頭にも上らなかった。それほど少女の様子が、穏やかだったからかも知れない。
 少女は、ふっ……と微笑んだ。
 ――訊かないのね――
 ――何を? ――
 分かっていながら、私は訊ねた。
 ――ううん。あなたはいい人だわ――
 私だって、彼女が何をしたのか訊きたくはあった。しかし、たとえそれがどんなにおぞましいことだったとしても、彼女がやったのなら、その、夏の陽差しのようなまぶしい白さで、清らかな行ないに変えてしまうだろう。
 そのときの私は、確かに、そう思ったのだ。
 彼女は、夏そのもののように。
 おそらく彼女の姿を目に焼き付けようとしたのだと思う。私は目を閉じた。瞼の裏は、鎌の血糊のように赤かった。
 ふっ……とそよ風が吹いた。
 目を開くと、少女は口止めさえせずに、ゆっくりと草原を戻っていった。その後ろ姿が、やがて向こう側の丈の高い草に隠され、見えなくなった。
 白昼夢だったのかも知れないな――そう思って、私はまた寝転がった。閉じた瞼の裏に映るのは、血が透けて見える赤ではなく、白い、少女の姿だった。

ここから先は

3,742字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?