早見慎司劇場6:あの頃の君

あの頃の君  初稿  早見裕司

 十年ぶりに、三人きりの同窓会があった。
 同じ大学にいたことはあるが、同期ではない。十年前、私たちは同じ下宿で暮らしていたのだ。米野さんはもう卒業して、フリーターをしながらクリエイター系の仕事を探していたし、福川さんはオーバードクターというやつで、大学助手を狙いながら大学院に通っていた。私だけは現役の学生だったが、小説家志望でろくに授業にも出ていなかった。。
 それぞれに、夢があったのだ。それが、気が付くと他のふたりはそれぞれ金融関係の会社に入り、毎年来る年賀状では、それぞれの結婚から、家族が増えていく知らせを受けていた。
 私は卒業した後、バイトをしながら小説の新人賞に応募し、五年程前に、入賞はしなかったがデビューすることはできた。しかし、この五年で書いた本は、六冊。諦めきれるほど売れていないわけでもないが、自活できるほどの売れ行きでもなかった。実家の親の年金を食いつぶして、どうにか踏み止まっている。
 ときどき、絶叫したくなる。これが自分の夢だったのか、と。

 同窓会は、誰かへの仕送りがあったときにだけ来られた、駅前の居酒屋で開かれた。開始の時間ぎりぎりに米野さんが、少し遅れて福川さんが、それぞれ、ぱりっとしたスーツ姿で現われた。
「すまないな。今日中に片付けないといけない仕事があって」
 あの頃、三ヶ月に一度、我慢できなくなるまで床屋へは行かなかった、いや、行けなかった福川さんは、もちろん今では七三に髪をなでつけ、やや生え際が後退しているようだった。
「いずこも同じさ。会社員なんて、時間の奴隷だ」
 大学では理論物理学を研究していたが、今は営業一課課長と名刺にあった米野さんは、私に、自分では暖かいつもりだろう笑顔を向けた。
「小説家、やってるんだったな。うらやましいよ」
「学生の頃からの夢を叶えたんだからな」
 福川さんがあいづちを打つ。
 私は、それですっかり諦めた。小説家、それも売れない小説家がいかに生活が不安定で収入も低いか、時間はサラリーマン以上に拘束されるか、作品の内容だけではなく、売り込みや編集者とのやりあいで命を削るような思いに苛まれているか、そしていつ枯渇するか分からない能力への不安……。
 何を話したところで、この人たちは、何の悪意もなしに言うだろう。
『でも、夢が叶ったんだから、いいじゃないか』
 確かに、それは間違ってはいないのだから。
 その夢の実像が、どのようなものだったとしても。

 私たちは、昔懐かしいホッピーで乾杯した。アルコールのないビールのようなもので、焼酎を割るのだ。
 最初に感じたふたりとの溝を、アルコールが少し埋めてくれたようだ。話は下宿時代のことになっていた。
「しかしあそこは、当時でもかなり古い建物だったな」
 米野さんが、遠くを見るような表情で言った。
「たぶん、朝鮮戦争かその辺のものだろう。いつ崩れてもおかしくないような木造だった」
 福川さんも、懐かしそうな顔をした。
「何しろ、窓が閉まらないだけじゃない。窓枠と壁の間にすき間が空いていて、冬になるとそこから雪が吹き込んでくるんだ。よく、風邪を引いたよ。大家さんに、二、三度は言ったんだがな、何しろこっちも一万八千円の家賃を、ときどき払いが遅れていたんだ、強くは言えなかったさ」
 今も私はそうだ、とはなぜか言えなかった。
「四畳半一間に炊事場、風呂もないし、トイレは共同だったな。今は改築したのかい」
 米野さんが訊いてきた。
「いえ、あのままです。外壁ぐらいは塗り替えましたが、あっちこっち修繕しながら、まだ使っていますよ」
「それは、見てみたいもんだな」
 米野さんは無邪気な感慨を込めた声で言ったが、行ってみよう、とは最後まで言い出さなかった。
 福川さんも懐かしそうに、こちらを見た。とても遠い所から見られているように感じた。
「お前の部屋には本棚が一本きりで、他には何もなかったから、よく三人で集まって飲み明かしたもんだ。ホワイトリカーとカップ酒でな。米野はいつも、すぐつぶれていたが」
「そういえば」
 米野さんが、ふと、思いだしたように言った。
「あの頃、下宿にもうひとり、誰かいなかったか? 三人で飲んでいたんじゃなく、四人だったような気がするんだが」
 言われた福川さんも、曖昧な表情になった。
「そういや、誰かいたなあ。妙に印象が薄くて思い出せないんだが、よく酒を買いに行ってくれたり、つぶれた米野に布団をかけてくれたり、なんだか面倒見のいい奴だった。誰だっただろう」


「――気のせいでしょう」
 私はほんの少し間をおいて応えた。
「下宿の部屋は四つ。四つめの部屋は、大家さんの物置になっていました。だから、三人しか住んでいなかったんです。忘れたんですか」
「じゃあ、面倒を見てくれたのは、大家さんだったのかな」
 福川さんは、自分で納得したような顔をした。
「ああ、きっとそうだ。何しろ俺たちには女っ気も、他に下宿へ呼ぶような友だちもいなかったんだからな」
 米野さんは、ふっ、と笑ってうなずいた。
「大家さん、今でも元気か? つい、忙しくて年賀状も出しそびれている」
「……ええ」
 当時でも七〇を超えていた、背筋の伸びた老婦人の大家さんが昨年亡くなったのを、ふたりとも憶えていないか、あるいは本当に知らないようだった。私がふたりの住所を調べ、葉書で知らせたのだが、結局、葬儀にも来なかったし、お悔やみの手紙一通、届かなかったのだ。
 無理もない。この人たちは、今では別の人生を歩んでいるのだから。葉書もどこかへ、記憶と共に取り紛れてしまったのだろう。
 それを責める気はなかった。
 ふと、米野さんが、はっとしたようにこちらを向いた。
「どうしたんです?」
「いや。今、お前がなんだか、ここにいないみたいな気がしたんだ。どうしてだろうな。すまん」
「いいんですよ」
 よく分からないまま、私は微笑んで応えた。

 ふたりは家庭があるので、早めにお開きになった。『また会おうな』、ふたりは言ってくれたが、そんな日は来ない、と私には分かっていた。
 私鉄の小さな駅前商店街を外れ、畑の中を歩く。今は大家さんの娘さんが管理している、あの頃と殆ど変わらない下宿の外壁にある、錆びた鉄板の階段を昇った。下宿は二階なのだ。あの頃から、階段は赤錆だらけだった。
「ただいま」
 声をかけて自分の部屋に入り、暗い蛍光灯を点けると、机の上の、型落ちで安く買ったノートパソコンをどかせて、焼酎の瓶を置き、湯呑みに注いで煽った。
「ふたりが懐かしがっていたよ。この下宿を」
 部屋の隅に向かって、私は語りかけた。
「でも、もう一度、見に来ようなんてしなかった。今もここに住んで、気ままな暮らしだと思われてる俺を、うらやましがるだけだった。そうだよな、見てしまったらきっとがっかりするよ。下宿も、俺も、思い出の中できれいになっていく。そういうもんだろう? ひとりぐらい、夢の中に生きてる、って思われてる人間がいたっていいだろうさ。相手の勝手な夢でもね」
 部屋の隅で、黒い影が動いた。
「そうそう。君のことも、忘れてなかったよ。ふたりとも」
 私は、ちょうど人間がうずくまっているような大きさの、影に向かって話し続けた。
「ただ、もう、君が実在してたことは、憶えてなかった。そういうもんだろうな。あの頃だって、君が何者か、どっから来て俺の部屋に住みついたのか、誰も知らなかった。でも、君のような得体の知れないものを、仲間に入れて酒を飲み明かしたり、それぞれの部屋にも出入りさせてた。ひょっとしたらそれが、若さってやつなのかもしれないな」
 黒い影が、どう思ったのかは分からない。あの頃も、はっきりとは分からなかったのだ。
 ただ、なんだか暖かい感情が、伝わってくるように思った。あの頃のように。
「いい奴だな、君は。俺は何もしてやれないのに」
 私は微笑んで、また焼酎を煽った。
 ふっ、と影が何か言ったようだった。
 私は、自分の手許を見た。湯呑みを持った自分の手が、気のせいか、黒い、影のように見えた。
 ああ……そういうことだったのか。
 今度はゆっくりと焼酎を飲みながら、私は、もうすぐ四月がくるのを思い出していた。今、この下宿には、私しか住んでいないのだ。
 たとえ今年、誰も入ってこなくても、私は、ここに住み続けるだろう。そして、誰かが住むようになったら――。
「そのときは、俺があの頃の君になるんだな」
 私は、影に向かって、微笑みながら呟いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?