or FALLEN ANGEL (ショート・ショート)

 ウミは電気を消した3階の部屋で窓の向こうに広がる夜空、一際大きく輝く月を見上げた。お気に入りのぬいぐるみを強く抱きしめて、嫌いな相手の名前をつぶやく。
 ふと月が陰った。雲のせいじゃない、窓に当たる影は人の形をしている。月の明かりを妨げるその陰は夜空に堂々と浮かんでいた。
 ウミは慌てて立ち上がり、窓を開けて影を見上げた。
「見えたわよ、黒い感情」
 影が喋った。女であろうその声の主の背中には黒い翼が2枚、ついている。不思議と、それのおかげで宙に浮いていられるのだとウミは納得した。
 女はウミの元へ、窓のすぐ近くまで来ると、ウミに向かって話しかけてくる。
「あんた、ひとり?」
 何ともなしに頷くと、女はにっこりと笑ってみせた。
「じゃあおいで。その黒い感情、吸い取ってあげる」
「え。意味わかんないんだけど」
「いいから、この手を取りなさい」
「……」
 ちょっと強く言われて嫌な気分になったけれど、ウミは差し出されたその手を無言で取る。途端、ふわりと身体が宙に浮いた。
 ウミの身体は開けた窓から外の風に当たり、いつのまにか眼下に夜の街の明かりが広がる。足元になにもない状態は落ちつかず、ウミは女の手を片手でぎゅっと掴んだ。もう片方の腕ではお気に入りいのぬいぐるみを抱き締めていた。
「空を飛ぶのは初めて?」
「あたりまえでしょっ」
「あら、私には当たり前じゃないわよ。こうして飛ぶのが当たり前だもの」
「お、降ろして!」
「どうして?」
「どうしてって、怖いから! 落ちたらヤダから!」
「落とさないから安心しなさい。この手を離したら落ちるけど」
「や、やだっ」
 ウミはより一層、お姉さんの手を強く握る。
「急に大人しくなったわね。本当に怖いの?」
「……」
「ほら脚を伸ばして、身体を開いてごらんなさい。空を飛ぶって、気持ちいいと思うわよ」
「……」
 半信半疑のまま、ウミは言われた通りそーっと身体を広げてみる。その時、一際大きな風の壁が2人を叩いた。
「あっ」
 お姉さんの小さな声はウミの耳には届かない。風に煽られて、お姉さんがウミの手を離してしまったからだ。上空から落下する体験を、ウミは生まれて初めて経験した。死ぬ、と本気で思ったのも初めて。下から突きつける風で息もまともに出来なかった。
 ―シュンッ。
 お姉さんが急降下しながらウミを通り過ぎた。次の瞬間には再びウミの身体が宙に浮く。お姉さんに抱き止められていた。
「セーフ」
「…………セーフじゃないよ! 私いま、死ぬかと思った! と、とにかく早く地上に降ろして!」
「はいはい」
 ちょっとバツが悪そうに頷いて、お姉さんはどこかの屋上にウミを下ろした。
 浮遊感から開放されて、ウミの身体は妙に疲労を覚える。普段は使わない筋肉を使っていたせいかもしれない。
「で。あんたのその感情の原因はなに?」
「え、感情? なに?」
「そういえばさっきまでの黒い感情が消えてるわね。どうやら吸い取り成功ってわけ」
「……?」
 お姉さんの言うことは、初めからウミにはさっぱり分からない。
「そういえばあんた、ぬいぐるみはどうしたの?」
「……あ!」
 いつのまに手放したのか、大切にしていたぬいぐるみが手元にない。
「うそ、どっかで落とした!?」
「あーあ」
 ショックを隠せず、ウミは項垂れる。
「まあ、いいんじゃない? 黒い感情、あのぬいぐるみにため込んでたみたいだし」
「……」
黒い感情とは何なのか? そういえば、ついさっきまで部屋で考えていたことが思い出せない。誰かの事を考えていた気がするものの、その相手の顔が全く浮かばないのだ。
「お姉さん、もしかして私の黒い感情を吸い取ったの?」
「そうよ」
 何ごとでもないようにお姉さんは答える。
「すっきりした?」
 お姉さんは満足したように笑いかけてきた。
 すっきり? ウミは自分に聞いてみる。むしろ心にモヤがかかったようだった。
「私の感情……返して」
 無意識に出た言葉だった。
「返してって、黒い感情を? せっかく悪いものを吸い取ってあげたのに」
 悪いもの? ウミは再び自分に聞いてみる。今となってはうまく思い出せないが、勝手に吸い取られたと思うとそれが急に尊いものに思えてくる。
「『悪いもの』って、誰が言ったの?」
「神様よ。堕天使は人の黒い感情、つまり悪いものを吸い取るのが仕事なの」
「あなたの神様が何なのかは知らないけど、私にとってその感情が悪いものだとは限らないじゃない!」
「なによ、急に」
「返して! 私の感情!」
 堕天使は黙り込んだ。人の黒い感情を吸い取って感謝されることはあれど、怒られるのは初めてだった。しかも吸い取り方は知っていても、吸い取ったものを返す方法は知らない。教えられていなかった。
「無理よ。返せない」
「勝手に吸い取っておいて、勝手なこと言わないで!」
「だってあんた、母親のこと嫌ってたじゃない。だからその感情を吸い取ってあげたのよ、何が悪いの?」
「母親?」
 言われて母親のことを思い出してみる。彼女のいいところはたくさん出てくるのに、悪いところは思い出せない。
 一緒にお風呂に入った。ごはんを食べた。料理をする後ろ姿。抱きしめて、抱きしめられて。ウミがイタズラをしたとき、母親は何て言った? だっこしてもらって、それから、それから……?
「……ねえ、神様に教えてあげて。黒い感情が悪いものだって、やっぱり思えないよ。お母さんは私にとって完璧なお母さんだけど、お母さんだって人なわけだし、私と同じで黒い感情を持ってたっておかしくないわけでしょ」
 なくなった記憶を思い出せなくて、大好きな母親のことしか考えられなくて、なんなのか分からない涙がウミの頬を伝った。
「私のお母さん、どんな人だっけ?」
 堕天使は何も言わない。だけどもう笑わない。彼女の心が謝っているのを、ウミは心で感じ取った。
「あなた、今、黒い感情を持ってるんじゃない?」
 ウミの問いかけに堕天使は顔を上げる。その瞳はひどく揺れていた。
「私は堕天使。黒い感情を持つことはない」
「でも、あなたにも感情はあるでしょ? あなたの神様を否定されて、嫌じゃない?」
「……嫌よ。だって私、神様が大好きだもの」
「その嫌って気持ちがあるから、大好きって気持ちが分かるんじゃないのかな」
 堕天使は黙った。ウミもまた黙る。伝えたいことは全て伝わったとウミは確信していた。
 吸い取られた感情が返らないなら、もう何を言っても仕方がない。堕天使はきっと反省している。きっとそれを神様に伝えてくれる気がした。
「相談してみるわ。吸い取った感情を返す方法。ぬいぐるみも探してあげる」
「ああ、いい。いらない」
「え?」
「思ったんだけど、吸い取られた感情ってもう過去のものだよね。私は『今』が大事だから、過去のことをとやかく言うのは、もう止める。お母さんの『これから』をちゃんと見ていくことにする!」
 ウミは堕天使に笑いかけた。週で一番のいい笑顔だ。
「……あんた、すごいね」
「なにが?」
「空を飛べるわけじゃないのに、私の黒い感情、吸い取っちゃった」
 堕天使は泣き笑いのような表情で、ウミの手を取る。身体が再び宙を舞った。
「部屋まで送るわ。しっかり掴まってて」
「わっ、飛ぶなら言ってよ、怖いんだから!」
 ウミの言葉は夜空に響いたけれど、堕天使は先ほどのように空高く飛ぼうとはしない。相手の事を考え、相手の弱点を受け入れ、相手を尊重する。不器用な堕天使は今夜、人から尊いものを教わったのだった。


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