人間は言語によって縛られている。

例えば、日本人が肩凝りを強く感じるのは「肩凝り」という言葉が存在するからだと言われている。

ロシアには肩凝りに該当する言葉が存在しないらしい。
なので、実際に肩凝りのような状態になっていても、症状として肩凝りを認知する人は少ないとか。

つまり、肩凝り、という感覚的な概念を言語というフィルターを通すことで存在を顕在化させ、意識させることへ繋がっている。

言葉にされ無ければ、表層に顕在化されることは少ないのだ。

それは言わば、言語に縛られているということだ、と僕は思っている。

僕はお酒の世界に10年身を置いているけれど、

どれだけ種類を飲んでも、何杯飲んでも、どれだけ説明しても、

その味や香りが全く記憶できない人がいた。(※業界内の人で、である。)

過去の飲んだお酒のテイスト、
お酒にある典型的なフレーバー
うまみ、酸味、苦味、えぐみ、甘さ、キレ…

それらが記憶できないし、その多くを感じることが出来ない。

僕はこれは多くの場合、感覚器の問題では無いと思っている。

もちろん、感覚器的にどうしても感じることが不可能な(あるいは困難な)人もいる。
僕だって感じられないフレーバーが数種ある。
得意な香り、不得意な香りだってある。

それはいささか仕方がないことである。それは個性なのだからそれで良いのである。

ただ、味を認識できない、あるいは記憶できない多くの原因は「言語化」が出来ていないことにあると思っている。

感覚と言語を結びつけて、言葉に意味を付与する。これをコード化と呼ぶ。

このコード化された概念を増やさなければ、感覚の経験値は蓄積されない。

例えば、「レモンのような酸っぱさ」と聞く、あるいは想像すると、人は唾液が分泌される。

これは脳の中にインプットされた味やフレーバーに言語を頼りにアクセスして、思い出し、それに伴って唾液が出る。

これを言語を頼らずに思い出せることは出来るだろうか。

レモンのような味という言葉を頼らずに、レモン味を思い出せるだろうか。

ほとんどの人が出来ないはずだ。

人間の脳は、感覚を記憶することに向いていない。

言語を頼りに、あるいは他の感覚器を頼りに、ようやく思い出せるのだ。

このコード化を意識して、味わっているかどうか、が味の記憶に大きな差を作るのだと思う。

僕は、言語には感覚を顕在化させる力があるのだ、と思っている。

潜在したままでは、問題になることは少ない。
しかし、いずれ問題にかるのだと思う。
言葉にできない不安、迷い、悩み、苦しみ、痛み、もどかしさ……

そういった感情を、言葉にならないからと放置して、心に蓋をすることは僕はやはり問題の先送りに過ぎないのだと思っている。

こうした漠然とした不安を顕在化させるために、僕は昨晩は「ヒマ」と「寝不足」という言葉を使って現状を表現してみた。

これが正しいかどうかも分からないし、コードとしては不適格だと思っている。

それでも、漠然としたまま顕在化しない形のない不安に囚われるよりかは、
「不安だ」と言葉にしてみる。
「こんな感じの不安だ」と表現してみたほうがいいんじゃ無いだろうか、と思う。

不安を先送りにしない。見たくないものから目を逸らして見なかったことにしない。
受け止めて、味わう。それを、きちんと言葉にする。それをはきだす。

僕の精神衛生には、とても役立っている気がする。

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