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ぼくが会社を辞めた理由。

これは言い訳のコーナーである。


自覚した上で始める言い訳など全く面白みはないけれど、まぁ、その上で書きたくなってしまったのだからその欲望に素直に在りたいと思う。

欲求を我慢しないこと、自分を偽って抱え込まないことが僕の精神衛生上にはいいらしいのでこれは仕方ないと思ってお付き合いいただきたい。
(もちろん、別にお付き合いいただかなくてもいい笑)


そもそも、僕が酒蔵に勤めたのは、発酵に魅了されたからだった。

工業高校の2年生だった冬、自分の進路を決めるにあたって、「何を生業として生きるか」を思い悩んだ。

工業高校なので、そもそもその時点で進学は論外だった。

であれば元から普通科を目指せば良かったからだ。

なので、就職に絞ることを決めた。しかし、給料とか、そんなことで進路を決めたくはなかった。

僕の条件は2つだった。

1つ目は好きを仕事にすること。
自分が飽き性なので、好きなことでなければ一生続けられないと思ったからだった。高校からの就職で有利なのは、大卒よりも4年早く社会に出て、前線に立てる、ということなので、
大卒者に負けないように先に経験値を積みたかった。そうすれば優位性が得られると思っていた。


2つ目は逆張りの投資をすること。
自分の勤める会社を選ぶことは投資に近いと思っていた。いわば株を買うようなものだ。
今は不利でも、いつか有利になる業界や、その時はだれも注目してなくても本質の備わった業界であれば未来で勝てる可能性がある。

今伸びている業界に飛び込むのは分かりやすく結果は出るかもしれないが、人生を掛けるには面白みが欠ける。

僕はいつも逆張り、長期でガチホの投資が好きなのだ(だから定期的に損を出す)

でも、人生を掛けるにはそれくらいのほうが面白いと思ったのだ。


その二つを満たす条件で自分の中で「これだ!」と思ったのが日本酒の世界だった。

もうこれしかないと運命を感じるくらいだった。


結果的に日本酒の逆風は入社5年くらいで転換して、8年目くらいから追い風を感じる時代が来た。僕の勤めた会社は大きな追い風はなかったけど、まぁまぁ、楽しかったのだ。


でも、僕は同時につまらなさも感じ始めていた。

だって、僕は自分の手で日本酒の魅力を大いに伝えて、気付いてもらって、「どや」ってしたかったのだ笑

だから、すでに僕が酒蔵の中から伝えることは無くなってしまったなーと心の端で思っていた。


もちろん、そんなモチベーションでは続かないので、「次は甘酒の時代が来るから売ろう」とか、「いや、蒸留酒の時代が来るんじゃないか」と奔走したりした。

結果的にそれも楽しかったし、自分の知識の幅を大いに広げる役にたったので、良かったのだけど、

今思い返せば、やっぱり心の端でつまらなさを感じていたのだ。


そんな中で僕はやはり奔走した。

僕は勤める酒蔵が大好きだったし、杜氏が大好きだったし、その大好きな人がつくる酒の魅力をもっと多くの人に知ってほしかった。

僕の営業マンとしての4年間は悔しさの発露と言える。

「こんな旨い酒が何でもっと認められないんだ」と。

そのためには余裕のある投資ができる状態にしたかった。

中小企業は常にリソースが不足する。そのリソースを最適化することが勝ち目を出す方法だ。弱者の戦略、ランチェスター戦略にのっとって、資源は集中化して、短期で一点突破が定石なのだ。

しかし、僕にリソースを配分する権限はなかった。

であれば、リソースを増やせるようにするしかなかった。リソースは「ヒト・モノ・カネ・時間」のことだ。

ヒトを増やす権限はなかった。
時間は投入できる限界がある。しかも投入すればするほど効率が落ちる。
モノを得る権限は少なかった。すでに有るものを活かすことはできるので、頭を使うしかなかった。
最後のカネ(コスト・予算)はコストに見合った売り上げを伸ばせば増やせる可能性があると思った。

なので、僕は自分のリソースを少しでも増やすために、まずは四の五の言わずに売り上げを伸ばそう、と。短期的にも結果を出して長期的に自分のやりたいことをやれる環境を作ろう、と思った。

失敗することがほとんどだったけれど、結果的に僕は幾度か成果を出すことができた。

最後まで出し続けることこそできなかったけど、自分の出した結果には概ね満足している。

が、しかし、僕の手元に回ってくる予算は無かった。

これは僕が組織運営のネゴシエート能力が当時なかったからかもしれない。予算を取ってくる、という概念が当時薄かったので、今の僕であればもう少し予算が引っ張れたかもしれない。
まぁ、タラレバの話である。忘れてほしい。

結果的に、僕は謎の敗北感と、短期的に伸ばした売り上げの代償として苦しい時期を経験することになった。

それももちろん、振り返ればいい経験である。

そんな経験値を積むことは、僕を大いに考えさせ、成長を促進してくれた。


でも、僕はさらに進むしかなかった。負けたままでは終われないので、前に進むためには自分以外の人も含めてチームとして機能させ、全員で力を合わせて勝てるようにするしかないと思った。

だから僕は自分で打診して、検討してもらった結果、マネージャーに上げてもらった。

8人の部下を抱えることになった。8人中7人が年上という異質な環境だったけれど、これしかないと思った。

僕は大好きなこの蔵を、この酒を守るために、僕自身が経営者だと思って、全て抱えてこの困難を飛び越えたいと思った。
そのためには、すべてを甘んじて受け止めて、血を流しても、ボロボロになっても結果を出そうと思った。

幼い娘が生まれた環境で身を粉にして働こうとする僕は家庭の理解は得られず(当然である)

家庭と仕事の両立の難しさ、人を使う難しさ、圧倒的なリソースの不足を苦しみ、悩みながら奔走した。

全部抱えて、飛ぶために。

でも、僕がどれだけ自分が経営者だという責任感で仕事にあたったところで、経営陣に意見をいったところで、それは船頭が2人いることにしかならなかった。

僕の暴走にしかなり得なかった。

自分の力不足と、結果の出せなさと、惨めさを感じた。

僕には創業170年の酒蔵を抱えて飛び上がれるような能力も無かったし、自分が経営者だと思って自分のリソースを割いたところで、その還元はなかった。

僕は所詮、ただの28歳の若造だった。

とんだ甘っちょろい理想だったのである。


そんなある日に僕は倒れた。休職を余儀なくされた。


抱えて、抱えて、抱えていたものがはじけ飛んだ時、僕は自分が無理をしていたことに気付いた。

自分の背丈の2倍も3倍の役割を果たそうとしていた。

でも、役割を果たすことより、もっと大切な生き方があるんじゃないかと思った。

自分を大切にすること

家族との時間を大事にすること

幸せを感じて生きること

そんな人として当たり前のことを大事にして生きてもいいんじゃないかと思った。


そして、元気になるのが見えてきたころには、僕はかつての無理をしていた自分の領域が到底無理なところにあることに気付いた。

そして、そこへ戻るためにはさらに時間を要することに気付いた。


これを自分が本当に望んでいるのか問続け、自分の心に素直に従うことにした。

だから、退職した。


僕はやっぱり逆張りの投資が好きなのだろうな、と思った。

安定を求めて生きたことはなかったし、いつかは自分の足で立ちたいと思っていた。

「いろんな人が会ってくれるのは、本間君の一人の力じゃないんやで、西山酒造の看板があるからなんやで(だから思い上がったらあかん)」と言われたときから、

じゃあ、ただの僕になったらどうなるんだろう。とワクワクしていた。

それが、ほんの少し(?)のきっかけで早まっただけだし、むしろ焦らずにじっくりと準備期間をとれるようになったのである。


ああ、もう、ほんと只のいいわけだなぁ。


僕が、僕の足で立って、きちんと歩けるようになるにはまだ少し時間がかかるのだけれど、

僕は、大切にしたいものの軸を、ものさしを、誰かに借りていたものから、自分のものに持ち直して、生きてみたいと思う。


そんな生き方が、僕には向いているような気がしたのだ。

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