そろそろ病みそうになってきたのかなぁ。


強がらないし、嘘をつかない。

それを決めたし取り繕うのも辞めようと決めた。

それでも僕は愛想笑いをするし、話を合わせたり、場に合わせて盛り上げようとする。

随分前、8年くらい前から4年くらい前にかけて、割と時間をかけて上手に笑う練習をした。大抵の場合、僕はそこそこ上手に笑っているはずだ。と思う。

人間ってのは左右対称に笑える時は大体本心で、作り笑顔だったり邪心の混ざる笑顔は不均等になる。

だから、大体どんな時でも左右均等に近づくような練習をやった。

無理な時は僕は首を少し傾けながら笑う。

これをすると左右対称かどうか判別がつきにくいから作り笑顔でもバレにくい。

人間の目には補正効果があるから、角度を変えるだけでポジティブに自動補正される。

マスクをしている女性は美人に見える理論と同じ。

見えない部分は自分に都合のいいように置き換えるので印象が良くなる。


そんな風に、自分の印象を少しでも良くして、本心がバレないように、取り繕って、取り繕って生きてきた。ような気がする。


腕組みは心の壁を表すし、動揺は顔周辺に触れる動作を表す。

考えている時の目の位置で考えているのか、本当は考えていないのかも分かる。


逆に、心臓のあたりに手をかざす動作は心を開いている動作なので相手に無意識に安心を与えたりする。


こういうのを印象心理学とか行動心理学とかいう。


僕は、表情から無意識にいろんな情報を受け取ってしまうから、それをもとに、相手が喜ぶようにふるまって、逆に知られないような工夫を凝らして、そんな八方美人に対人の情報処理をする。

今は意識的にやってることはほとんどないけど、無意識のうちにやっている時がある。

そんな時は派手に疲れる。やはり自然な状態ではない。


薬をやめてみて1ヶ月強過ぎて、大きな心理的落ち込みは無く居る。

それはとても良いことだ。とっても満足している。

ただ、常にベストな状態にあるかというと、もちろんそんなことはない、低空飛行な時もあるし、普通な時もある、高揚するときは、少ない。

そんな感じ。

そんな時期が続いて、そろそろまた次の凹みの波が来ているかなーという気もする。

こういう時は、たいてい行動を失敗する気がする。

なにかに焦っているからだ。


「常に考え続けなければ生きている意味がない」そんな風に思っていた時期が長い。

今でも手持無沙汰になった瞬間に「考えろ」と自分につぶやいている時がある。ハッとする。


焦らずに、立ち止まって、アンダンテ。歩くような速さで、風を感じながら緩やかに進めばいいのに、やはり気付けば僕は何かに焦っている。


苛立ちが止まない時がある。

もはや自分が何に苛立っているのかわからない。

目に映る全てが苛立つような感覚に苛まれる時がある。


もはやそんな時は心安らかに座禅をして般若心経と光明真言と好きな仏さんの真言を唱えるしかない。


苛立ちの後には、後悔と自責が始まる。


僕は小さいころから苦い薬を飲むのが好きだった。

自分の罪が、罰せられて、許されるような感覚があったからなのかもしれない。

後悔も、自責も、なんの意味もないし、全く必要ないことはよく知っているはずなのに、やはり心のどこかで自分を責めていたりする。

そんな自分も含めて、ひっくるめて、全部許して、認めて、全力で肯定してあげたらいいのだけれど。


なかなか、当事者のままではうまくできないものだ。

すこし、離れて俯瞰する必要がある。


そのために僕は書く。今日も書く。この作業をさぼれば、やはり僕は僕でいられない。

そろそろ病む時期が近づいてきているだろうか。

黒い黒いもう一人の僕が、見えるようになるだろうか。

彼とは、一度じっくりゆっくり、膝を突き合わせて語り合いたいのだけれど。


今日、すっごい久々にコーヒー飲んだの悪かったかなぁ。



おしまい。

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