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子供だましと侮るなかれ



時に幼稚で子供だましと揶揄されることもあるレクリエーション。だがその威力は計り知れない。入居してから一度も笑うことのなかったおじいさん。寝たきりの生活を余儀なくされていたが、少しずつ離床時間を増やし、トイレに通い、普通のお風呂に入ることで、寝たきりから脱却し、穏やかな生活を取り戻していった。しかし、依然として笑顔をみせることはなかった。

そんなおじいさんを、ダメ元で風船バレーに誘ってみた。風船バレーとは、遊びリテーションのキングオブキング。その盛り上がり様は、体験した人にはわかるだろう。大の大人がひとつの風船をめがけて打ち合う。レクリエーションを子供だましだとのたまう人たちは、おそらくお年寄りと風船バレーをしたことがないのだろう。インテリを気取ったあのおじいさんも、自分の内的世界に身を委ねるあのおばあさんも、誰も彼もが必死になって風船を打つ。何より一番に風船を叩き出すのは職員だったりする。その空間だけは、介護する側される側の隔たりが揺らめき、一体となって遊ぶ、童心を取り戻した子供さながら、そんな場となるのだ。

そんな不思議空間に、一度も笑わないおじいさんをダメ元で連れ出してきた。内心難しいかな、と思わないでもなかったが、その心配は杞憂に終わる。

なんと、おじいさんが一番懸命に打ち返し、一番笑って楽しんでいたのだった。あぁおじいさんはこんな笑い方をするのか。その時始めておじいさんの笑顔と出会ったのだ。


レクリエーションを侮るなかれ。
生活には決して必要不可欠ではないだろう。だが、どうして僕らは遊ぶのか。衣食住のその外の世界をなぜここまで大切にするのだろう。

コロナ禍により、管理される社会が当然となってきた。それは、自己を律すること全てが善とされる価値観が蔓延る中、そう振る舞うのが「大人」だからだろうか。しかし、人は「大人」の部分だけでは生きてはいけない。自己選択自己責任と、全て自己に背負わせるその対極線上に、管理も成長も何も存在しない、ただ目の前のことに集中し共有する「子供」の位置が存在するのではないか。その「大人」と「子供」を行き来できてこそ、人はたおやかな生活を送れるようになるのではないかと思う。

高齢者施設で行われるレクリエーションは、その「子供」を引き出す最たる手段だ。なにせ職員までもが子供のようにはしゃいでしまうのだ。そうやって、介護の場からひとつ降りることで、お年寄りとの時空間を共有し、関係が育まれていく。


「ともちゃん…またやろうや」


ごちゃごちゃと考えている僕に対して、悪友を誘うかのように、おじいさんは笑顔でそう僕に約束してくれた。


レクリエーションを侮るなかれ。
この子供だましは、お年寄りの笑顔を引き出す、最大の武器になりうるのだ。

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