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介護と生産性



入居当初からの排泄ケアの取り組みによって、オムツからリハパン、そして布パンツへ変更したおばあさん。
家族さんへ報告の電話をする。

「ありがとうございます…母はこのままオムツだと思っていたので、とても嬉しいです」

とお返事をいただいた。
完璧とはいかないまでも、少しでも普通の暮らしを目指すことは可能だ。

さて、介護は生産性のない仕事だそうだ。だとすると介護をすることは意味がないことなのか。それをオムツを外すことを通して、 考えていきたい。

社会的な意義とすれば、オムツが外れ、トイレへの誘導が少なからず日中は成功するとなると、そのオムツの費用は激減する。その方の状態に合わせたパッドを使用するだけでいい。ちなみに施設ではパッドの見直し、新たなパッドを導入し、排泄に掛かる費用が月十数万円コストダウンした。
さらにオムツを外すために環境を整えることから、日の動作が自立する方向へ向かう方が少なくない。自分でできることがどんどんできるようになってくる。すると要介護度が改善。介護保険費用の節約にも影響する。国が自立支援介護を声高に訴えることの本音はここにあるのかもしれない。

こういった社会的な意義は確実にある。ただ、現場の一介護職はあまりそのことを考えてはいない。

「スッキリ出て良かった~」

その一言が、その嬉しそうな顔を見ると、嬉しくなってくるのだ。

人は生まれた時は全てに依存している。それが成長と共に少しずつ自立という方法を選択するようになる。
母親と子どもはある時までは一心同体かのような存在となる。それが、排泄の自立という行為によって羞恥心が芽生え、子どもに、自分と母親は違う存在なんだと自覚させる。自己同一性、自分らしさの根底となるものがここで育まれていく。

その自分らしさの根幹部分を、歳をとってオムツを容易に当てるという行為が、根こそぎ奪いとっていくのだ。
見ず知らずの人間に、数や量で見られるオムツ交換という画一的業務にあてがわれた時、その自己は崩壊する。

オムツが外れ、再びトイレで排泄できるようになるというのは、この自分らしさの再獲得をするということだ。これを目指さずして、何を目指すというのだ。

無論、最後はオムツのお世話になる時がくるだろう。その時、あのオムツ外しは無駄だったと思う介護職はいない。再び自分を取り戻したおばあさんの顔が目に焼き付いているのだ。あのたゆまない日常があったから、おばあさんは最後まで自分を生きたと思えるから。

介護は生産性のない仕事だそうだ。果たしてそうだろうか。そんなことはない。
自分らしさの根底を支える、その最後の砦となるのが介護だ。今、たまたまマジョリティ側にいるだけの生産者が、その身朽ち果て何も産み出さなくなったとしても、僕らはあなたの自分らしさを生み出そうとするぜ。その時あなたはなんと言うだろうか。
きっとこう言うだろう。

「スッキリ出て良かった~」

ほら、あなたらしさを生み出しただろう??

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