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蒋介石「日本が強国たり続けているのは、中国の哲学に力を得ているから」。日本の陽明学。これはイノベーションの原動だ。

薄っぺらい金儲けなどイノベーションではない。真のイノベーション、世界を糺(ただ)す学とはどのような智か。

「書を読むに志は聖賢にあり、科挙にあらず」。

王陽明は子供時代、塾師にこう反論し、彼を大いに驚かせた。

 陽明学。「ただ本を読むことではなくて、体験を持って真理に到達する」。三島由紀夫はこの学の特質をそう呼んだ。これが知行合一。これこそ、日本の陽明学を中国のそれとは異なる独特の哲学へと昇華させることになる。

 なぜ陽明学が打ち立てられなければならなかったのか。朱子学では足らなかったためである。もちろん同じ儒教の一派として、根本原理は一にしている。「道徳を持って、人を感化する」。これである。

 しかし朱子学は官僚の学問だった。上に立つもののみに道徳性を求め、庶民は単なるお客さん。これに異を唱えた王陽明は、『大学』の「新民(民を強化し振起させる)」という朱子の説を「親民(民と同じ地平で民と親しむ)」と改める。

 さらに格物窮理はどうか。(「格物」は、物事の道理を極めること。「窮理」は、物事の道理や法則を明らかにすること。http://4ji.za-yu.com/2007/06/post_273.html )。彼はこの言葉も、外の物事を見るのではなく、「自己の心内の物(事柄)を格(ただす)す」と解釈した。あくまで、内に真理を求める。

 主敬静坐。朱子が重視した言葉だ。「精神を統一し、物事の理を解明する主体性を獲得すること」であり、仏教の瞑想に近い。ただし仏教の瞑想は、なにか絶対的なるもの、無限なるものと合一することを目的としている。比すると、かなり異なったものであると言えよう。(『日本朱子学論』 https://matome.naver.jp/odai/2139667141227344701 )

 一方王陽明は、その主敬静坐では「ない」とした。そうではなく事上磨練、「日常生活の中で修練する」べきだと主張したのである。観念的・仙人的な日常を離れた教えではなく、極めて実践的な思想である。イノベーティブですらある。

 日本に朱子学と陽明学が輸入された時、それらはどう捉えられたのだろうか。朱子学は知識中心の細密な学問。陽明学は心を涵養する奔放な学問と捕らえられるようになる。そして陽明学は実践知として、吉田松陰・西郷隆盛・佐久間象山ら維新の志士に多大なる力を与えた。

蒋介石がこう述べている程だ。

 「日本が明治維新から現在に至るまで、・・・強国たり続けているのは、欧米の科学に力を得ているからではなく、中国の哲学に力を得ているからである」(23ページ)。

「すなわち、王陽明の『知行合一』『到良知(後述します)』の哲学がそれである」(23ページ)。

 他にも孫文や初代北京大学総長の蔡元培もそうだが、清の末の革命家に、”日本の”陽明学が逆輸入され革命の原動となった。

 それでは日本の陽明学と中国の陽明学との最大の違いは何か。中国のそれは、道徳を民衆に伝える役割が主であった。礼であるとか孝の重要性を宣教するのである。しかし日本のそれは、松陰や西郷らに見られるように宣教などではない。

なにか?
一人一人の超俗の覚悟、精神的覚醒、宇宙的自我の確立
など、個人の内面世界を掘り起こす思想だ。

 これを受けて西田幾多郎は「到良知」(至上善、絶対善のこと)についてこう記述する。
 
  到良知(至上善、絶対善)とは何か。

 「真の善とは、・・即ち真の自己を知るということに尽きる。我々の真の自己は宇宙の本体である。真の自己を知れば・・人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実に此処に尽きている」(長谷井超山、『陽明学』七七号、大正4年)(本書22ページ)。

 以前、現代の優れた起業家達に「儒教」の流れを見て取ることが出来ると述べさせていただいたが、より正確には「陽明学」、さらには「日本の陽明学」という言い方が正しい。これは神道の影響を多分に受けているためだと本書には述べられている。日本の強さ、原点をここに垣間見ることが出来る。

王陽明(2005)『伝習録』中公クラシックス より。

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