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あるお母さんから問われました。「人を幸せにしますが、同時に不安にもさせるひとことって、どんな言葉だかわかりますか?」

ある保護者のお母さんにこう問われた。

「人を幸せにしますが、同時に不安にもさせるひとことって、どんな言葉だかわかりますか?」

「全くおんなじ言葉に両義性があるということです」

「う〜ん、なんだろう?面白いですね。ちょっと考えさせてください」

「はい。もちろん」

そこで私が考えついた言葉とは、「愛してる」だった。

なぜこんな話をし出したかと言えば、お金について考える機会があったからだ。マックス・ウェーバーやマルクスと並び称されることも多い社会学者、ジンメルの貨幣論である。

Simmel, G. (2004). The philosophy of money. Routledge. より

1.「我々は、すぐさま手に入らない時にだけ、物を欲するのだ」。 
Kindle位置No.13424中2550

そうしたものは確かに高価だ。しかし貨幣の本質はこうであるとする。

2.「犠牲というものが存在していて初めて、モノに値段というものを付与することが出来る」。 Kindle位置No.13424中2976

下の意見はアダム・スミスの『道徳感情論』と同じ論である。すなわち、人が骨を折った労苦に対して対価が支払われるべきだという話だ。ジンメルは「労苦」よりも「犠牲」という言葉を好んで使う。

だが、現実には上(1.)の意見に基づいて、モノの値段が付けられている。犠牲などというものに目をくれる機会など、生きていてほぼ皆無だ。

「自己に回帰しろ」とは数多の哲学者のことばである。ヘーゲル、キルケゴールから、ユング、釈迦まで。ヘーゲルやキルケゴールが明確に述べているのは、犠牲無くして自己に回帰することはないということだ。自己実現は究極の犠牲、「死」の上に成り立つ。陽明学や武士道の体系もそれを支持している。つまり自己とは死や犠牲と同義。そして犠牲に価値を置く自己の世界とは、逆説的だが充足・満ち足りた世界となる。

これに対して自我の世界はどうか。我の強さとか、エゴに基づいた世界。ここは欲望の世界であり、決して満ち足りることがない。自己と対極の価値観を持つ。

自己の世界は「犠牲」に最高価値を置き、
自我の世界は「欲望」に最高価値を置く。

そして現代社会での貨幣は、ジンメルの最初の言葉(1.)に象徴されるように、自我の価値観に基づいて基礎づけられている。

労働とは「何かを犠牲にすること」だとジンメルは言う(ジンメル 位置No.1324中2990)
。であるのだから、犠牲に基づいて貨幣が価値づけられている時、初めて経済はまわるのだ。欲望に基礎立てられている経済は破たんせざるを得ない。

そこで最初の逸話に戻ろう。犠牲(自己)と欲望(自我)を橋渡しするものがあるということだ。少々芝居がかってはいるが、それが「愛」である。

つまりだ。もし人が仕事を愛していたらどうなるのか。その仕事も、他者から見ればバカな犠牲であろう。しかし仕事自身を心から愛しているのであれば、彼女はその犠牲を馬鹿な犠牲などと感じることはない。死を賭したその経済活動を超える力などあり得ない。欲望からの迫害程度に揺らぐはずがない。

ライフアントレプレナーという起業家たちはこうした生き方をする。自らの人生を賭けてなすべきことを事業にし、社会に貢献しながら人生それ自体を楽しむ人たちだ(Gergen, 2008)。この価値観を持った起業家が行き渡ればどうなるのか。犠牲に基づいた経済圏が確立されるのだ。そしてこうした天命を得た起業家は着実に増加しつつある。これについては私の論を待ってほしいが、経済が再生する手段としてはこれ以外の方策を思いつかない。

参考文献

Christopher Gergen, Gregg Vanourek (2008) Life Entrepreneurs. Jossey-Bass

Simmel, G. (2004). The philosophy of money. Routledge.

アダム・スミス, & 高哲男. (2013). 道徳感情論. 講談社.

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