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拝啓、クソガキの俺

小さい頃から僕の将来の夢は『プロサッカー選手になる』その一択でした。なぜそう思ったのか理由はあまり覚えていませんが、ただサッカーをするのが楽しくて、一生サッカーをしていたいという安易な考えからだと思います

サッカーを始めたきっかけは3歳の誕生日で、プレゼントにサッカーボールを貰ったのが始まりです。ボールを貰ってからは毎日大事に抱えていたと、父に言われました。

僕がサッカーを初めて1番最初の挑戦は母でした。小学生1年生ぐらいの頃、ノーバンのリフティングが5回出来たらDSのポケモンのゲームを買ってもらう約束をしました。当時ポケモンが大好きだった僕はゲームを買ってもらうためにリフティングを練習し始めました。

そのリフティング5回が僕にとって最初の壁で、ゲーム欲しさに毎日練習しました。4回までは割とすぐ出来るようになったのですが、なぜか5回出来るようになるまで2〜3週間ぐらいかかりました。

なので初めてリフティングが5回出来た時の喜びは今でも覚えているし、ゲームを買ってもらうことよりリフティングができたことの方が嬉しかったです。多分この時にサッカーにはまって、もっと上手くなりたいなぁと思いました。

僕は当時米田SCという小さな町クラブに行っていました。お父さんがコーチをしていて、ふたつ上のお兄ちゃんもそこに行っていました。

今思い返せばこの時が僕の全盛期で、弱いチームで一番うまかった僕は全方位からチヤホヤされました。お兄ちゃんと一緒に試合に出たりもして周りのみんな「すごいねすごいね」と言ってくれました。

しかしそんな全盛期も長くは続かず、兵庫FCへの移籍をきっかけに僕の栄光は奪い去られまきした。

兵庫FCは県内でも有名な名門チームで、何度も全国大会に出場している強豪でした。もっと強いチームでサッカーがしたいという思いから、お父さんに頼んで入れてもらいました。入る前は、まさかこの決断が僕をどん底へ突き落すことになるとは思ってもみませんでした。

自分が世界で1番上手いと思っていた小学生の僕は兵庫FCに入って初めて上のレベルというものを知りました。めちゃめちゃ上手い選手がゴロゴロいて、みんな意味のわからない言葉の戦術を話していました。

人生で1番最初の挫折でした。自分はプロサッカー選手になれないんじゃないかと現実を知り落ち込んだし、入ったばかりの頃はあまりチームに馴染めずにいました。

そんなときお父さんから1冊のことわざの本をもらい、最後のページに僕へのメッセージが添えられていました。

そこには太い字で『至誠』と書かれていて、『上手くできなくても一生懸命頑張り続ければいつかその姿を見てみんな認めてくれる』という意味でした。
この言葉が当時の僕にとってすごく救いになって、とりあえず最後まで兵庫FCで頑張ってみることにしました。

少しでも上手くなれるように朝も昼も学校が終わってからもとにかく練習して、メッシに憧れていたのでドリブルを重点的に練習しました。

続けていくうちに少しずつ成果が出てきて、お父さんの言ったようにみんなとも打ち解けて、徐々に試合にも出られるようになりました。

そんなこんなで5年生のときにはひとつ上の学年に上げてもらいました。しかし、当時の6年生は後に全国3位になるほど強くて練習に全くついていけませんでした。

いつしか練習に行くのも怖くなって試合の前日はわざと裸で寝て風邪をひこうとしたり、熱を測るときに脇を擦ったりしていましたが、いつも見抜かれて休ませてもらえませんでした。

このときの僕はずっと兵庫FCを辞めたいと思っていました。

そんな情けない5年生の暗黒時代をなんとか乗り切り僕は6年生になりました。しかしそんなことをしていたからバチが当たったのか、6年生の最後の大会は怪我で1試合も出られないまま終わってしまいました。

負けた時、悔しい気持ちよりもうみんなとサッカーができない悲しさの方が強くて、そのとき初めて自分は兵庫FCが好きだったことに気がつきました。

みんな口が悪いしミスしたらすぐ文句を言けど、みんなサッカーが大好きでみんなでプロサッカー選手を目指して頑張っていた時間はとても楽しかったことに気がつきました。

試合が終わった後はなんともなかったけど、卒団式で「我らが兵庫」を歌ったときは寂しくなりました。これが最後なんだと、初めて仲間との別れを経験したときでした。


全然上手くなくてもプロになる自信だけはあって日が暮れても毎日ボールを追っていた小学生の頃は、毎晩布団の中でプロになる自分の姿を想像していました。

シュートを決めた時が1番嬉しくて、ドリブルで相手を抜くと気持ちが良くて、しんどいことが嫌いで、守備なんか大嫌いで、戦術は全く理解が出来なくて、そんな甘ったれた小学生時代を卒業し僕は中学生になりました。


中学

中学は兵庫FCのジュニアユースには上がらず兄も行っているVIVOフットボールクラブに入りました。

中学生になっても相変わらずサッカーにどっぷり浸かった生活ができて、新しい仲間や素晴らしい指導者にも出会いました。

中学生になった僕の課題は、敬語を使えるようになることでした。まだまだ小学生気分の抜けていなかった僕はサッカー以前の問題で怒られることが多くて、遅刻、忘れ物、練習態度、どれも問題ありで協調生に欠けていました。

ある日の試合では途中交代に納得できず、監督を無視してしまったり、ゲーム禁止のバスの中でゲームをしたのがバレて試合に出られなかったりもしました。

普通はそんな選手干されて当然なのに、未熟な僕を監督は厳しく叱ってくれて、何度も正そうとしてくれました。そのおかげで3年生になる頃にはあまり怒られることも無くなりました。

本当に愛に溢れていて、仲間を家族と呼ぶチームで、vivo familyって言葉が好きでした。このチームにも本当に感謝してるし、いつか人工芝のグランドをプレゼントしたいなと思っています。

たくさん迷惑をかけて、たくさん失敗した中学3年間はまさかの兵庫FCのジュニアユースに負けて引退しました。めちゃくちゃ悔しかったけどすごく楽しい3年間だったし自分のプレースタイルも確立できて、高校もサッカーで決めることができました。

あまりにも楽しい3年間だったので、立ち直るのに時間がかかりましたが、この言葉のおかげで次に向けてまた進むことができました。

高校を選ぶときもわざわざ遠い会場まで車で送ってくれたり、悩み事や進路相談にも親身になって話を聞いてくれて、中学の監督は第二のお父さんみたいな存在でした。

卒団してからも活躍を見守ってくれたり、OBとして練習に参加するとすごく喜んでくれるこのチームがいつまでも変わらず大好きだと思います。

この3年間があったから高校でもサッカーを続けられました。本当に心から感謝しています。


高校生

コロナの影響もあって少し遅れての入学になりましたが、高校は芦屋学園高校に進学しました。

僕は高校サッカーがとても楽しみでした。たくさん上手い人が来るのがわかっていて、試合に出れるかは不安だったけどその何倍も楽しみの気持ちが強くありました。

しかし入部して早々に事件を起こしてしまい、ひとつ上の先輩に胸ぐらを掴まれるハメになってしまいました。

なぜかというと、その先輩はBチームのキーパーでやる気のないような言動や行動をとっていて、それにムカついてしまった僕は小さい声で「帰れよ」と言ってしまいました。

それが先輩に聞こえてしまい、練習が終わった後に呼び出されました。

僕はダッシュでその先輩の元へ行き謝ろうしたのですが、高圧的な態度で上からものを言われたのについカッとなってしまいその先輩に舌打ちをしてしまいました。

それにブチギレた先輩に思いっきり胸ぐらを掴まれて壁にドーン!

皆んなの前では余裕そうに振る舞いましたが、実際はめちゃくちゃビビりました。でもすぐに先生が来てくれて解決してくれました。

高校に入って早々にやらかしてしまいました。

それからすぐ小学6年生で怪我をした所がまた痛むようになって、これ以上悪化させない為に手術をすることになりました。

人生で初めて3ヶ月もサッカーが出来なくなって、ひょんな出来事から新しい夢に出会いました。

その夢についてはこちら↓


自分の中でたくさん悩みましたが、プロサッカー選手の夢を諦め別の夢を追う決意をしました。そしてサッカーは高校で辞めることを決め、芦屋学園を全国大会連れていくことを最後の目標にしました。

当時の芦屋学園は新人戦は優勝したけど全国出場経験はなく、全国大会に行くことを1番の目標にしていたので、僕が卒業するまでに必ず成し遂げてやろうと決心しました。

そしてサッカーに全てを捧げるためプラス、バスケットの河村勇輝選手にものすごく憧れて高3になるまでずっと坊主でした。(笑)


芦屋学園を全国に連れていくと決心したものの、1年生の頃は全く試合に絡めませんでした。選手権は無観客だったので応援にも行けず、カラオケで友達と3年生の試合を見ていました。なので3年生が負けて引退した時も悔しいって言う気持ちより、もう1年が過ぎた事への焦りの方が強かったです。

僕は3年生が引退してようやくトップチームに上がることができました。でもトップチームに上がってからずっと怒鳴られっぱなしで、最初の頃は練習に行くのが怖かったです。いつかの兵庫FC時代を思い出しました。

疲れて家に帰ってもまたすぐに朝が来て全く寝た気がしないまま学校に行く日が毎日続いて、学校を休もうかと考える日もありました。僕が唯一大好きなサッカーが、考えるだけで憂鬱な気分に変わってしまうほどでした。

ほんとにキツイ時間でしたが隣にいる仲間も同じ気持ちだと分かり、みんなで一緒に乗り越えることができました。そして新人戦が終わった春合宿ぐらいから少しずつ試合に絡めるようになって、ちょくちょくスタメンでも試合に出られるようになりました。

でも、あと1週間でインターハイが始まる!って時に左手首を骨折してしまい全治6週間。気合いで4週間で治しましたがインターハイには間に合いませんでした。

インターハイは順当に勝ち進んで行き三田学園や滝川第二を倒してベスト4まで行きましたが、準決勝で関西学院に負けベスト4、3位決定戦を神戸国際高校と戦い、それに勝って3位で終えました。

芦屋学園としてはここ数年ベスト8の壁に阻まれていて、それを越えられたのはすごくいいことでしたが僕個人としてはあまり嬉しい結果ではありませんでした。勝ち進むた度に良くなるチームの雰囲気や経験を積んで成長している仲間を見て、自分がどこか蚊帳の外にいるような気分だったからです。

自分はベンチにすら入れずライブ配信で試合を見ていて、試合に勝って大喜びしているみんなの輪の中に自分の姿はなくてそれがとても悔しかったです。

なので芦屋学園が勝ち進むことは確かに嬉しかったけど、その姿を見て劣等感を抱いたのも事実でした。早くケガを治して練習に復帰して、選手権こそは自分のあの輪の中に入りたいと強く思いました。

そして怪我を治して無事に練習に復帰しましたが、次は1ヶ月後に選手権がはじまる!って時にまた腰椎を骨折してしまいました。調子が上がってきていただけにとても悔しかったですが、今度はギリギリ大会に間に合ってメンバーには入ることができました。

しかし試合には全く出られないままインターハイと同じベスト4まで来ました。インターハイとは違い喜びの輪の中にはいるものの、全く試合に出ていない自分が素直に喜んで良いものかモヤモヤを抱えていました。

チャンスが欲しかったし、もしチャンスがきたら必ず結果で示してやると思い準決勝の前日は小さい頃からずっと練習していたグランドを巡り初心に帰りました。

準決勝の相手は相生学院。相手は今年が初のベスト4でした。

試合は1-1の同点で前半を折り返し、後半に初めて僕の出番が回ってきました。ずっとこの瞬間を待っていたし自分なら必ず結果を出せると思っていました。

でもいざ試合が始まってみると全く力が及ばす、40分間何もできないまま試合は終わってしまい、後半に追加点を決められ負けてしまいました。

3年生には申し訳なかったし自分が情けなくて仕方がありませんでした。もっと強くなりたいと心から思いました。


高校3年

自分が3年生になって、いろんな意味でも最後の1年が始まりました。

今度こそ必ず全国大会に行くと心に誓いこの1年で全て出し切って、サッカーに未練を残さず終われるようにこのnoteで発信を始めました。

僕たちの代は特に期待されて、今年は勝負の年だとずっと言われていました。昨年のベスト4のメンバーの半分以上が僕たちの代で僕自身も今年こそは絶対に全国に行けると思っていました。


3年生での大きい大会は新人戦、インターハイ、選手権の3つだけです。この中で一番最初に来る新人戦は選手権でが終わってから1ヶ月後にはもう予選が始まりました。

なので選手権の熱が冷めないまま、練習にもみんな気合いが入っていました。今年は3つのタイトルを全て獲るんだという強い気持ちで新人戦に臨みましたが、コロナの影響により本戦の3回戦で棄権負け。

燃え上がっていた炎が一気に冷め切って、虚しさが残る結果になりました。その後も学級閉鎖や濃厚接触がタイミング悪く続き、サッカーに打ち込みたくても満足に打ち込めない時間が続きました。

上手くいかないことだらけで不安になりました。でも下を向いている時間はないし、インターハイで優勝して全国に行けるようにそれぞれが力をつけるしかありませんでした。

そんな中、コロナ休み明けのチームの雰囲気は最悪でした。人のミスに文句を言い、切り替えが遅く、責任をなすりつけ合うような、そんな最悪のチームになってしまっていました。

チーム競技なのに1人でサッカーをしているような感覚で、自分さえ良ければいい、出来ない奴が悪い、口には出さないけどみんなそんな雰囲気でこのときは全くサッカーが楽しくありませんでした。

そんな負の積は解消されないままインターハイ予選が始まり、勝ち進みはするものの「全国を目指すチームには見えない」と監督に言われました。

僕にとってはサッカー人生最後の1年で、思いっきりサッカーを楽しみたいのに、そんな気も失せるぐらいに僕たちはチームとしての形を見失っていました。

このままでは後悔すると思い、何かのきっかけにでもなればと僕は3年生になり伸ばしていた髪をもう一度刈り坊主にしました。

すると次の日から気合いを入れた仲間が次々に坊主にして行きました。

1人また1人とどんどん坊主仲間が増えていってなんとなくチームの雰囲気も明るくなりました。

そして、インターハイの三田学園戦でようやくチームとしてのまとまりを見せました。

しかし、それでは遅すぎました。
インターハイベスト8をかけた三田学園との試合は延長PK負けをしてしまい、僕たちは新人戦と同じベスト16での敗退となってしまいました。

↓試合の流れなど

ずっと「必ず全国大会に行きます」と発信し続けて来たし監督にも「今年は勝負の年」と言われて来て、自分たちでも「今年は全国に行けるだろう」と思っていました。でも蓋を開けてみれば新人戦もインターハイもベスト16で何一つ結果を残せていませんでした。

自分たちは何をしているんだろうと、このまま終わって良いのかと思ったし、こんな終わり方が自分の最後なんて本当に嫌でした。

焦って焦って、チームの雰囲気も最悪だったけど『全国大会に行きたい』という気持ちだけは一緒で、なんとかまとまりだしてそこからやっとチームとして良い方へ向いて行きました。

そして夏の合宿で自分たちの形を再認識して結果を残し自分たちに自信が持てるようになりました。1年半時間をかけてやって来たメンタル講習やフィジカルトレーニング、食事面での成果も出て来ました。

そして選手権前に行ったチームビルディングで完全にチームとしてひとつになれました。


そして遂に選手権が始まりこれが僕にとって本当に最後の大会でした。

僕たちはインターハイで負けシード枠すら勝ち取れなかったので、全国に出るには予選から合わせて8試合に勝たなければなりませんでした。

予選から戦うはサッカー部の1年目以来らしくて、僕たちがこの1年でどれだけ結果を残せていないかを表していました。

選手権というのは緊張感がある試合ばかりで、勝てば勝つほど試合を見る人は増えて応援にも熱が入る一方ひとつのミスが命取りになり、そのミスでみんなの3年間が終わるって考えるとゾッとします。

試合後に泣き崩れる対戦相手を見て次は自分たちがそうなってしまうかもしれないっていう不安と、絶対に全国大会に行くという期待の両方の気持ちを抱えたまま、僕たちは去年と同じベスト4まで勝ち上がりました。

失敗ばかりだったこの1年でやっとここまで来ました。

準決勝のテーマは「真向勝負」
相手がどこの誰でも関係なく自分たちのサッカーをする。

↓試合内容など

試合は接戦になりましたが延長の末勝利をものにし、僕たちはは7年ぶりの決勝進出を決めました。

一石一丁ではなかったし沢山ぶつかって喧嘩もしたけど、その分本気で思ったことを言い合える本当の意味での「仲間」に僕たちなれました。

だから決勝戦の日は自分でもびっくりするぐらい落ち着いていました。この仲間となら負けるはずがないと信じていたからです。

ヴィッセル神戸のノエビアスタジアムで、観客は4000人を越えていたそうですが、試合中は全く気になりませんでした。

スタンドにはたくさんの人がいて、自分の名前を呼ぶ声が聞こえたり、プレー1つひとつに会場が沸き、自分も含め多くの高校生が目指した舞台に自分が立っているのは正直不思議な感覚でした。

この試合に勝てば、全国。

サッカーを通して何かを返せるのも、自分たちがやって来たことを証明できるのもこれが最後のチャンスでした。

試合のことは正直よく覚えていなくて後でビデオを見ていろいろ思い出しました。それよりも鮮明に覚えているのは試合後のみんなの顔です。

僕たちは決勝戦も勝ち、優勝しました。

泣き崩れる奴もいれば、大声で叫んでいる奴もいました。口からこぼれ出る言葉は称賛でも喜びでもなく感謝の言葉でした。「ありがとう、本当にありがとう」自然とそんな言葉が出てきました。

試合に負けて悔しい思いをした時も、苦しいトレーニングを乗り切った時も、結果が出ず悩んだ時も、いつも隣にはこの仲間がいました。

好きなところも嫌いなところも沢山あるけど、バカみたいにサッカーに真剣でずっと一緒に頑張ってきました。この仲間が僕は大好きだったので、優勝旗を掲げたときは今までの全てが報われたような気分で最高の時間でした。


そして、まだみんなとサッカーができる喜びを噛み締めました。

3日間のオフをもらい、グランドに降りるとそこにはいつもと変わらない日常がありました。全国に出たからといって何かが変わったわけもなく、僕にとってはそれが1番嬉しかったです。

練習が終わったらそれぞれの自主練が始まって、しょーもない事で競い合ったり、ラスト1本がなかなか終わらなかったり、その時間が何よりも幸せでした。

全国までの1ヶ月はあっという間に過ぎて、国立競技場で開会式をして、僕たちは初の全国大会の舞台に立ちました。

試合前日のメンタル講義でチーム全員に今までの感謝を伝える時間があり、みんな号泣していました。

一人ひとりの言葉を聞くたびにいろんなことを思い出して、本当にいいチームになったなと感動しました。

こんなに嬉しい気持ちになったのは初めてで、自然と涙が出て来ました。こんなに一丸となっている僕たちが負けるわけがないと思いました。

チームとしてのまとまりは間違いなく過去1番のものでした。しかし、それだけでは勝てないのが全国大会でした。壁は高く、初戦の千葉県代表日体大柏高校に敗れ僕たちは初戦敗退となってしまいました。

高校サッカー最後の笛は同時に僕のサッカー人生終了の笛でもあり、こんなに長くサッカーをやってきても最後はあっけなく終わりました。

試合後のロッカールームで僕は汗が冷え切ったユニホームを着替えることができませんでした。本当にもう終わりで、どれだけ願ってももうこのチームで試合に出られることはないんだと思うとユニホームを脱ぐことがやけに難しくなりました。


これから先も僕の仲間や友達はサッカーを続けて、今日のことを糧にしてもっともっと上手くなるんだと思います。その道の先にもう自分の姿はなくて、もう隣に立って戦うことはできないんだと思うと、本当に悲しくなりました。

サッカーを辞めるって自分で決めて自分なりに後悔を残さないように過ごしてきたつもりでしたが、全国大会では思うようなプレーは出来ず、最後に後悔が残ってしまいました。

でもこの仲間とサッカーができて本当に楽しかったし、共に全国の舞台に立てたことは本当に素晴らしい経験でした。全国に行けたことだけでなく、それまでに経験したこと全てが僕の宝物です。

僕は高校でもまた、最高のチームに出会うことができました。


サッカー選手としての僕の人生はここで終わるけどみんなはまだサッカーを続けると思うので、どうか僕の分まで夢を叶えていつかみんなのことを自慢させてほしいなと思います。

熱く、濃い3年間を過ごせました。
高校サッカー、最高に楽しかったです。


最後に


もしかしたら競技はなんでも良かったのかもしれません。それが野球でもバスケでも僕は同じように熱中したと思います。でもサッカーだったからこの仲間に出会えて、この仲間だったからこんなにも楽しかったんだと思います。

プロサッカー選手を夢見たあの日から、僕の生活の中心にはサッカーがありました。楽しかったことよりしんどかったことの方が遥かに多かったはずなのに、思い返すと笑っていた記憶しかありません。

リフティングもドリブルもシュートも何一つできなかったあの頃に比べると、今の自分は信じられないほど成長したなと思います。泥塗れのユニホームも、ボロボロになった靴も、今となればその全てが誇らしく自分がどれだけ歩いてきたのかを教えてくれます。

あの日見たプロサッカー選手という大きな夢は結局最後まで大きなままで、プロサッカー選手という夢は叶えられないまま終わりましたが本気で叶えようとしたその姿には価値があったと思います。



僕の自慢の仲間たちは必ず夢を叶えると信じています。いつかまた会ったとき胸を張って会えるように僕も自分の夢に向かって全力で頑張ります。

そして、そのために今僕は世界一周に挑戦しようしています。

世界中の貧しい子供達にサッカーボールを届けてサッカーを通して少しでも元気を与えたいなと思ったからです。

出会いが人を成長させると僕は思います。サッカーがたくさんの人と自分を出会わせてくれたおかげでここまで成長することができました。

サッカーを通して子どもたちに出会いのきっかけを与えたり、夢を持って生きることを知ってほしいです。

文字より動画の方が伝わると思ったので動画を撮りました。ぜひ一度見て、もし共感したら支援していただけるとありがたいです。


長い文を最後まで読んでくださり本当にありがとうございます。

サッカーは僕の原点です。

いつか脳が溶け、この青春が遠い過去のものになって自分の名前すら思い出せなくなっても、僕は忘れません。

ひとつのことにこんなに夢中になって、仲間とぶつかりながら目標に向かって走ってきた日々は僕の誇りです。

これからは全く違う道を行くことになります。やることは変わっても大事なことは変えずにこれからも頑張っていこうと思います。


応援して頂けると嬉しいです。


ぜひ一回動画だけ見てください!笑


↑クラファンサイト

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