サイヒタロ

「アーティスト なんですか?」という風なことをよく聞かれる。たぶんちかい世界にはいない人から。きっとそう口にする人の数だけたずねたい理由や意味があって、シチュエーションも色々。意識してみたところで自分でも、わたしは何者か解らない。どうだろう?なんでも、なんでもいいよ。くくりや呼び方はそれぞれにイメージもちがうもの、しかもアーティストとその周辺のことばの、アバウトさったら、おおらかなものだと思う。肩書きなんて内側からすきなもので押し通してもいいし、関わるひとりひとりが外側から決めてくれてもいい、そういうものなんじゃないかな。そうしてるうちに浮かび上がってくるものだろうなって思う。

そんなわたしの本名は漢字で書くと「芙実」となる。文字の自動変換だとこの組み合わせになりづらいし、見た感じもどうやら紛らわしいらしくて、よく間違われる。実、が美、になっている。似てるよね。よくあるし、よくわかる。ちょっと当てはめるのに世話のかかる名前。

花の名前から来ているらしい。去年の春の展示から花の絵をよく描くようになって。筆を運びながら ときどきふわっと浮かべている。ひとも本当に、花みたいに、自然の一部であればいいな。あくの色に染まらずに、ゆれながら微笑みながら、だれにも無害で生きられたらいいな。花のイメージには、そういう希望も寄り添って降ってくる。ずーっと絵にのせてきた気もちと、きっと距離はちかいモチーフ。

ふだん平仮名でいるのは、 聞き間違えさえしなければ表記を間違わないで済むから。漢字ほどに意味を決めつけてしまえないところもすき。弱いような つよいような。

公の場で平仮名を使うようになってから割りと長いので、随分なじんでいる。だから年賀状やお手紙、雑誌や書類に 漢字で並んでいる自分の名前が正しいと、ふと見つめることが増えた。(人の手が入ったんだろう、やっぱり最後が美になっている郵便物とかもある。)むかしは自分の名前の漢字が正しい、それだけで「ほ」としてたな。小さな手紙も大きな書類も。ただしく書いてくれたという嬉しさというか、安心感というか。これは自分のだな、というかんじ。いまは色んな思い出のあるこの名前を 出来るだけていねいに書くようにしてるつもり。ちいさなこの意識も実ったらいいな。

本名でも作家名でも、ひらがなのお名前に出会うと「漢字は持っているのかな」と考えたりするのがたのしい。自分の名前が間違われやすかったせいか、なにげなく人の名前の表記を覚えているようで、ふとしたときに漢字でだれかの名前を書けるとよく驚かれていた。たぶんわたしは、身近な人の名前をただしく覚えるのが得意だよ。


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