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価値も意義も無かったとしても。

前回noteでは、っていうような「前回noteでは」というフレーズをぼくはこのブログによく書くんですが。

この「前回noteでは」ってのも、前回noteで申しあげました「『ぜんかいのブログ』と『こんかいのブログ』とで、なにかのつながりを持たせたい。」のひとつなんだと思うわー。

そんな「つながり」のことをね、前回noteで申しましたが。

そんなふうにブログをたとえば「連想ゲーム」みたいに書いても、はたまた、べつにそれがじぶんのルールってわけじゃあないもんで「連想ゲーム」みたいにブログ書かなくてもよいんだけれども。

ブログを書く、ってことは、じぶんのなにかが、一歩すすむ。

って言えるような気がするんだわね。

つまり、いつだったかの以前のnoteでも申したとぞんじますが。なにかを書けば、それを書いたことによって、気持ち的にでも「書くまえのじぶん」と「書いたあとのじぶん」とがすこし変化してしまっている。それが「よい変化」なのか「わるい変化」なのかは別にして。

そうしてゆくことでねぇ、たとえ、おんなじところをぐるぐるまわるみたいに「すすむ」んだとしても、それでも、それが「一歩ずつすすんでゆく」のようだ。って言えるんではないか?! って。

おもえば、たとえば一週間前には、その一週間後にこのことを書くなんてじぶんで思いもよらんかった。みたいなことってぇのも、たくさんあるしー。

ブログを書くことで、それが、じぶんのなにかの犠牲になっていたんだとしても。

また、社会的には、なんの価値も無かったんだとしても。

それでも、じぶんのうちでは、なんらかの意義…。いや、「意義」って言ってしまうと、どことなく大層な感じになってしまいそうだから。そうではなくってぇ。えーと、なんと言うんだろう?????

ずっとずっとあとになってからさ、ブログ書いててよかったなあ。って思えるようでありたい〜。

平成30年11月23日


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