叡智

「叡智を持つ」のこと。

前回noteでは、吉本隆明さんの
講演『私と生涯学習』のことを申しあげましたが。

講演のなかで吉本さんおっしゃっていた
「叡智を持つことが一生勉強する大きな目的かな。」
というこの「叡智を持つ」とは、やはり、
すばらしいなあ、と思いまして。

そして、さらに吉本さんのおっしゃる
「むしろ、学校を卒業してからが、
生涯学習のはじまりなのではないか。」
というのも、勇気でてくるー。って思いながら。。。

ぼくはさ、ひょんなご縁より、
現在は学習塾講師のアルバイトをしておるですが。
でも、たとえば「学校の勉強」というのも、
なんのためにするか????? だっても、
このバイトをしていながらでもじつはわかっていない。
(ごめんなさい。。。)

「学校の勉強ができる」としても、
「学校の勉強ができない」としても、
どちらとしたとしても、その人それぞれに
それぞれの人生があるんでしょう。という気がするし。

「学校の勉強をしないと、絶対にだめだよ!」
とも言えないけれども。でも、
「学校の勉強をひとつもしない。」というのも、
よくないやもしれない。って思える。

ぼくが感じているのはねぇ、ある意味では
「学校の勉強」というのは大事なんだけれども。
でも、「学校の勉強」の中には、
「救い」は無いんではないか。って。つまり、たとえば
「どうしたらよいかぜんぜんわからない」という事態に、
学校(大学や専門学校はべつかも、ですが)で勉強した事柄を
思い出して、その事柄に救われる。という「救い」は、
無いのやもしれない。

けれど、だからと言って、さっきも申しあげたですが
「学校の勉強をひとつもしない。」のも、
それはそれでよくないかも。って思う、てゆうことはさ。
「学校の勉強」に価値が無いわけでもない。と申しますか。。。

吉本隆明さんのおっしゃる
「叡智を持つことが一生勉強する大きな目的かな。」
「むしろ、学校を卒業してからが、
生涯学習のはじまりなのではないか。」
ということばを聴きまして。ぼくは、なんだか
「学校の勉強」というのは、
「『叡智を持つ』ために一生勉強してゆく」ための
「基礎体力」のような面があるのかも。と思ったの。

学校のテストの「順位」や「偏差値」や「成績表」は、
それらはそれらとして。
でも、なんだか、人それぞれで、それぞれの、
吉本さんおっしゃる「こころの問題」や「精神の問題」を
考えるための「叡智」を持てたらねぇー。

って、ぜんぜん、学校の勉強をさぼっとったおれが言っても、
説得力がないんだわ〜!!!

平成31年2月5日


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