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ボールのないキャッチボール (13/40)

ゴールデンウィークに帰省したときのことだった。
小学校3年生になるむすめと、いとこの年長さんのおとこのこ。
まえに会ったのは正月なのに、そのときのことをしっかりおぼえていて、あの日のつづきのようにあそんでいた。

そんなあるとき、むすめが小学校でならった漢字の音読みと訓読みについて、いとこに教えはじめることがあった。

小学生にもなってないし、漢字どころかひらがなもまだまだないとこにとっては、なんのことやらさっぱりだったと思う。
だけど、紙にまでかいて伝えようとするむすめ、それを「うんうん」ときいているいとこの姿がなんともほほえましく、何日かたった今もそのシーンを思い出しながら、これを書いている。

きっと、むすめが伝えたかった「漢字には音読みと訓読みがあるんだよ」ということは、いとこに伝わってない。
伝わってないけど、そのやりとりがおたがいたのしそうだった。

コミュニケーションをキャッチボールにたとえると、むすめが投げたボールはいとこに届いてない。
だけど、いとこはなにかべつのボールうけとっていて、「うんうん」とボールを投げかえしているように見えた。

社会や会社のなかでは、コミュニケーションは「伝えた」ということよりも「伝わった」かどうかが重要だ、なんて言われる。
ある上司が「これをこうやってください」と部下に伝えたとする。
そして、伝えられた部下はがんばって「言われたとおりにできました」と上司に報告する。
だけど、実際にできた内容は「伝えた」内容とはちがっていて、実はちゃんと部下に「伝わって」いなくてやり直さないといけないパターンってないだろうか。
べつに上司と部下じゃなくても、友人間でも夫婦でも親子でもよくあるパターンのひとつだと思う。

そんなとき、気が利くひとことが言えるひとにあこがれるけど、わたしなんかはビミョウな空気になってしまうことがおおい。
伝え方がわるかったとか、伝えられたことをちゃんと理解できてなかったんだなとか、あとから反省してしまう。

そんなパターンからすると、むすめの「伝えた」はいとこに「伝わって」いないので、完全にコミュニケーションの失敗ということになる。
だけど、ビミョウな空気になるどころか、なんともイイ雰囲気がただよっていたのはなぜだろう?

キャッチボールをするときのボールの投げかたや受けとりかたは、もちろんたいせつだ。
だけど、キャッチボールのやりかたではなく、キャッチボールをするふたりがどんな関係なのかに注目してみたらどうだろう。

投げたボールがべつに届かなくてもオッケー、そもそもボールなんてなくてもオッケー、みたいな関係こそが、イイ雰囲気の正体だったと思えてきた。
その関係にはいろんな呼び名がつきそうだけど、おたがい「すき」ってことが根っこにはありそうだ。

ボールがなくてもキャッチボールができるふたりは、まわりのひともげんきにしてくれる。

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