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すきってなんだろ、わたし (8/40)

好きなものへの違和感

むかしから好きで、まいにちのように見ているウェブサイトがある。
通称「ほぼ日(ほぼにち)」と呼ばれている。

とくにわたしが好きなのは、「ほぼ日」を主宰する糸井重里さんがまいにち書いている「今日のダーリン」というエッセイを読むことだ。
ほかにも、マニアックな記事からハラマキの販売まで、さまざまなコンテンツがつぎつぎに生み出されていく様は、学生時代から十数年見ていても飽きることがない。

そこのサイトに、「ほぼ日の塾」というコンテンツがある。
その塾に参加した人たちが、ほぼ日のコンテンツづくりについて学び、自身も発表するというものだ。
塾は5期目の開催となっていて、1期から塾生が発表をつづけている課題のなかに「私の好きなもの」をエッセイとして発表するコーナーがある。

塾生の人たちが発表している「好きなもの」は、「絵を描くこと」「祖母とのメール」「手ぬぐい」「木の枝」「ロイヤルミルクティー」「選ぶこと」「空」「風」など‥‥いろんなタイトルがならんでいる。

そんな「私の好きなもの」コーナーを、これまでわたしはあまり読んでこなかった。
わたし自身の「好き」や「興味」とおなじだったり、重なるタイトルがあまりなかったからだ。

これはじぶんも好きだなというタイトルがあって読んだとしても、どこか答えあわせをしているような感じで、じぶんとちがうところがあると共感できなかった。

つまり、わたしは塾生の人たちが発表している「私の好きなもの」コーナーが、あまり好きではなかったということになる。

べつに、それがダメなわけではないし、人はそれぞれ好き嫌いがある。
興味がないものに目を向ける努力をする必要もない。
ウェブのコンテンツだろうが、本だろうが、趣味の時間だろうが、食べ物だろうが、じぶんの好きや興味あるものには目を向けて、それ以外のものに関心をしめさないというのはよくあることだと思う。

だから、これまでは「私が好きなもの」コーナーのことを気にすることはなかったし、好きではないと思うこともなかった。

だけど、今回も「私が好きなもの」を目にしたときに、そんなじぶんに対する違和感があった。
「ほぼ日」のコンテンツはたのしく読んでいるのに、塾の発表に興味がわかないじぶんがいるのはどうしてだろう? 興味がないものに目を向けることはどういうことだろう? と、すこし考えてみた。


いつのまにか先入観

たとえば、どんなことを言ったのかということよりも、誰が言ったのかということの方が重要視されることってないだろうか。

たとえば、名の知れた人が書いたエッセイには人生に役に立つような深いことが書いてあって、素人や新人が書く文章はまだまだ未熟で浅いみたいな感覚ってないだろうか。

たとえば、第一線でコンテンツをつくりつづけている人は一軍で、塾生の人たちは練習生みたいな感じで、練習生はぜったい一軍には勝てないみたいな思い込みってないだろうか。

そんな、無意識のなかでつくりだしてしまっている先入観が、ほんとうの姿を見えにくくしてしまってることってあると思う。

じっさいに、一軍のあの人が担当しているコンテンツはおもしろそうで、無名の練習生のエッセイは興味がわかない‥‥みたいな態度だったわたしがいたことに気づく。

プロ野球でも練習生よりも一軍の試合を観にいきたいと思うのはあたりまえだけど、そもそも塾生の人たちを練習生なんだろうか?
そこから間違っていたようにも思えてくる。

そんな先入観に左右されない、目の前にあるものをおもしろがろうとする姿勢でいることは難しいことがわかった。

しかし、それがわかったとしても、好きか嫌いか、興味があるかないかの壁にぶちあたってしまう。
嫌いなものや興味がないものを、はてしておもしろがることはできるんだろうか。

そんなことを思いながら、わたしはある課題をじぶんに与えた。ぜんぶ読んでみる! というシンプルなもので、いくつもある「私の好きなもの」のエッセイを、選ぶことなく順番に読んでみた。


好き嫌いの壁

じぶんの好きではないこと、興味もないことについて書かれている文章を読んでいくことは、気分がのるものではなかった。
だけど、なるべく先入観をとっぱらおうと意識して読んでいくうちに、ひとつのことがわかってきた。

どのエッセイも、「好きなもの」をとりあつかっているだけで、「好きなもの」そのものについて書かれているわけではないということがわかってきた。

そもそも、わたしが思っていた壁に、ぶちあたらない内容が書かれていた。
むしろ、壁なんか、はじめからなかったのだ。
というのも、たとえばわたしががアイフォーンが嫌いだったとしても、スティーブ・ジョブズのことや開発秘話、そのスペックやすばらしさについて書いてあるようなエッセイはひとつもなかった。

そうなればこっちのもので、どんどん読むのがたのしくなってきて、ついにぜんぶ読みきった。
読むのがたのしくなったのは、どのエッセイにもある共通点があることをみつけてしまったからだ。

それは、筆者と好きなものとの「あいだ」にあることがていねいに描かれているということだった。
たとえのつづきで言うと、アイフォーンそのものではなく、筆者とアイフォーンとの出会いや使い方、アイフォーンを通して生まれたストーリーが描かれているということだった。

そんな「関係性」とも言える「あいだ」を読むことが、たのしかった。

 好きなものも、
 好きなことも、
 好きなひとも、
 ぜんぶがぜんぶ、
 あいだからうまれている。

そんな「関係性」を、好きとか嫌いとか、興味があるとかないとかのモノサシで読むことはそもそもできなかったということだった。

わたしが抱いていた違和感の正体は、長さをはかるモノサシで、時間をはかろうとしているようなものだったんだと思う。
好きか嫌いか、興味があるかないかというモノサシだけでは、はかりきれないことに目を向けることをいつの間にか忘れていたじぶんに気づく。

「あなたの好きなものはなに?」と、きかれたら、いまなら、こう答えるだろう。

好きがうまれる「関係性」を教えてくれたエッセイ「私の好きなもの」を読むことが、わたしはすきです、と。

ほぼ日の塾生のみなさん、ありがとうございました。
次なる課題の「自由にコンテンツを」も、たのしみにしています!


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