日本の稀代の自由人たる柄谷行人 その4

今回の記事では, 柄谷行人『帝国の構造 中心・周辺・亜周辺』(青土社, 2014年)について, 簡単な紹介を行う. 簡単とは言ったものの, この本で柄谷が目指しているものは, 帝国(それは帝国主義とは異なる)というものの世界史的意義を再考するというものであるから, 中身自体は容易に理解されるものではないことは, 予め述べておこう.

1 目次はこの通り

この本の目次は以下の通りである.

第1章 ヘーゲルの転倒とは何か

 1 なぜヘーゲルの批判か

 2 マルクスによるヘーゲル批判の盲点

 3 生産様式論の限界

 4 交換様式の導入

 5 社会構成体と交換様式

 6 前後の転倒

 7 未来からの回帰

第2章 世界史における定住革命

 1 遊動的狩猟採集民

 2 定住の困難

 3 互酬性の原理

 4 定住革命

 5 互酬性の起源

 6 遊動性の二つのタイプ

第3章 専制国家と帝国

 1 国家の起源

 2 恐怖に強要された契約

 3 帝国の原理

 4 専制国家と帝国

 5 帝国と帝国主義

 6 ペルシア帝国とローマ帝国

 7 ヨーロッパと帝国

第4章 東アジアの帝国

 1 秦帝国

 2 漢帝国

 3 隋唐帝国

 4 遊牧民の帝国

 5 モンゴル帝国

 6 モンゴル帝国以後

第5章 近世の帝国と没落

 1 ロシア・オスマン・ムガール帝国

 2 帝国の衰退

 3 ヨーロッパの世界=経済

 4 帝国の「近代化」

 5 オーストリア・ロシア

 6 中国

第6章 帝国と世界共和国

 1 帝国と神の国

 2 ヘゲモニー国家

 3 歴史と反復

 4 諸国家連邦

 5 自然の狡知

 6 自然と歴史

第7章 亜周辺としての日本

 1 周辺と亜周辺

 2 ヤマトとコリア

 3 皇帝と天皇

 4 官僚制と文字の問題

 5 漢字と仮名

 6 日本の封建制

 7 徳川体制とは何か

 8 明治維新以後

あとがき

以上である.

2 ヘーゲル批判をやり直そう

「『世界史の構造』を刊行してから, 私はそこでは十分に書けなかった事柄を取り上げてきました. この講義では, その一つ, 帝国について取り上げます. その前に, 『世界史の構造』で述べたことについて, あらためてお話したいことがあります. それはヘーゲルのことです. 一口でいうと, 『世界史の構造』は, ヘーゲル哲学を唯物論的に批判するものです. もちろん, ヘーゲルの哲学を唯物論的に批判した人がすでにいました. マルクスです. ただ, 私の考えでは, マルクスによるヘーゲルの批判は十分ではなかった. それをもう一度徹底的にやり直す必要があるのです」(9ページ)

これはなんとも壮大な試みである. マルクスによるヘーゲル批判を継承しながらも, そこでは不足していると柄谷が感じることについて, あくまで唯物論的に批判を深めようと言うのである. この試みが成功するかはわからないものの, 少なくとも柄谷がヘーゲルをどのように理解しているのかについては, 紹介する必要があろう.

「ヘーゲルの『法の哲学』は, 弁証法的な体系です. 彼はそこで, フランス革命で唱えられた自由・平等・友愛を, 理論的に統合しようとした. 第一に, 感性的段階として, 市民社会あるいは市場経済が提示される. それはフランス革命でいう「自由」です. 第二に, 悟性的段階として, そのような市場経済がもたらす諸矛盾を是正して, 「平等」を実現するものとして, 国家(官僚)が見出される. 最後に理性的段階として, 「友愛」がネーションにおいて見出される」(12ページ)

感性だの悟性だの理性だのと, 日本人が普段からあまり使わないような, しかしドイツ人は平然と使うような言葉が出てきてしまっているので, まずこれらの言葉から, 辞書的な意味を説明したいと思う.

感性とは

感性とは,基本的には包括的・直感的に行なわれる心的活動およびその能力,とくに,印象評価や創造・表現,論理によらない思考や判断(感性知)などにかかわる認知過程を指す。したがって,美しさや快さなどの認知や評価はもとより,味覚や嗅覚のように感情を伴う感覚,質感・速度感・広がり感といった知覚的印象の認知も,感性の範疇に含まれる。感性は,感覚から感情までを含む多様な「知覚」を意味する古代ギリシア語のアイステーシスaisthesisとも関連する。アイステーシスから美学aestheticsが誕生したが,感性も日常的には美意識やセンスの良さに使われる。感性はKanseiとして海外にも概念が輸出され,日本特有のものとされることもあるが,アイステーシスのような考え方や,感性がもともと英語のsensibilityやドイツ語のSinnlichkeitの訳語として入ってきたことを考慮するならば,むしろ,文化固有の見方や考え方を指すものとしてとらえるべきであろう。感性はまた,ヒューリスティックスheuristics(発見や直観・経験則に基づく問題解決や意思決定の方法)やひらめき,暗黙知など,論理的に答えを導くには条件が不足している状況で瞬時かつ的確な判断を下す能力や,既存の知識・概念にとらわれない画期的な発見や創造を行なうこと,つまりは論理回路とは別の知的判断を行なう過程や能力にも関与していると考えられる。数式や楽譜の美しさが正しい論理展開や適切なメロディ進行を裏づけるといった指摘や,科学的発見が視覚的なイメージから誕生したという例も,記号操作とは異なる思考方法の存在を示すものであろう。感性は意識的,分析的な認知過程というより,無意識的,情報統合的な過程と考えられる。また,感性は「き(生)の芸術」ともいわれる。これは,感性が学習を経ない生得的な能力であることを含意している。しかし一方で,時代や流行による美意識の変化など,感性は文化や社会の影響を強く受ける側面があることも指摘され,また,感性は学習によって「磨かれる」とする説もある。感性が印象評価などの認知過程を指すのに対し,感性を引き起こす情報,たとえば音楽や絵画の美しさや軽やかさなどを感性情報とよぶことがある。ただし,単純な刺激にも美しさを感じたり,一般に美しいと評される音楽に心が動かされないこともあり,特定の刺激が感性情報をもっていると考えるべきか,特定の情報を感性的に受け止める認知過程があると考えるべきかは議論のあるところである。しかし,特定の比率や形状,メロディやリズムなどが,美感や,軽快感,違和感など,特定の印象を与えるということも事実である。たとえば,黄金比(1:1.618)やフラクタル(自己相関)構造をもつ図形や配置は美的印象を与えるとされる。フェヒナーFechner,G.T.に始まる実験美学は,こうした刺激と感性印象との関係を実証的に調べることから出発した。現在では,彼の手法を展開した古典的な精神物理学的手法に限らず,マグニチュード推定法method of magnitude estimation(ME法)のような精神物理学的手法,さらに,相反する形容詞対を対比させて,7段階などで評定を行なうSD法semantic differential method(意味微分法)が対象の感性的側面を測る感性評価としてしばしば用いられ,因子分析やクラスター分析などの多変量解析によって,対象や印象の特徴を明らかにすることに使われている。因子分析の結果は,モダリティや刺激によらず,評価性evaluation,活動性activity,力量性potencyの3因子に分類されることが多く,これらを感情的意味affective meaningとよぶこともある。このような感性評価も感性研究の重要な側面となっている。なお,感性には個人の嗜好や経験が関与するため,普遍性に加え,個人差も注目される。
〔三浦 佳世〕

悟性とは

広い意味では思考の能力を意味し、感覚的な諸能力、すなわち一般的にいって感性と対立する意味で使われるが、とりわけカント以後定着した今日の用法においては、他方で、より高次の認識能力、あるいは能力一般としての理性(さらにヘーゲルの場合には、なんらかの意味で文化的、集団的なきずなの総体としての精神)に次ぐ位置を占めるものとみなされる。もともと中世哲学の思考において、さらに近世に入っても典型的にはスピノザの場合などには、理性ratioは間接的推論による認識を事とする能力として、低次の感性的直観の能力と高次の知的直観の能力たる知性intellectusの中間に位するものと考えられていた。ところが、とりわけ啓蒙(けいもう)時代以降における神学的形而上(けいじじょう)学の退潮ないし世俗化という時代の潮流に伴って、知的直観といったものを認めないカントを一つの転機とし、また典型ともして、元来は知性intellectusの訳語であったVerstand(ドイツ語)、understanding(英語)、entendement(フランス語)などの語と中世以来の「理性」との間に地位の逆転がおこり、以来「悟性」は、推理の能力としての理性の下位に位置する判断の能力という意味を獲得し、これに従ったヘーゲルの影響の大きさなどもあずかって、この用法が今日までほぼ標準的となったのである。とはいえ、カント以後においても、たとえばシェリングなどは、Verstandの用語を昔ながらの直観的知性の意味で使う場合がままあり、これに知性でなく悟性の訳があてられる場合には(この訳語自体、直覚的悟達の能力という意味がむしろ古来の用法のほうに元来対応するものであったのだが)、読解には細心の注意を必要とする。かつては『人間悟性論』と訳されたロックの著作が、今日では多く『人間知性論』と訳される傾向にあるのも、ロックの場合には中世形而上学への批判的傾向が強く出るとはいえ、なおカント的な理性―悟性の区別の出現以前の時代のものであることを考えると、当を得た処置と考えられよう。訳語の定着整理には、今日の状勢からみて、なおしばらくの年月と曲折を必要とすると思われるが、ことは、単に訳語の問題にとどまらず、近世西欧の思考での大きな転換が絡むものでもあるので、慎重な配慮と検討を必要としよう。いずれにせよ、今日では、古典的形式論理学がもはや歴史的なものと化した以上、カント的な理性―悟性の区別が生きたものとしてそのまま使われることはない。[坂部 恵]

理性とは

物事を正しく判断する力。また、真と偽、善と悪を識別する能力。美と醜を識別する働きさえも理性に帰せられることがある。それだけが人間を人間たらしめ、動物から分かつところのものであり、ここに「人間は理性的動物である」という人間に関する古典的定義が成立する。デカルトは、万人に生まれつき平等に備わっている理性能力を「良識」あるいは「自然の光」ということばで表している。古来、理性は闇(やみ)を照らす明るい光として表象されてきた。理性によって宇宙における諸事象をある比例的・調和的関係において眺め渡すとき、暗い、見通しのきかない混沌(こんとん)(カオスchaos)のなかから、ある法則的関係のなかに定位された調和的宇宙(コスモスcosmos)が出現する。もともとギリシア語のロゴスlogos(理性)あるいはそのラテン訳としてのラチオratioには、比例とかつり合いという意味が含まれていたのである。明るい光としての理性に対比していえば、感性的欲望や情念は、暗い盲目的な力である。この意味で理性ともっとも鋭く対立するのは狂気かもしれない。喜び、悲しみ、怒り、欲望、不安などの情念は、暗い、非合理的な力として内部から暴発する。これを理性的意志によって統御することができなければ、精神の自律性を保つことができない。ここに理性による情念支配という道徳問題が発生する。
 カントでは、本能や感性的欲望に基づく行動に対し、義務あるいは当為(ゾルレンSollen〈ドイツ語〉)の意識によって決定される行為が理性的とよばれる。われわれのうちには自律的に自己の意志を決定する理性的能力があって、それによって道徳的行為が可能となる。これが、理論理性と区別される実践理性である。受容性の能力としての感性と対立する意味における理性は、自発性の能力としてとらえられるが、その場合には、理性と悟性はほとんど同義に用いられている。
 しかし、理性はしばしば悟性と対立する意味でも使われる。古くから、概念的・論証的な認識能力としての理性(ラチオ)に対して、真実在を直観的に認識する、より高次の認識能力として悟性あるいは知性(インテレクトゥスintellectus)の語が用いられた。しかし、啓蒙(けいもう)期以後、この優位の関係は逆転される。カントでは、悟性が感覚の多様を概念的統一へもたらすところの、被制約的な認識能力であるのに対し、理性は判断の一般的制約をどこまでも求めていく無制約的な認識能力であった。さらに、ヘーゲルにおいては、悟性が抽象的概念の能力であるのに対し、理性は具体的概念の能力であり、悟性的概念による対立の立場を超え、これを生きた統一へともたらす働きであった。理性はまた、宇宙を支配する根本原理という意味においても用いられる。アナクサゴラスのヌースの説もその一例だが、もっとも典型的なのは、ヘーゲルの世界精神の考えで、歴史は世界精神の自己実現の過程であり、そこには、ある理性的原理が貫かれているという。[伊藤勝彦]

まあ, 歴史的な経緯も含めた説明をここに乗っけてしまったわけであるが, むしろ混乱に引き込んでしまった可能性がないとは言わない. しかし, これらの言葉に対して壮大な解釈が行われ続けていること, このことだけは忘れないで欲しいと思う.

柄谷の『帝国の構造』に戻ろう.

「ヘーゲルの考えでは, 資本=ネーション=ステートが確立されたのちに, もはや根本的な革命はない. もちろん, それが確立されるまでは, そこにいたるための革命が各地にあるだろう. しかし, この三位一体的な体制ができあがったところでは, 本質的な変化はありえない. ゆえにそこで歴史は終る, ということです. ヘーゲルの「歴史の終焉」という考えは, そういうことを意味するのです」(13ページ)

これは私には恐ろしい結論に見える. 簡単にその理由を述べれば, それはヘーゲルが歴史の終わりを証明した, と書いてあるからだ. もちろん我々は時間の中に生きており, 歴史が前に進んでいるということを「当然」のように考えている. しかしヘーゲルはすでに, 歴史の終焉が来ることを見抜いていたと, 柄谷はいうのである. なんと恐ろしいことか!

「マルクスは, 社会構成体の歴史を「生産様式」から見ようとした. それは生産の仕方という意味ではなく, 「生産関係」を意味します. もっと具体的にいうと, 社会構成体の歴史を生産様式から見るということは, 誰が生産手段を所有するかという観点から見ることです. 資本主義社会では資本家が, 封建制では領主が, 生産手段を所有している. 一方, 氏族社会では生産手段が共有されている. そこで, 来るべき共産主義社会では生産手段の共有がなされるだろう, ということになります. しかし, このような観点では, 多くの不備があるのです」(18ページ)

これは, マルクス『経済学批判』の序言に述べられた, いわゆる「史的唯物論」というものの見方に対する不備を指摘するものである. もっとも, 「マルクスは「史的唯物論」というような言葉を生涯一度も使っていない. 史的唯物論とは, マルクスの死後, エンゲルスが作ったものです」(19ページ)と指摘されるように, マルクス本人に, ヘーゲル批判の不足があったことを否定はしないが, マルクス本人よりも, エンゲルスによって, マルクス主義が体系化されたのであると, 柄谷は述べたいようである.

「もちろん, マルクスは違います, 彼は『資本論』において, 生産様式ではなく, 商品交換という次元から考察を始めた. 資本主義的生産様式, すなわち, 資本と労働者の関係は, 貨幣と商品の関係(交換様式C)を通して組織されたものです. そして, それが信用の体系を形成することは, 特に『資本論』第三巻に書かれています. 通常, マルクス主義の哲学者はここまで読まない. 第一巻だけを読んで, 生産関係の物象化がどうのと論じているのです. つまり, 生産様式(資本家と労働者の階級関係)がいかに貨幣経済によって隠蔽されるかを論じる. 彼らは『資本論』が資本性経済の全体系を解明しようとした本だということを無視してきたのです」(21-22ページ)

これはまた, 柄谷は強烈な非難をマルクス主義の哲学者に行なっているように見える. けれどこれは正当なものだと思う. 廣松渉に代表されるような日本のマルクス主義哲学者は特に, 物象化論を中心にマルクスを読み解こうとしているが, これではマルクスを, 『資本論』を読んだことにはならないのである. 柄谷が言いたいのは, 資本主義経済を把握するのには信用の問題を外すことはできない, つまり交換の問題を外すことはできないのである, ということである.

この流れだとマルクスのヘーゲル批判の不足を柄谷が, 述べているようには見えないと思うので, ここからそれを指摘することにしよう. (ここまでに述べたことは, マルクスとマルクス主義は違うという, 柄谷以外の人間にも指摘できるようなことでもあったので, この話は軽く流しても良いかもしれない)

「ヘーゲルの「法哲学」の唯物論的転倒は, たんに上下の転倒にとどまりえないのです. それは, いわば前後の転倒でもある. ヘーゲルにとって, 物事の本質は結果においてあらわれます. すなわち, すでに完了した状態においてのみ. これを転倒するならば, われわれは, 物事を事前から見る立場に立つことになるはずです. むろん, マルクスもそうしたのです. たとえば, 共産主義社会は未来に想定される. しかし, 問題がここに生じます. 現在から, 共産主義社会が必然的であるといえるだろうか」(31ページ)

ヘーゲルは物事を結果から見ている, ということは, ヘーゲルにとって未来はないことになる. マルクスはこれをひっくり返したわけであり, 換言すればマルクスには未来があるということになるわけである. しかしここで問題が生じるわけである. 共産主義社会なるものが必然的に来ると述べてしまうのであればこれはヘーゲルと同じ, 結果から見ることになってしまうのである. つまり, 未来がないということになるわけである.

「マルクスがいいたいのは, 共産主義は理念や理想ではないのだ, 資本主義的な生産関係が(生産力の発展によって)それ自身を揚棄するようになることから必然的に生じるのだ, ということです. 《ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は, 同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす. だからこの社会構成をもって, 人間社会の前史はおわりをつげるのである》(『経済学批判』序言)」(33-34ページ)

これは『世界史の構造』でも『トランスクリティーク』でも, 述べていたことであるから別段新しいものではない. 問題は次の引用である.

「しかし, これは歴史を「終り」から見ることにならないでしょうか. つまり, ヘーゲルを否定しながら, 彼もまた「事後」の立場に立っているのではないか. ヘーゲルの場合, 現在が最後の段階であって, この先に革命はない. ところが, マルクスの場合, 未来を先取りすることになります. その後, マルクス主義は, 唯物論的な観点をとりながら, 実際は, 観念論的(目的論的)な観点をとることになります. そこから, 「終り」を先取し, 歴史の必然性という観念によって人々を強制するような権力, 政治体制が生じた. もちろん, それはマルクスとは別のものです. しかし, これが, マルクスによるヘーゲル哲学の転倒という問題に胚胎することは確かです」(34ページ)

これが柄谷のいう, マルクスのヘーゲル批判に不足していた点である. つまり, 共産主義社会の到達を「必然」として語ってしまったため, 一見すると唯物論的でありながら, その実観念論的なところを残してしまっているというのである. これではいけない, というのが柄谷の言いたいことである.

3 抑圧されたものの回帰​

「マルクスは, ユートピア的社会主義者のように未来について語ることはせず, もっぱら過去について考察したように見えます. だが, そのことは, マルクスにとって, 「未来」を見ることだったのです. 彼が晩年, 氏族社会について考察したことを留意すべきです. 彼がそうしたのは, 未来の共産主義を, 氏族社会を”高次元で回復する”ものと見なしていたからです. 同時に, ここに, 重要な問題があります. マルクスが”高次元で”という場合, それが過去のもの(祖型)を一度否定することによってのみ実現される, ということを意味するのです」(36ページ)

「パリ・コンミューンは, 中世のコンミューンの再現である, と人々は考えるかもしれないが, 違う, それは「まったく新しい歴史上の創造物」なのだ, とマルクスはいうのです. といっても, それが中世のコンミューンの回復であることは否定できない. 要するに, マルクスがいわんとするのは, パリ・コンミューンは, 中世のコンミューンの”高次元での回復”だということです. それはむしろ, 中世のコンミューンと似て非なるものである」(37ページ)

これは, 柄谷のここ数年(ここ数十年)の著作を追っかけていないと, 何を言いたいのか全く分からないように思う. 『トランスクリティーク』では暗示的に, 『世界史の構造』や『哲学の起源』では明示的に語られている言葉として, 抑圧されたものの回帰, という言葉があるのであるが, これは別の言葉で言えば, 高次元での回復, ということになるのである. しかしこれは, そのままの形での回復ではない. その意味では歴史は繰り返さないのである. むしろ一旦は過去のものを否定することになるのだが, むしろ, そのことによってこそ, 過去にあったものが「高次元で」回復することになるのである. もっと言えば, 過去のものの回帰は, 未来からの到達という形でなされるということになるのである.

「「未来」「未だ成らざるもの」とは, 交換様式Dです. それは交換様式Aを「高次元で」回復することです. そして, それは最初, 普遍宗教というかたちをとってあらわれた. しかし, このことは, 宗教に固有の問題なのではありません. たとえ宗教という形態を捨てても, それはいつも「未だー意識されないもの」あるいは「抑圧されたものの回帰」としてあらわれます」(39ページ)

これは柄谷がぶっ飛んでると言われても仕方のないような, 妄言に聞こえるかもしれない. けれど, プロテスタント神学を, いや, もっと広げてなんらかの宗教をその宗教の本質から学んでいるものからすると, スッと入ってくるものがあるのである. これは, 私がプロテスタント神学は学んでいるので, そこからの視点で語ることになるが, 急ぎつつ待つ, という姿勢になるのである.

「ここであらためて, カントがいったことを考えてみましょう. すなわち, 「宗教とは, 私たちの義務すべてを神の命令として認識することである」という言葉を. カントは, 道徳法則が内なる理性のうちにあるというのです. しかし, そうではない. 道徳法則はやはり外部から到来したというべきです. なぜそれは神の命令というかたちをとるほかないのか. それもまた, 唯物論的に説明できることです. すなわち, 交換様式Dは「抑圧されたものの回帰」としてあらわれるのです」(39ページ)

おいおい, 柄谷さんや. これはもはやキリスト教の論理そのものではないですか. 「神は神である. 被造物は被造物である. よって, 人間は人間である」(カール・バルト)の言葉の通りではないか!やはり, 徹底的な唯物論者は実は観念論者になるのである, ということを感じたのである.

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