クライシステオロジー, つまり危機神学 その0

こんにちは. ヘッドホンです. 今回からは「クライシステオロジー, つまり危機神学」というタイトルのついた記事を, 何本か書いていきたいと思います.

1 危機神学とは何か

おそらくこの投稿を見ている人で「危機神学」という単語に馴染みのある人は, 少ないだろうと思いますので, まずはこの単語の説明をさせてください. 引用元は, https://kotobank.jp/word/%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95%E7%A5%9E%E5%AD%A6-131206#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 になります.

危機神学とは, 別名, 弁証法神学とも呼ばれるものであり...

「第一次世界大戦後スイスとドイツを中心におこったプロテスタントの神学運動で、キリスト教神学が近代主義の枠を乗り越えて現代的展望をもつ突破口となった。19世紀後半の近代自由主義神学は、F・E・D・シュライエルマハーの思想を出発点とし、近代的知識人とブルジョア社会の要求に適合するものであったが、資本主義が内的自己矛盾を露呈し、階級闘争と帝国主義戦争が起こったとき、それを批判し、解決の方向を示す力をもたなかった。大戦後の荒廃のなかで教会の無力に失望していた人たちに対して、スイスの小工業村ザーフェンウィルの牧師カール・バルトの書いた『ローマ書』(1919、改訂二版1922)が衝撃的影響を与えた。彼は学生時代ハルナックの下で自由主義神学を学び、そこから出発したが、従来の神学では搾取と抑圧に苦しむ村民の魂に語りかけえないことを知り、社会主義にも触れて、新しい神学の方向を模索した。その成果を盛り込んで発表したのがこの書である。その中心点は、近代ブルジョア社会と人間中心主義的な近代文明に奉仕するキリスト教から脱して、神の絶対的超越性を回復することにあった。「神は神である」や「神を神とせよ」といった主張は、それを意味する。それによって神学は、絶対的超越神の下で、近代社会の矛盾と近代人の傲慢(ごうまん)を批判し、挫折(ざせつ)からの救いの方向を示すことができるようになった。

ドイツのG・メルツ、F・ゴーガルテン、R・ブルトマン、スイスのE・トゥルナイゼン、E・ブルンナーら、若い有能な神学者がこの立場に共鳴し、1922年に雑誌『時の間に』を刊行して運動を展開した。神と人間は「無限の質的差異」(キルケゴール)に隔てられているから、神を人間のことばでとらえることはできないが、そのうえでなお、この絶対的超越神について語ることが神学の課題となった。そのために、バルトの『ローマ書』をはじめ、彼らの著書、論文には、死と生、地と天、プラスとマイナス、罪と救い、正と反といった弁証法的対概念や、逆説、不可能な可能性などの語が縦横に用いられたので、外部の人たちが「弁証法神学」とよんだ。また文化の危機、近代的人間の危機を強調したので「危機神学」ともよばれた。しかしバルト自身は、絶対的超越神が人間に語りかけるできごととしてのイエス・キリストの啓示を中心に据えるものとして、「神の言葉の神学」という表現を用いた。

この運動は、その出発点から同床異夢の様相があり、まもなく中心人物の間の考え方の違いが表面化してくる。神学における実存主義の位置づけ、自然神学の可否、ナチズムに対する態度、教会と国家の関係などをめぐって対立が生じ、中国の革命運動の将軍たちのように分裂したと評された。1933年にバルトは「訣別(けつべつ)」という論文を書き、『時の間に』誌は廃刊となった。バルトとトゥルナイゼンは『今日の神学的実存』誌を刊行し、他の人たちもそれぞれの道を歩み始めた。しかし彼らの活動はその後も、世界教会一致運動、キリスト教平和運動をはじめ、社会主義国におけるキリスト教の問題、聖書解釈における非神話化をめぐる論争、カトリック神学との対話など、広範囲にわたって直接間接の影響を与えている。」[小川圭治]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

2 この引用の意味, わかりますか?

以上となります. 実はこの三段落に及ぶ説明は, プロテスタント神学者は必ず知っていて, キリスト教神学者もほとんど知っているものなので, 彼らからすれば, 必要十分をそれなりに伝えていると思うはずです.

しかし, キリスト教神学なんて言葉を初めて聞いた, という人にとっては上の引用の説明だけで, 危機神学=弁証法神学を理解せよ, という方がきついと思います. 従って, 次回からの記事では, ここに出てくる人で特に重要な, カール・バルトという神学者と, この引用にも出てこないが決定的に重要な神学者である, ヨゼフ・フロマートカの二人について, 書かれることになります.

今回はここまでにします. 私もよくわかりませんが, 最終的には, 日本の今の危機, いや, 世界的な危機について, 危機神学の観点を中心に書くことになるだろうことを, ここに書き残して...

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