信じるという行為

人間は信じるという行為をすることなしに生きることはできない。何事も信じていない,などと言われる方は,何事も信じていないという自分を信じているか,何事も信じていないという行為そのものを信じているかにすぎない。人間という動物から信じるという行為を引き算すれば,人間ではなくなるだけだ。人間でありたくないという人間がいるのならば,好きにするが良い。人間でありたくないという思いを信じる人間がいるというのもまた,その人が立派に人間であるということを示すからである。

1 信じるという言葉の使われ方

信じるという言葉にはさまざまな使われ方,あるいは使われずに済まされているという意味を含意した上での「使われ方」がある。例えば,「わたしはキリスト教を信じる」というふうに信じるという言葉が使われることもあれば,「あなたは物理法則を信じる」というふうにその言葉が使われることもある。あるいは信じるという言葉が「彼は彼女を信じる」というふうに使われることもある。

ちょっと待ってください。今あなたが書かれた三つの例において,信じるという言葉は違う使われ方をしているように見えます。同じ単語なはずなのにどうして使われ方が違うように見えるのでしょうか。いやいや,ちょっと待ってくださいという言葉に対してちょっと待ってください。よくよく見ると,信じるという言葉は同じ使われ方をしているように見えます。

なるほどなるほど。ひとつ前の段落で書かれたことは,こういうふうに言うと,謎が解決するかもしれない。すなわち,信じるという言葉の対象となるもの(上の例では,それぞれキリスト教,物理法則,彼女)が違っているけれども,「〇〇を信じる」というふうに使われているという点では同じ使われ方をしていると述べれば,謎は解決しうるのである。

2 人間から信じるを引き算すると?

人間という動物あるいは人間という生き方から,信じるという言葉のみならず信じるという行為を引き算すると,それらを引き算された人間にはどのような変化が起こるのだろうか。あるいはこう言い換えても良い。人間は何も信じずにあるいは何も信じようともせずに,生きていくことができるのか否か。

言い換えられた方の質問文に答えを出してみることからしてみよう。答えは生きていくことはできない,である。人間は何かを信じなければ生きていくことができないということを,わたしは言っているのである。わたしは何も信じていないが生きているぞ!という方に問う。ではあなたは,昨日のあなたと今日のあなたとで同じ人格が保たれているということを信じずに生きているのか。あなたは,歩いていたとしたならばその道が突然に瓦解することはないということを信じずに歩いているのか。はたまた,あなたは,全てを信じずに疑っているのだというにしても,全てを信じずに疑っているということを信じずに,そのあなたの言葉を実現しているなどというつもりなのか。

「信頼とは,最も広い意味では,自分が抱いている諸々の [他者あるいは社会への]期待をあてにすることを意味するが,この意味での信頼は,社会生活の基本的な事実である。もちろん人間は,様々な状況において,特定の点では信頼を寄せるか・寄せないかということを選択している。しかし,なんの信頼も抱きえないならば,人は朝に寝床を離れることさえできまい。なんの信頼も抱きえないとしたら,無規定の不安や,全身の力が萎えるような恐怖に襲われる他はあるまい。その場合には,なんらかの規定された不信を表現することもできないし,規定された不信をてこにして防衛的な手筈を調えることもできないであろう。というのも,規定された不信をてこにして防衛的な手筈を調えるというのであれば,それは,べつの点にかんしては信頼を寄せるということを前提にしているからである。[そうした一切の前提がなかったなら] 全てのことが可能となってしまう。しかし人間は,そのような世界の法外な複雑性に,無媒介で直面することには耐えられないのである 」(ニクラス・ルーマン『信頼 社会的な複雑性の縮減メカニズム』勁草書房,邦訳1-2ページ)

3 「一神教=不寛容」並びに「多神教の日本=寛容」という奇天烈なまでに間違いだらけの定式

そういえば,宗教についてろくに勉強していないか,宗教について勉強をしていても頓珍漢な勉強の仕方をしている者による言説として,「一神教は不寛容」であり,八百万の神として知られる日本は多神教だから寛容なのだ,つまり「多神教の日本=寛容」である,という言説がある。わたしからすれば,これは事実無根もいいところの奇天烈なまでに間違いだらけの定式なのであるが,どういうわけかいまだにこの定式,この言説を「信じる」者がいるそうなのだ。

「日本の寛容論でもう一つよく聞かれるのが,キリスト教にせよイスラム教にせよ,「一神教はどうしても不寛容だ」という意見である。それと対になっているのが,「日本は多神教だから寛容だ」という説で,これは床屋談義だけでなく学問的な見解としても論じられることがある。その発端になったのは,「農耕由来の多神教」と「砂漠由来の一神教」という対比を論じた和辻哲郎である。彼の『風土』論(一九三五年)は,その後梅原猛や山折哲雄といった昨今の日本研究者たちにも継承され,欧米の対テロ戦争が始まった後はさらに拡散した」(森本あんり『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』新潮選書,5ページ)

しかし,「一神教=不寛容」並びに「多神教の日本=寛容」という定式には奇妙なところがある。まず,「多神教の日本=寛容」という定式が正しいとするのならば,自分に対して反対してくるものや自分の知らないものに対して,嫌な気持ちを持つまでは良いとしても,それを言葉や実力行使によって弾圧しようとする日本人はほとんどいないということになる。次に,「一神教=不寛容」という定式が正しいするのならば,キリスト教やイスラム教(共に一神教であるという意味では同じ宗教)が不寛容ということになり,世界における信者の数は多くを占めないはずである。

ところが現実を見てみるとどうだろうか。「多神教の日本=寛容」という定式の欺瞞さは,例えばコロナ禍における「自粛警察」のような事例を日本の中に見出すだけで,容易に読み取れるだろう。また,「一神教=不寛容」という定式の欺瞞さは,一神教の代表選手と言えるような宗教であるキリスト教やイスラム教を信じるものが,かなりの数存在するという点において,容易に読み取れるだろう。

「歴史を振り返ればわかるように,日本はお上から庶民に至るまで,主流と異なる思想や宗教には苛烈な迫害を加えてきた。古くは真宗やキリシタンへの迫害や,戦時中の「非国民」呼ばわり,新しいところではオウム真理教の「村八分」扱いや,コロナ禍で自然発生した「自粛警察」まで,その例には事欠かない。これらの事例を検分すると,それまでふだんは温和な近所づきあいをしていたのに,ひとたび相手を異物として認識するや否や,突如それが情け容赦のない排除に転化する,という戦慄のプロセスが見えてくる」(森本『不寛容論』9-10ページ)

どんな基準で見るにせよ人間には愚かな側面があることを否定することはできないために,人間に対してバカという言葉を発したくなる気持ちが人間の中に存在することは否定できないにせよ,自国民と思われる人間に対して,非国民だのチンパンジーだの,日本でいえば反日だのといえてしまう人間も一定数存在する。そのような人間はどの国家にもどの社会にも存在するのであろうが,少なくとも,日本という国家においてはそのように平然と不寛容ぶりを発揮する人の数が,日本は多神教ゆえに他の国家に比べて少ない,などという説は,それこそ奇天烈な,いや気狂いなまでに間違っているのである。


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