著作とプライベートの狭間:狭義の同人について

 最近、picrewという画像素材を組み合わせて好みの絵を作るコラージュソフトウェアを利用した「強い女メーカー」を紹介した記事が著作権侵害であるとして内容証明を送られたとする事件があった[1]。私は法律の専門家でもないし実際に裁判したわけではないので断言はできないが、仮に紹介記事が「数千文字の文字数の中に1~2のスクリーンショットを使っただけであり、数千パターンはあるソフトウェアの出力結果の1~2を載せた」というものなら、裁判で争ったところで適法な引用として扱われる可能性が高いと思われる。1枚絵ならともかく、ソフトウェアであればスクリーンショットが問題になることはほとんどないだろう。例えば、商業雑誌のゲームやフリーウェア紹介記事が著作権法上の問題で争われることはまずない(ゲームの売り上げに影響を及ぼす程度のネタバレなどで著作権以外からも争えるようなものでない限り)。

 少々前にも、同人制作物の(著作権法的に)適法な利用が炎上した事件があった。立命館大学で日本語テキストが(R-18とすべき)性的表現を含むか否かの自動判定を行う研究でpixivの同人小説を利用したというものである。同人小説は解析に用いられただけであり、論文中で一部文例が紹介されているが、論文中に引用文が占める割合はほとんどなく、また引用文は引用元の小説のごく一部であるため、著作権法上認められた適正な利用と引用・批評の範囲に収まるものであり、これを著作権侵害、著作者人格権侵害とするのは困難なものであった[2]。

 著作権法においては、著作物は押しなべて《公衆に向けて発信し、全力で批評される》ということが起きうるもので、それは認められるべきだ、という扱いをしている。URLを摘示されて下手糞と断じられようが、勝手に分類されてこれは○○趣味これは××趣味などと勝手にラベリングされようが、それは批評の一環であり著作権法では規制することはできない。それは“なろう小説”をテンプレラノベと呼んだり、あるアニメを「スマホ太郎」と呼んで駄作と呼んだりするのと変わらず、そう批評することは批評者の思想や言論の自由として擁護される。問題の「強い女メーカー」の紹介記事も批評のうちに入る程度で、「勝手に使われた」というのは著作権法上の想定から言えば過剰反応、過大要求に見える。

 しかしながら、同人創作の中には著作物として扱われることを意識されていないものも多い。R18同人作品の中には、個人的な性的趣味の暴露で、プライベート・セックス・ビデオに近い感覚で作られているものがあるのは認めるべきであろう。これを隠したいという気持ちは理解できる。

 現行法では、そういったものを他人の閲覧から保護するにはプライベートに回覧する狭義の同人誌の範囲にとどめ、著作権法の運用上の《公衆に向けて発信》扱いにならないよう自制する必要がある。例えば家族で見返すだけに撮影されたファミリービデオは、公衆に発信したとはみなされず、晒されたならプライバシー侵害(≠著作権侵害)として処理できる。日記帳に秘密でつづっていた信仰告白を勝手にさらされたとしても同様だろう。著作権に関連する過去の判例から言えば、10人程度の閉じたサークルでの回覧はプライベートなものとして認められる(客席数25人程度の小劇場での演劇やライブを著作物に含めるようにするための基準である)。

 おそらく齟齬が生じているのはそこで、製作者は同趣の人間への回覧として製作しているつもりでSNSで流しているのに対し、SNSは杭州発信メディアと見なされてしまうところだろう。実際、twitterやpixiv、picrewは全世界に発信しうる著作物として規約を作っている。鍵アカウントさえも不完全で、鍵アカウントはフォロー外には見えないというだけで、守秘義務もなければ、不正競争防止法にひっかかるような特約があるわけでもない。数千のフォロワーを抱える鍵アカウントならば、適法な程度の引用をされても著作権法でそれを掣肘することは困難だろう。

 そしてもっと面倒なのは、オタクは同趣の人間がたくさんいてくれたほうが嬉しいことがしばしばある、ということである。同じ趣味の人間に「好き」と言ってもらえるなら何百でも何千でもリツイートされたいが、サークルの外での言及は適法な引用であったとしてもプライバシーの侵害であり我慢ならない、ということが起きているように見受けられる。そもそも同人趣味はSNS以前から「入り口は隠すが同盟リンクは張る」「タグは付けるが検索除けする」など、まだ見ぬ同趣の人間には見てもらいたいが部外者には見てもらいたくない、というアンビバレンスを抱えていた。

 結局、著作権法上の公衆発信される著作物とプライベートな同人制作物の区別がネットの同人事情と齟齬があるということになるのだろうが、現行の著作権法と過去の判例は、過去の著作者たちが商業と同人との別を問わず戦って勝ち取ってきた基準であり、SNSの同人事情に合わせて変えろと言ってもそちらとの整合性から簡単にはいかないだろう。公衆向け著作とサークル内同人創作の線引きもあやしいもので、名目上「同人誌即売会」であるコミケ等で数百~数千を売る商業的著作活動を行っている人間もいる。同趣の人間のみ言及を許したとて、個々人で地雷ポイントなどはそれぞれ違うのだから批評を完全に抑えるのは無理であり、地雷ポイントが違う人どうしが「同趣」と認め合うかどうかで散々もめるだろう。まして、政治的アジテーションを「閉じたサークル内での発言」として批評を禁じるような使い方をされたらフランス革命以来の言論の自由との戦いになる。

 「実情に合わせて法律を変えろ」といったところでその「実情」が未整理で法律に落とし込むにはまだまだ整理が必要な状況である。当面、現行法を前提として、妥協しながら出し方をコントロールしていくしかないと思われる。

[1] https://yowai-otoko.hatenablog.com/entry/2019/02/20/210633

[2] https://news.yahoo.co.jp/byline/soichiromatsutani/20170527-00071377/


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