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アイドル・ポリス26 #2

 

 ネオサイタマ警視庁ビル。「平和」「秩序を愛する」「叩いて棒で練る」などのショドーが飾られた優雅な部屋。その最上階は元が誰のものだったかは誰も覚えていない。今ではハイデッカー長官の専用室となっている。物憂げな顔で壁一面の窓ガラスから世界を見下ろす彼女の名は、シズカ・モガミ。

 彼女の黒いマッポコートの下は、紺色のアイドル装束。シズカもまたアイドルであった。彼女はネオサイタマで最も高いこの部屋から街を眺めるのが好きだった。ウシミツ・アワー。眠らない街。痩せた月が見下ろす彼女のゲーム盤。

 下界は喧騒に満ちた猥雑さを感じさせるが、それは一定の規則性を保っている。物の流れ、人の流れ、そして命の流れ。それら全てを彼女が整えた。無駄のない整理された世界。ただ力で抑え付けただけでは美しくない。ハイデッカーという駒を用い、如何に盤の上を支配するか。それが彼女のゲームだった。

 その為に秩序を乱す不穏分子は悉く排除してきた。だがシズカはそれに心痛めたことはない。ハイデッカー、即ち秩序の番人の当然の責務である。そうして築き上げた夜の静寂。それが今、犯されている。シズカの見守る先でまた火柱が上がった。あれは確か偽装したヤクザのアジトであったか。

 街を騒がせた強盗団の存在は黙認した。一定の遊びが無ければパズルはすぐに崩れ去る。ネズミは子猫を引っ掛ける。出過ぎた真似をする厄介者をピックアップするにはお誂え向きの玩具だ。特に三九課のような釘を叩くには。最近まではそう考えていた。更なる危険分子が現れるまでは。また火の手が上がる。

 側近のナオが謎のアイドルに始末されてから、次々と手持ちの駒が破られていった。ケチの付き始めは、そう、あのライブハウスに踏み入った時からだ。あの思想犯の護送が失敗した時から彼女の計算に綻びが生じ始めた。放っておいた結果がこれだ。シズカは反省した。彼女のネオサイタマが燃えている。

 爆発炎上する建物は全て彼女の駒だ。下手人はそれを理解している。明らかなるシズカへの挑戦状だ。そして今夜、これはただのテロではない。流してもいない緊急警報により、各地にマッポやハイデッカーが急行している。丁度いいので護衛のアイドルも現場へ行かせた。無駄な犠牲を払う必要はない。

「火や銃って嫌いなの。ただの破壊の道具よ。そう思わない?」

 シズカは背後に問い掛けた。「……貴女を殺すのには事足りる。それで十分よ」「そう」振り向くとそこには白いアイドル。銃口が二つ、シズカを睨んでいる。「貴女が例のバンドの生き残りね。アイドルになっているとは予想外だったわ」

「質問に答えて。どうして私達を襲ったの?」

 シズカは深く溜息を吐くと片手を上げ、ガラス越しの街を指し示した。「ネオサイタマは昔から酷い有様だった。まさにマッポーめいて。それを知っている?」「……」「警察に入って、表の汚さしか知らなかった私は生きて行くことを諦めかけた」

 背後で窓ガラスが大きなモニターに変わり、数十個に区分けされ街の様子を映し出す。全てのモニターの中でハイデッカーを忙しくパトロールし、少しでも治安に障りそうな存在を引っ立てている。画面の中で路上歌手が殴られた。シホは銃を握り締めた。「私はアイドルになった。そして、支配すると決めた」

「この街の平和を守る。その為に私が街の全てを采配する。ハイデッカーは秩序の象徴。その長たる私は平和の支配者。私こそが、偶像支配者となる!」

 シズカは両手を広げ熱く宣言した。「……狂ってる」シホは吐き捨てた。「私は正常よ。むしろ貴女のような思想犯は異常なの。今すぐに消えなさい」

 シズカはコートの前を閉じ、メンポを取り出して顔に着けた。整った字体の『秩序』の文字が威圧的に輝く。腰に吊っていたスタンロッドが構えられると、並みのプロデューサーであれば一瞬で感電死する程の電流が火花を散らした。

「ドーモ、クレシェンドブルーです」
「ドーモ、ルーントリガーです」

 両者はアイサツし、シズカが駆け、シホは銃を撃ち放った。




「これでシホ=サンが仕掛けた爆弾が作動すると同時に、緊急アラートが流れてマッポ・ネットを撹乱できる。もちろんハイデッカーのネットワークもハッキング済み」

「爆発による被害は?」
「建物はほとんど土地転がしだから無人。爆発も最小限だし……」
「そう、アリガト」

 シホとアンナは計画の最終確認をしていた。今夜、シホはハイデッカー長官を暗殺する。その為の障害を排除することがアンナのせめてもの助力だった。「いい? 計画を実行したらすぐに潜るのよ。あいつらを甘く見てはダメ。ツテはあるの?」「ダイジョブ。マッポにも頼れる人はいるから。でも……」

 アンナは不安そうにシホを見た。日に日に冷たいアトモスフィアに満ちる友人を。マッポの自分ですら嗅ぎ慣れぬそれは二人を隔てる壁を否応にも意識させた。「でも……シホ=サンはどうするの……?」シホは言口を開いた。「私は……」「帰って……きてくれるよね……?」「……ええ。ユウジョウ」「……ユウジョウ」

 シホとアンナは固く手を握り合った。そしてシホは毅然と踵を返し闇へ消えて行った。アンナは見送り、やがてデスクに着いて鍵の掛かった引出しを開けた。中にはハッキングツールと『国家機密』のメンバー達と撮った写真。

「……ミズキ=サン、始めるよ」
『ヨロコンデー。MKBシステム、起動。ごー』



 それはシホが経験した僅かなイクサの中で、その何よりも速かった。それは銃弾を躱し、否、銃口が向くよりも早く避け、シズカはまるでこちらの思考を覗いているが如く駆け抜けた。「チィーッ……」シホは早々に射撃を諦め、カラテで迎え討つべく構え直した。まずは鋭い警棒突きをワン・インチで躱す。

「イヤーッ!」
「イヤーッ!」

 返す手で振り抜かれた一撃をブリッジ回避! ストンピングを更にバック転で回避! 即座に間合いを詰めたクレシェンドブルーの横薙ぎの打撃を拳銃でガード! 「イヤーッ!」BLAM! BLAM! 至近距離からの連続射撃! 「イヤーッ!」シズカはブリッジ回避! タタミ三枚の距離!

(((見える……!あの恐るべきワザマエが……)))

 ルーントリガーはシズカの警棒を避け射撃の反動で繰り出した回し蹴りをガードされながら、そのことに気が付いた。かつて為す術なく致命傷を負わせれたシズカのカラテに、シホのアイドルソウルが順応し始めた。そう、今は彼女もアイドルなのだ。

 BLAM! BLAM! BLAM! BLAM!

 二つの銃口が火を噴く! クレシェンドブルーは警棒を閃かせ全ての弾丸を叩き落とした! ワザマエ! ルーントリガーが引き金を引く間に流星の如く駆ける! ハヤイ!だがシホの射撃は空振りではない。射撃反動によってシホの体が回転し、ジゴクめいた蹴りが襲い掛かる!

「イヤーッ!」

 勢いの乗った反動カラテを叩き込む! 「ンアーッ!」クレシェンドブルーの腹部に蹴りが刺さる! 「この……イヤーッ!」カウンターめいた警棒が抱え込まれたルーントリガーの膝に痛打を打ち込む! ZZZT! 「ンアーッ! ……イヤーッ!」BLAM! BLAM! シズカは超至近距離からの銃弾を回避!

 ルーントリガーは辛くも反動カラテでホールドを脱する! 足のダメージは重くはない。だが電撃がコンマ2秒体の自由を奪う!「イヤーッ!」「ンアーッ!」クレシェンドブルーの回し蹴りを受け、ルーントリガーはワイヤーアクションめいて吹き飛び壁に激突! 即座に銃を構えるが照準がブレる!

 BLAM! 弾は走るクレシェンドブルーのこめかみを逸れ向かいの壁の『未来飛行』のショドーを破壊! ルーントリガーはもう一度引き金を絞り歯噛みした。ナムサン、弾切れである。シズカが迫る。シホの主観時間が停滞する。アイドルアドレナリンの過剰作用だ。まだ諦めるには早すぎる。シホは銃を手放した。

 ZZZT! 握り締められたスタン警棒の電流がシホの左手を灼く! 「ヌウウウーッ!」そして右手はスカートから銃を抜き放ち唖然とするシズカに突き付けた! BLAM! BLAM! BLAM! 無慈悲なゼロ距離連射! 「ンアーッ!」シズカは胸から煙を上げて吹き飛ぶ! ゴウランガ! 何たる捨て身の一撃か!

「ハァーッ……ハァーッ……」

 傷んだ手に走る激痛に歯を食いしばって耐え、シホは荒く息を吐いた。壁に背を預け床に倒れたシズカを見た。目を閉じ口から血を流している。「……ハァーッ…」シホは震える手で銃を構えた。照準を倒れた怨敵に。復讐は果たされた。最後の銃弾は、彼女と己の為に。

BLAM!


「……アバッ」

 シホは己の胸に穿たれた穴を見た。じわりと白いアイドル装束に赤い染みが広がり、血を吐いた。膝から力が失せ倒れ込むシホの視界の端でシズカが起き上がる。シズカはコートの袖から現れた拳銃と自室の壁に咲いた鮮血の華を見遣り、冷たく呟いた。

「……だから銃は嫌いなのよ」

 はだけたコートから胸部アーマーが滑り落ちる。血の混じった咳をし、シズカはシホを見下ろした。彼女は爆発四散していない敵に油断はしない。速やかにカイシャクすべし。決断的に歩み寄り片足を上げた。……ザリ。その横で大モニター画面のいくつかにノイズが生じた。シズカは眉をひそめた。

「何……?」ザリザリ。部屋の明かりが瞬く。ザリザリザリ。シズカはよろめいた。ノイズ。眩暈。額を押さえて耐える。ニューロンを侵食される感覚。明滅する電灯。視界さえ曇り揺らめき、壊れた中古テレビの画面めいて風景が滲ザリザリザリザリ010111001011110101110101

 011010101011101011101……これは」そこは果たし合っていた部屋ではなかった。どこか見覚えのあるステージ。ただし色彩はモノクロに変わり、床はチェス盤めいた白黒のマス目になっている。シズカの姿もまた遺影めいて色を失っていた。魂をヤスリ掛けするようなサツバツとした風が吹き抜け、ライトが明滅する。

 ぼんやりとした闇に目が慣れると、シズカは客席に人影を見出した。無数の人物たち。誰もが虚ろな表情で舞台を見つめている。その中に。「……ナオ=サン!?」それはピストルの名手であり、シズカの部下でもあったアイドルの姿だった。先日、シホに殺されたはずの。シズカは見渡した。

 つまり、この客席をまばらに埋める人々はシホの犠牲者だというのだろうか。更に知った顔を幾つも見出し、シズカの胸中に寂寥感をもたらす風が吹き荒ぶ。ブガー。突然オツヤめいた静寂を破り、開演を告げるブザーが鳴った。カン!シズカの目の前の煙たい闇を、冷たいスポットライトが照らす。

 立っているのは当然一人のアイドル。白かったアイドル装束は黒い血によりバイオシマウマめいたボーダーと成り果てていた。最早判別しがたい、亡霊よりも虚ろな目。それは決して空虚ではなく、己が飽和した感情から余計なものを排除し切ったからに過ぎない。今シホの目には純粋な殺意のみが煌々と輝く。

 シズカは無言でカラテを構えた。シホもまた前傾姿勢の獣めいた構えを取った。客席から無音の喝采が湧き上がった瞬間、両者は飛び出した。シズカの手に得物はない。この空間に入った時から素手だ。だがそれはシホも同じ。「「イヤーッ!」」ストレートが相打ちめいて突き刺さる!「「ンアーッ!」」

 シホとシズカはたたらを踏み、同時に握り締めた拳を叩き付けた!「「イヤーッ!」」「「ンアーッ!」」再び相打ちだ!「イヤーッ!」素早く持ち直したシズカのカラテフックがシホの胸に直撃!「ンアーッ!」ナムサン!黒い鮮血が噴き出す!シホの重い蹴りがシズカを打つ!

「イヤーッ!」
「ンアーッ!」

 シズカの口元を黒い雫が伝う!「イヤーッ!」「イヤーッ!」シホの追撃ブローを辛うじて腕でガードし、シズカのチョップ突きがシホの喉元を刈り取りに行く! シホは体を大きく逸らし回避! その反動で頭突きを仕掛けた!

「イヤーッ!」
「ンアーッ!」」

 直撃! 二人がよろめく! そしてすぐさまワン・インチ距離での絶え間ないカラテの応酬! だがそれはワザマエからはほど遠い武骨な力任せのイクサだ。殴られては殴り返す子供の喧嘩めいて。

「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」

 ステージのスクリーンに今までのシホのイクサの断片がノイズ混じりで映される。そこに暗いライトに照らされ、殴り合う影が浮かぶ。「イヤーッ!」「ンアーッ!」シズカの痛烈なランスキック! シホがワイヤーアクションめいてステージ端まで吹っ飛ぶ! シズカがスプリントを開始! 「ヌゥーッ!」

 転がり起きたシホも駆け出す! そしてカラテを構える間もなく激突! 「ゴボボーッ!」「アバッー!」シズカが喀血し膝を着く。シホはもんどりうって倒れ伏す! ふらふらと立ち上がったのはシズカ! もはやメンポはどこかに吹き飛び、威圧的なマッポコートはただの黒い襤褸切れめいている。

「アバッ……アアア……」シホの目に強烈な殺意の白い炎が燃え上がる。「「アアアアアア!」」足元に黒い血だまりを作りながら両者はカラテを奮い続ける。モノクロのステージは不純を許さない。信念も動機も色を失い、あるのはただ生か死かだけ。ナムサン……二人はマッポーカリプスの日まで闘い続けるのか!?

 ぼんやりとした観客席の亡霊達に見守られ、また血飛沫が舞う。シホは朦朧とした意識の中で拳を撃ち付ける己を自覚した。(((私は何の為に……)))相打ちクロスカウンターめいて顔面に衝撃。崩れかけるアイドルのニューロンに声なきコールががなり立てる。殺せ。殺せ。殺せ。

「……コロス!」

 シズカの目の中にも理性は感じられない。ステージの上でブザマに踊り狂うアイドル。…それが彼女の望みだったのか?意識はザラついたノイズに掻き消され、纏まることなくモノクロ分解されて虚空に消えた。燃える白い光だけが彼女の全て。シホのニューロンから最後の矜持が消え去ろうとした時。

 ギャアアアアアアアン!

 無音の劇場をけたたましいエレキギターの騒音が切り裂いた。スピーカーからドッと音楽が流れ出しシホの耳をつんざく! それは彼女達『国家機密』のデビュー曲! シホは目を見張り辺りを見回した。一体何が起こったというのか!? ……おお、ゴウランガ! スクリーンを見よ!

 ノイズに塗れたスクリーンに一つ、ギターを構え片手を高々と挙げている少女の影。掲げたるはキツネ・サイン! 「……ジュリア=サン」ゴウ。スクリーンの奥から紅蓮の炎が吐き出され、ステージを蹂躙した。白黒の劇場が真紅に染まっていく。シズカの姿が飲み込まれても、シホは影を見つめていた。

 影は動くことないまま炎に焼き尽くされた。それが彼女の最後のライブだった。シホの為の、彼女達だけのステージ。モノクロのステージが焼け落ちる。シホは駆け出した。未練を焼き焦がす炎に追われ、客席の亡霊が焼失していくのを横目に劇場の扉に肩口からぶつかり、色溢れる世界へ躍り出た。

「イヤーッ!」
「ンアーッ!」 

 シホの拳がシズカの顔面に直撃した。ワイヤーアクションめいてシズカが吹き飛ぶ。彼女のニューロンが加速し、流れていく景色がゆっくりと目に焼き付く。今際の際のソーマト・リコール現象だ。唸るような音楽の奔流。幾重にも響いている。いったいどこから?

 シズカの背後、巨大モニターの全ての画面には、監視カメラ映像は映っていない。そこには擬人化されたピンクのウサギ、黒い猫、そして赤いキツネのキャラクターが描かれたロゴが映っている。『国家機密』のイメージだ。画面一つ一つから大音量の楽曲が流れ出している。何者かのハッキングか。

 CRAAASH! シズカの背がモニターを突き破り、夜の街へ吸い込まれていく。彼女が愛した夜景だ。「サヨナラ!」爆発四散の音は、街を揺する歌の波に掻き消された。シホは砕けた窓枠から街を見下ろした。街中から歌が聴こえる。この世の不条理と不屈を謳った曲が。間違いなくアンナの仕業だろう。

 今宵、一人の独裁者を除いた。それは無気力な人々の解放と成り得るだろうか。彼女達の歌は世界を目覚めさせることが出来るだろうか。答えは否だろう。それでも彼女は果たした。曖昧な世界から白と黒を切り取ったのだ。シホは街を見た。人々が生きているネオサイタマの街だ。

 ピガー。奇跡的に無事だった通信機が鳴る。アンナからの通信だ。シホは応答ボタンを押そうとして、暫し躊躇った後に窓から投げ捨て、もはや誰のものでもない部屋を後にした。






『安い。実際安い』
『回していますか?回さなきゃ当たらない!』
『パピヨン。虹色のパピヨンがいっぱい!』

 爆発事件、ハイデッカー長官事故死などの騒動があったにも関わらず、翌日にはネオサイタマは不自然なほどにいつも通りだった。無関心の原因の一つには、被害が無人物件ばかりという点が挙げられる。ハイデッカー崩壊の際にはネオサイタマ警察が速やかに対応し、街にカオスが蔓延するのを食い止めた。市民の多くは三九課が縦横無尽に治安行為重点しているのを見掛けた事だろう。それはあくまで日常の延長であり、一晩の騒動で何かが変わることはない。空虚な電飾に押し潰されて空を仰ぐ者はいない。

 ウシミツ・アワー。ライブハウス『和三盆』は既に解体工事が始まり、数日の内には更地に変わっているだろう。シホは隣接する雑居ビルの屋上から見下ろしながら考えた。散々迷った挙句、最後はやはりここに辿り着いた。あの晩からどれくらい経っただろう。そう長くはないはずだ。遥か彼方と思えても。

 結局アンナには会えず仕舞いだった。礼が言えなかったのが心残りだが、仕方がない。復讐は終わった。もう生き永らえる必要も無くなった。終わったのだ。何もかも。シホは己の最期の場に、同じように存在意義を失くしたライブハウスを選んだ。ここにシホ・キタザワの全てが詰まっているからだ。

 スカートの中の銃の重さを確かめ、シホはライブハウスに飛び移ろうとした。その足が止まる。シホのアイドル視力は暗闇に少女を見出した。その頬を腫らした茶髪の少女は、ささやかな花束をライブハウス前に置くと建物を見上げた。シホのアイドル記憶力はすぐにその人物を探り当てた。

 まだシホが『国家機密』のメンバーと歌っていた時、その少女はいつも最前列で叫んでいた。一度だけ会話をしたのを覚えている。上気した顔で歌が好きなのだと語っていた、あの少女だ。少女は決意的な表情で建物にキツネ・サインを掲げると、くるりと踵を返し去って行った。シホは立ち竦んだ。

「……そっか」

 まだ、終わっていなかった。キツネの子は死んでいない。彼女達がいる限り、シホ達が込めた歌の力は生き続けるだろう。そして、それを守ることが出来るのは……「……私でいいの?」シホは自問自答した。答えはゼンモンドーめいて帰って来ない。ただ胸に灯る熱い炎が背中を押す。

「あれは……」

 闇の中に更なる人影あり。カメラを構えた不審な影が去り行く少女をストーキングしている。その者が纏うのは……ナムサン、アイドル装束ではないか。マフラーの奥で優しく緩んでいたシホの口元が引き締まる。そうだ、まだ何も終わってはいない。すべてはここから始まった。シホは決断的に駆け出した。右目にジゴクのサイリウムめいた白い灯が輝く。

「イヤーッ!」

 シホは飛び上がり、ネオサイタマの夜に飛び込んだ。



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