実家に帰っても、もうノスタルジックに浸れない

久しぶりに、一人で実家に帰った。
電車とバスで二時間弱くらいかかる。同じ関西だし、そんなに遠いとは思っていないけど、まあ近くもないかなあ。
用事があったからなのだけど、夫も娘も連れずに一人で帰るのは実に二年以上ぶりのことだ。
それも平日、父親は仕事でいなくて、母親と黒猫(アイコンの)だけが待っている実家へ。

時間もなく慌ただしくだったけど、それでも娘を産む前と同じように少しの時間、ちちんぷいぷいを見ながら母と話ができた。
「ぷいぷい、6時までやってほしいやんなー」
「昨夜のシンデレラ、まだやってる?」
――なんて話しながら、平日の午後はまったりと過ぎていく。

「これ、孫ちゃんに。あと、あんたのおやつ」と、いつものようにお菓子を持たせてくれる母。
「梅干しいる? あと、ひじきもあるで」「あっ、欲しい! ありがとうー」と、なんでもかんでももらっていく私。
今はわりと都市部で暮らしているので、実家の郊外感が懐かしい。車もほとんど通らないのに、たまに爆音でバイクが通ればテレビは聞こえなくなる。
黒猫はほとんど眠っていたけれど、それでも久々の私を警戒することなくエサを欲しがってくれたり。帰り際、「またね。元気でね」と挨拶してナデナデしていたら、わりと強めにかまれてしまった(きっと眠かったのよね、邪魔してごめんよ)。
いつもとは違う、ゆったりとした時の流れを満喫し、早々に「じゃあ、またね。すぐ8月に帰るから」と言い、帰りのバスへ。

娘を産む前はわりと頻繁に一人で帰っていたけど、この帰りのバスではいつも切ない気持ちがこみ上げてきた。
まだ帰りたくなくて、もっといたくて、いっそのこと、本当はずっと実家にいたいような。でも、私の生活の拠点はもう実家ではない。
結婚したことを後悔しているとか、そういうことでは決してなくて。それとは次元の違う話で、ただただ寂しい。
何をどうしていても、生きているってことはそれだけで時が過ぎていくということ。両親や兄弟との関係性や距離感も変われば、お互いに老いてもいく。そういった当たり前の事実を受け止めきれずに苦しかった。

久しぶりに実家に帰った私は、帰りのバスでその苦しみを味わわなかった。
実家に帰ったことは特別な感じがあまりしなくて、むしろとても自然だった。実家に着いた時も「久しぶりにやっと来たー!」という感慨もなく、「来たな」とあっさりそう感じた。帰る時も、そりゃ多少は寂しいなと思ったけど、「またね」と笑顔で思えた。
帰りのバスでも少しはぼーっとしつつ、「あー、いつもこうやってバスで帰ってたんだよねー」なんて思ったけど、「寂しいよ、苦しいよ」なんていう感情は強く起こらなかった。
それは時間がなく慌ただしかったからかもしれないし、帰宅すれば娘(や夫……ごめんね、そんな扱いで)に会えるからかもしれない。
そして、今や実家には私宛の郵便物もほぼ届かなくなっている。私の物もほとんど置かれていない。懐かしいし、愛着もある。けれど、だいぶよそよそしい顔になってきてしまっている(まあそれは仕方ないというか、当然だ)。

帰宅すれば、繰り返しになるが家族もいるし、私の普段使っているパソコンや着る洋服がある。実家の冷蔵庫はいつの間にか何が入っているのかわからなくなってしまったけれど、家の冷蔵庫には何があるかしっかりと把握している(というか、私が把握していなければ大変だ)。

そういうふうに、なってきたんだなあとしみじみ思う。結婚して今年で6年。いつの間にか、そんなにも時が経ってしまった。
こうして変わっていくんだなあ。

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