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【エッセイ】私の哲学観、私の生き方

「分からないけど、分かりたい」

 私にとっての哲学はそういう存在。現象の根源へ。分からないからといって投げ出さず、分りたいという好奇心をかき立てられるもの。私の興味の趣くままに。分かったような氣になることもある。だが、それはあくまでも仮固定。最終的な結論ではない。それだけ、哲学は奥が深い。いつも未知の謎が残る。哲学にも流行がある。そのときは流行っていても、時代とともに廃れることがある。それでも、時代を経てまた盛んに議論されることもある。哲学も分野によって浮き沈みがある。どの分野でも、その根源の探究をすることには変わりがない。古代ギリシア哲学では、万物の根源を探し求め、考察した。水か、原子か、無限か、など。候補は挙がっても、決定的な結論は出ていない。古代から現代までには様々なテーマが議論されてきた。時間とは何か、心とは、言葉とは、社会とは、そして、私とは何か。その存在のありかはどこか。空間的なものだろうか。空間とは環境であり、自然である。では、天地自然をどう捉えるか。客観的な、物理的な物なのか。私の心と天地はどう関わるのか。天地に心はあるのか。ただ、確かなのは、私は生かされているということ。今は止むことのないこの心臓の鼓動も、今、息をしているこの天地の空氣に。私に生命力を燃やし続けさせてくれる食物に。

 感謝。

 どんなことが起ころうとも、この氣持ちは手放したくない。「感謝」という信念を持ち続けたい。力まず、たおやかに。当たり前なこととして。
 私は昔のように腐ることは二度としたくない。つらくて倒れることもあるかもしれない。倒れてもいい。倒れるたびに、また、立ち上がれば良いのだから。孔子の言うように、その立ち上がることが、いかに誉れ高いことか。この再び立ち上がることに、人間の尊厳がある。立ち上がれるから、明日という希望も見えてくる。決して倒れないことではないのだ。倒れたときにどうするか。そのまま終わってしまっていいのか。まだ、やらなければならないことがあるはずだ。そうだ。このまま終わるわけにはいかない。倒れるときも一人。また立ち上がるときも一人。
 だが、孤独ではない。天地に生かされている。人間の相対的な世界ではない、絶対的な天地に。天地は天災もあるが、天地の恵みも与えてくれる。生きるために必要なこの心と身体を。母なる天地から与えられた。仏教の禅宗に「父母未生以前ぶもみしょういぜん」という言葉がある。父や母すら生まれる以前のこと。相対的な存在にすぎないと思われる自己という立場を離れた、絶対・普遍的な真理の立場のこと。これを私は天地だと思う。合氣道家の藤平とうへい光一は言う。「天地を相手にして生きなさい」と。人間の社会の相対的な世界に振り回されるんじゃない、絶対的な天地を相手にしなさい、と。そうすることで、自信を持ってプラスの人生を生きられるのだろう。これを受け入れるかどうかは、あなた次第。
 ただ、言えることは、私は父母から生まれた。幸い五体満足に生まれた。そして、天地自然の食物を与えられて、私の血肉となって、今まで生かされてきた。今は天地の空氣を吸って、生かされている。このことには大きな感謝しかない。恩がある。その恩に報いるために、天寿を全うしたい。私は。

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