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表現の自由についての覚書き

1/はじめに

この夏「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」が、「平和の少女像」の展示などで炎上し、電凸や脅迫などを受け、閉鎖に追い込まれるという出来事があった。

この件に関しては、ツイッター上でも、多くの人が「表現の自由」の観点から、あれや、これや、と発言しているのが散見される。

「表現の自由」という言葉も、「民主主義」と並んで、みんなが好んで使う言葉だと思う。しかも、これまた「民主主義」と同様に「表現の自由」についても、みんな、それぞれにそれぞれの「思い」があり、その「思い」をこの言葉に込めてこれを使い「表現の自由に対する侵害だ」とか「表現の自由にはそのような自由は含まれない」だとか言っているように感じられる。

「表現の自由」は、そもそも憲法第21条第1項に登場する文言であり、法律用語である。

私は「法律用語を一般の人々が使ってはいけない」なんて全然思わないが、ただ、法律用語の場合、そこには本来の意味があり、これと、あまりにもかけ離れた使い方をすると、それは「誤用」というべきだろう。

もちろん、法律用語も、必ずしも一義的ではなく、その言葉にどういう意味を込めるか(定義づけ)についても専門家の間にも議論がある場合がある。しかし、そのような議論も、一定の前提と、一定の範囲、の中で行われるのが通例である。

そのような共通基盤を超えてする用法は、いわば「場外乱闘」のようなものであり、はやり「反則」だろう。

むろん、これまでの大前提自体をひっくり返すような「新たな主張」を、いわば「自説」「独自説」として主張することは自由である。しかし、このような主張をするのであれば、それが従来からの議論の枠組みから外れる主張であることを主張者自身が認識していなければならないし、そのような主張をする際には「これは一般的な見解ではなく、あくまで私見である」ということを、読者にそうとわかるように「ことわる」べきだと思う。

と、そんなことを言いつつ、当の私自身が「表現の自由」についていつ学んだかと言えば、司法試験の「憲法」の受験勉強として学んだにすぎない。しかも、もう随分昔のことであり、忘れかけていることもある。知識が変容されているところもあるかもしれない。

ということで、自分への「備忘録」という意味も込めて、この機会に「表現の自由」について少し整理しておこうと思う。

2/憲法第21条第1項

こういうことは、まず条文から始めるべきだろう。そこで、条文を開いて見るに、日本国憲法第21条は、次のように規定している。

日本国憲法
第21条
 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

この憲法第21条第1項に「表現の自由」という言葉が登場する。

この条文を改めて読んでみて、すぐに疑問が湧いた。「その他一切の表現の自由」というけど、これは「言論、出版」にだけかかるんだっけ? それとも「集会、結社」にもかかるんだったけ? という疑問である。

つまり、集会の自由、結社の自由は、表現の自由の一部か? という疑問である。

少し厚めの憲法の体系書を開いてみたら、両説あると書いてあった。集会・結社の自由も、一種の表現行為の一類型とみる見解が多数説のようだ。

それはさておき、この条文を見て、私たちが当面知る必要があることは、2つだろう。

1つは「表現の自由」とは何か? である。

もう1つは「これを保障する」とはどういう意味か? だ。

3/表現の自由とは何か?

まず「表現の自由」とは何か、という問題について整理しよう。

(1)伝統的な見解

伝統的な見解は、これを「内心の思想を外部に発表する自由」と言った。宮澤俊義先生の説である。いまとなっては大昔の大先生と言うべきか。かの、芦部信喜先生の師匠である。

この定義から導かれる内容は2つ。

第1は、この見解によれば、「表現内容」は、内心の「思想」である。

第2は、「表現行為」は、外部への「発表」である。

しかし、ここには2つの問題が指摘される。

第1に、この見解によると、表現内容は「思想」に限られ、「事実」は含まれないように見える。そうなると事実をそのまま伝える「報道の自由」は表現の自由に含まれなくなってしまいそうである。もっとも、この見解も、実際には「報道の自由」もその範囲に含めるのであるが、そうであれば「思想」という言葉を使うのは、ちょっと不適切ではないか、という点。

第2に、表現行為を「発表」に限定することは、狭すぎないか、という点である。というのも、この定義によれば、いわゆる「知る権利」などは「表現の自由」には含まれないことになってしまうからである。

そこで、現在では、次のような定義が一般的になっている。

(2)現在の一般的な見解

芦部信喜先生の本には、表現の自由は「思想・情報(以下、情報と言う)を発表し伝達する自由である」と書かれている。

また、佐藤幸治先生の本には、表現の自由は「思想・信条・意見・知識・事実・感情など個人の精神活動にかかわる一切のもの(これを包括して「情報」と呼ぶことにする)の伝達に関する活動の自由」と書かれている。

芦部先生は、宮澤先生の弟子なので、やはり師匠を尊重してか、その定義から「思想」と「発表」は外せないようだ。思想も情報の一種であり、発表も伝達の一種だから、本来なら「情報」と「伝達」だけで足りるハズなのに。こういう「気遣い」が法律学をややこしくする。

いずれにせよ、この2つを見比べて、共通項を括り出せば、現在では「表現の自由」とは、

情報の伝達に関する活動の自由

ということになるだろう。

この定義のうち「情報」が何を意味するかは、すでに佐藤幸治先生がいろいろゴチャゴチャ書いてくれている。そういうことだ。個人の精神活動にかかわる一切のものである。広い。そして広くてよい。限定する必要は少しもないのだから。

問題は「伝達に関する活動」とは、いったい何か? である。

第1に、情報を発表する行為がこれに含まれることは間違いない。情報伝達行為とか、情報提供行為、あるいは情報提供権などと呼ばれるものである。

第2に、情報を受けとめる行為がこれに含まれることも、現在では争いがないようだ。情報をうけとる自由とか、情報受領権などと呼ばれる。

そもそも、よく考えれば、情報の伝達という活動は、情報提供行為だけで成り立たず、本来的に情報受領行為を予定している。つまり、だれもいない荒野で叫ぶ行為は情報を伝達しているとは言えず、こんなものは、そもそも情報提供行為とさえ言えないだろう。情報の送り手の行為は、受け手が存在して初めて意味をもつ。それゆえ、「情報の受け手の自由」というものは、表現の自由の中に本来内包されていたものと言える。現在の多くの研究者は、そう考えていると言ってよいだろう。

問題なのは、第3に、情報収集権をその範囲に含めるか、である。これは、いわゆる「取材の自由」も表現の自由の範囲に含まれるか、という問題ということもできる。

判例は、これが「表現の自由」に含まれるとは解していないが、佐藤幸治先生は、情報伝達行為は、多かれ少なかれ情報収集活動に依拠するとして、「表現の自由」は「情報収集の自由・権利」を包摂すると解している。学説的には、近時は含まれるという見解が多数であるようだ。

4/表現の「自由」を保障するとは?

つぎに「表現の自由」を保障すると言っても、「情報の伝達に関する活動の自由」を保障すると言っても、そもそも「自由」ということの意味が明らかにならなければ、それを「保障する」ということの意味もまた明らかにならない。

では「自由」とは、いったい何だろうか?

人権は、その性質に応じて「国家からの自由」「国家への自由」「国家による自由」に分類される。そして、それぞれで、その「自由」の内容が異なるから、これを保障すると一口に言っても、当然その内容も異なってくる。

(1)国家からの自由

自由権は「国家からの自由」と呼ばれるものである。消極的権利とも言われる。表現の自由も、基本的には自由権であり、ここに位置づけられる。

自由権は、個人の自由な意思決定と活動を保障することを目的とするから、国家(公権力)が個人の領域に対して権力的に介入することを排除する、というのがその保障の基本的な内容となる。

つまり、個々人のする自由な意思決定と活動に対し、国家(公権力)は、これを妨げてはならない、ということだ。

(2)国家への自由

参政権は「国家への自由」と呼ばれる。国政に参加する国民としての権利である。典型的には、選挙権、被選挙権がこれにあたる。

国家への自由は、選挙制度が適切に整備され、国民の意思(民意)によって国政が運営されるという民主主義が実現されることによって、その目的が達成されると言える。

(3)国家からの自由

社会権は「国家からの自由」と呼ばれる。積極的権利とも言われる。社会的・経済的弱者も「人間に値する生活」を営む権利があるとして、自由主義社会の行き過ぎ、資本主義経済の高度化に伴い、20世紀に至って認識された人権である。

そもそも、失業、貧困、労働条件の悪化などの社会問題は、個人の自由な活動に対して国家が何らの介入もしなかったことによって生じたものであるから、国家が積極的に社会・経済政策をすることによって、これを解消し、だれもが「人間に値する生活」を営むことができるようになったとき、この人権は保障されたと言える。

もっとも、自由権とは異なり、社会権を実現するためには、国家は、私人間の生活関係に介入しないというだけでは足りず、社会的・経済的弱者に人間に値する生活を実現するための積極的な施策をする必要がある。そして、その施策については、さまざまなやり方があり、一義的ではない。

例えば、貧困を解消する場合、お金を支給するというのは1つの最も単純な方法ではあるが、それが唯一の方法ではない。現物で支給するという方法が優れているという場合もあり、それではいけないということはない。つまり、社会権を実現する方法は1つではない。

そこで、社会権は、国家の積極的な配慮を求めることのできる権利であるものの、憲法の規定だけを根拠として権利の実現を裁判所に請求することのできるほどの具体的な内実をもつ権利ではない、と解されている(抽象的権利)。具体的な権利となるためには、立法による裏付けの必要がある、と言われている。

(4)表現の自由はどのような性質の権利か?

「表現の自由」は、基本的には、自由権である。

「これを保障する」とは、個人の情報提供行為が、国家(公権力)によって妨げられないというのが、その最も基本的な内容になる。

また、情報受領行為についても、同様である。情報受領権は、見る、聞く、読む自由であり、すでに流通している情報を取り込むことを公権力によって妨げられないことをその内容とする。

さらに、情報収集権についても、情報を収集する活動の自由(取材の自由)という限度においては、自由権である。この活動を公権力に妨げられないことを保障の内容とする。

いずれも、公権力に対し、自己の表現活動を妨げないことを求めることができる具体的な権利ということになる。

これに対し、いわゆる「知る権利」をも、表現の自由に一部であると捉えたうえで、上記の情報受領の自由、情報収集の自由の限度を超えて、積極的に、政府に対し、情報の開示を求める権利(政府情報開示請求権)もその権利内容に含まれると解するときは、これは「表現の自由」の社会権的側面(国家による自由、積極的権利)という意味をもつことになる。

そして、この側面では、その権利内容の実現のためには国家の具体的な施策を必要とするから、具体的権利ではありえず、抽象的な権利と解される。

なお、権利の組立て方の問題であるが、佐藤幸治先生は、政府情報開示請求権を「情報収集権」の積極的側面と解し、芦部信喜先生は、政府情報開示請求権を「情報受領権」の積極的側面と解しているようだ。

5/表現の自由を「保障する」とは?

(1)自由権を保障することの意味

表現の自由は、基本的には、自由権であり、「国家からの自由」である。

そして、「国家からの自由」が実現されるためには、国家は、私人(個人)のする活動を妨げなければよい。つまり、ここでの「保障」の内容は、国家(公権力)に対して不作為を命じる拘束力である。

そこで、表現の自由が、基本的には自由権である以上、憲法第21条第1項が「保障する」と言っているのは、自由権的側面に関する限り、

国家(公権力)は、私人の表現行為を妨げない

ということになる。それと同時に、あくまで拘束の対象となるのは、国家(公権力)であるから、

一般の私人(個人)は、何らの拘束も受けない

ということになる。

だが、本当にそうか? この2点について、もう少し、掘り下げてみたい。

(2)妨げることが正当化される場合

すでに述べたように、自由権を保障するということは、個人による自由な意思決定とこれに基づく活動を「妨げない」ということである。これは「制限しない」と言ってもよいだろう。

もっとも、表現の自由が「保障される」と言っても、その保障は、思想・良心の自由(第19条)のような絶対的な保障ではないから、そこには、一定の限界がある。これに対する制限のすべてが、表現の自由に対する「侵害」となるわけではない。正当に制限ができる場合があるのだ。

では、表現の自由を正当に制限できる場合どは、どのような場合か?

制限が正当化される要件としては、第1に、法律の規定によることが必要である。この場合の「法律」とは、国会が制定する法規範(形式的意味の法律)を意味する。

第2に「公共の福祉」に合致していることが必要とされる。憲法第13条は

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする

と規定している。そこで、基本的人権は「公共の福祉に反しない限り」、最大の尊重をされるわけで、逆に言えば、人権に基づく活動といえども「公共の福祉に反する」場合は、制限ができると解される。形式的には、この第13条が根拠条文となって、人権に対する制限も可能となる。

もっとも「公共の福祉」の意味をめぐっては、厳しい見解の対立があり、何でもかんでも「公共の利益のため」とさえ言えば人権に対する制限が正当化される、というものではない(ただ、ここに深入りすることは本論考の趣旨ではないから、ここでは、これ以上はこの議論には立ち入らない)。

いずれにしても、法律の規定によることと、その制限が公共の福祉に合致していること、という2つの要件を充たせば、公権力による自由権の制限は可能であり、正当化される。これは「表現の自由」についても同様である。

そして、そういう目で身の回りを見回せば、法律によって表現行為が制限されている例は、少なくない。例えば、刑法の条文にも、表現行為に対する規制はたくさんある。

まず、わいせつ表現についての「わいせつ物頒布等」の罪(刑法第175条)は、一定のわいせつ表現を公然に行うことを制限したものである。

また、名誉毀損罪(刑法第230条)や侮辱罪(刑法第231条)も、他人の名誉を毀損する表現等を公然に行うことを制限している。

あるいは、脅迫罪(刑法第222条)、強要罪(刑法第223条)、恐喝罪(刑法第249条)なども、他人に恐怖心を抱かせる表現行為を一定の範囲で制限していると言える。

また、詐欺罪(刑法第246条)も、一定の範囲で、他人を欺く表現を制限しているとも言える。

これらの規定は、対象となる表現行為を一定の範囲で「犯罪」とすることで、表現行為を制限しているものと言えるが、このような表現行為に対する制限が正当化され、憲法第21条第1項に違反しないとされるのは、国会の制定した法律の規定に基づき、かつ、その制限の内容が「公共の福祉」に合致していると解されるからである。

(3)妨げなければセーフ、なのか?

以上のとおり「表現の自由」は、憲法第21条第1項によって保障され、国家(公権力)はこれを妨げてはならないとされるため、正当にこれを制限するためには、法律の規定に基づき、かつ、その制限内容が公共の福祉に合致していることが必要とされる。

では、逆に、国家(公権力)としては、表現行為を妨げなければ、表現の自由を侵害した、ということには一切ならないのだろうか?

例えば、国家が、ある展示会に対して助成金を出すかどうかを検討するに際し、展示内容を審査し、展示内容が相応しくないとして、その展示会に対して助成金を出さないことにするとか、あるいは、政府の見解に沿うように展示内容を変更するのであれば助成金を出す、などという対応をとることは、表現の自由に対する制限(あるいは侵害)になるのだろうか?

確かに、この場合、私人の表現行為を「妨げた」わけではない。表現したいなら、どうぞご自由におやりください。ただ、この内容では、助成金(公的資金による援助)は出せませんよ、と言っているだけである。

しかし、このような国家の対応が表現の自由に対する侵害にならないと解することには疑問がある。

第1に、現在の国家は、19世紀的な「夜警国家」ではなく、「福祉国家」であり「社会国家」である。社会における多くの私人の活動に対し、国家は、集めた税金の再分配として助成金を出している。その際、だれの、どのような活動に対して助成金を支出するかという問題について、国家は完全に自由であるわけではないだろう。

つまり、そもそもが、だれの、どんな活動に対しても助成金など出さない夜警国家であれば、国家は、人々の自由な活動を妨げさえしなければ自由を侵害したことにはならなかった、かもしれない。しかし、現在の福祉国家を前提とするならば、その理屈は通らないと思う。

政府が、自己の好む、自己にとって都合によい表現行為に対してだけ助成金を支出し、そうでない表現行為に対しては助成金を支出しないということであれば、それは税金の不公平で恣意的な運用であろう。そして、本来受けられるはずの助成金を受けられないという意味で、その表現者は不利益を被っている。この不利益な扱いは「侵害」と呼んでよいと思う。

第2に、ただ単にその自由の対象を「妨げた」かどうかだけでなく、その自由の行使を理由として「不利益取扱い」をすることもその自由に対する侵害になるということは、憲法では、広く一般的に言われているところでもある。

例えば、伊藤正己先生の憲法の体系書の「思想・良心の自由」の箇所には、次のような記述がある。

内心が外部に現れた面をとらえて不利益な取扱いをすることも信条による差別であって、14条の法の下の平等に違反する。しかし、既にみたように、14条の保障は合理的理由があるときは差別が容認される。(中略)これに対して、人の内心の思想信条そのものを理由として不利益取扱いをするときには、思想・良心の自由を侵害するものであって、その理由のいかんにかかわえらず合理性を欠くものであり、19条に反し、かつ14条に当然に違反するものと解さなければならない。(伊藤正己・憲法(第3版)260~1頁)

そこで、これとの類比で言えば、表現内容を理由とする、不利益な取扱い、差別的な取扱いは、それ自体に合理性がない場合には「不合理な差別」として憲法第14条が規定する「法の下の平等」に違反するが、それのみならず、表現の自由に対する侵害にもなる、ということだ。

だから、自由権であるからと言って、自由な活動を妨げられない限りこれに対する侵害とは言えない、ということでもなく、そしてこれは憲法学における一般的な考え方でもあるようなのだ。

第3に「集会の自由」に目を向ければ、公共財産の利用と表現の自由との関係に関しては、いくつかの判例もある。集会の自由の場合は、多数人が集まることができる場所という意味で、道路、公園、その他の公共施設の利用に頼らざるを得ない面がある。この場合、管理目的からくる規制を免れないとしても、その規制は、集会の自由を不当に侵害しないよう、明確な基準の下に必要最小限のものにしなければならない、と言われる(佐藤幸治・憲法(第3版)545頁参照)。

また、芦部信喜先生の本には、表現の自由と公的な資源の利用に関し、次のような記述もある。

政府は公的な「資源」(それはもともと国民のものである)を国民の用に供するために様々な形で配分、供与、給付等するが、その具体的な内容はそれぞれの特性に合わせて法律で定めなければならない。表現の自由との関連で言えば、たとえばパブリック・フォーラム(公園・道路・公会堂等)の管理、学問・芸術への助成、図書館の建設・維持などもこのような文脈で捉えることができる。これらをどのような形で提供するかについては、原則的には広い立法裁量に属するが、提供を決めたものについては、その内容に関して憲法から来る一定の枠が存在するということが重要である。特に内容中立的な運用が強く要求される。(芦部信喜・憲法(第5版)172頁)

つまり、自由権の保障に関しても、もはや「妨げなければセーフ」ということではない。これが、もう随分以前からの議論の状況である。

(4)私人なら妨げてもセーフなのか?

最後に、憲法第21条第1項も、表現行為に対する一般私人の妨害行為に対しては、何ら拘束しないのか、ということについて取り上げたい。

憲法は、公法であり、公法は、国家(公権力)と国民との関係を規律する法である。これは、私人と私人との関係を規律する私法(民法、商法、会社法など)と対比される。

憲法は、公法であるから、その規定は、基本的には、国家(公権力)と国民の関係を規律しているのであり、憲法第21条第1項も、そうである。つまり「表現の自由を保障する」ことによって、個人の表現行為を妨げてはならないという拘束を負うのは、国家(公権力)であって、一般私人ではない、と解される。

例えば、仮に、ある展示会で、主催者であるAが、ある作品を展示したとする。この展示会には、文化庁からの助成金が支出される予定になっていたが、その作品を不快に感じた公務員B(その助成金の支出を左右できる可能性のある立場にある者)が、「そのような作品を展示するような展示会に助成金を支出することは、再考せざるをえない」と発言したとする。そして、Aは、結果として、この圧力に屈し、その作品の展示を中止したとする。

このような場合、先ほどからの検討によれば、Bの発言は、Aの表現の自由に対する侵害にあたる可能性が高い、と言えよう。

他方、同じ例で、一般私人であるCが、インターネット上で「あのような展示は、非常に不快である。主催者の良識を疑う」旨の辛辣な批判的発言をしたとする。そして、このような批判の結果として、Aが作品の展示を中止したとする。

この場合、先ほどのBとは異なり、その展示会に対するCのこの批判的な発言は、もちろん、Aの表現の自由に対する侵害にはあたらない。なぜなら、このCの発言自体が、表現の自由の行使だからである。

私人Aが人権の享有主体であり、表現の自由を保障されるように、私人Cもまた、人権の享有主体であり、表現の自由その他の人権を保障されている。

例えば、事例を変えて、Aが自分の家の道路に面した塀に「戦争反対」とペンキで大書したとする。これを不快に思ったCが、ある夜、勝手にその塀のペンキを洗い落としてしまった場合、どうなるだろう?

この場合、おそらくCは器物損壊罪(刑法第261条)に問われるだろう。

では、逆に、Aが道路に面したCの自宅の塀に「戦争反対」とペンキで大書したらどうなるか?

この場合、逆に、Aが器物損壊罪(刑法第261条)に問われることになるだろう。確かに、Aには表現の自由はある。しかし、Cには自宅の塀に対する所有権があり、自宅の塀を使用・収益・処分する権原は、Cにある。Aは、いかに表現のためとは言え、Cの所有権を侵害してよい理由にはならないのであり、処罰の対象となる。

この事例では、Aの表現の自由とCの財産権(塀の所有権)とが対立しているが、このような人権相互の矛盾・衝突を調整することは、法律を通じて立法府(国会)が行う。Aにとっては、表現の自由に基づく表現行為であっても、他の人の財産権を勝手に侵害すれば犯罪とされるのである。

これは、憲法学上は「憲法の私人間効力」と呼ばれる問題であり、憲法の規定の拘束力は、基本的には私人間には及ばず、人権享有主体間の人権相互の矛盾・衝突は、法律を通じて調整されることになる。

話を、展示会に戻し、Aが展示会である作品を展示したところ、これに不快感を感じたDが、展示会の事務局に電話し、「その作品の展示をすぐに中止しろ。中止しないなら、会場で爆弾を爆発させる」と話したとする。そして、Aは、大事をとって、その作品の展示を中止したとする。

この場合、Dには、強要罪(刑法第223条)が成立するだろう。Aの表現の自由に対し、Dの行為も表現行為ではあるが、人に恐怖心を生じさせることで、人に義務のない行為を行わせ、他人の自由を侵害するものとして、このような行為は、刑法により禁止されている。

では、脅迫的言辞を用いるのではなく、大量の苦情電話を掛けることで、事務局に対応不能の状態を生じさせ、展示会自体を中止に追い込んだとしたらどうか?

この場合は、威力業務妨害罪(刑法第234条)に該当する可能性がある。

また、仮に、このような苦情電話が、犯罪を成立させない場合でも、通常の苦情の限度を超えて違法と評価される程度に至れば、不法行為(民法第709条)を成立させ、行為者は民事上の責任(損害賠償義務)を負わされることになる。

つまり、私人と私人の間の関係には、基本的には、憲法の条文が直接適用されることはないが、刑法や民法の各規定を通じて、私人間における人権相互の衝突は、調整され、規制されることになる。

このように、憲法の条文は、原則として私人間に直接適用されないが、刑法や民法の条文を通じて(間接的に)、その保障の趣旨が私人間に実現されることになる(間接適用説)。

6/不快な表現にどう対応すべきか?

最後に、ちょっと視点を変え、人々が生活の中で不快な表現に触れたとき、どのように対応することができ、また、どのように対応すべきか、について考えてみたい。

(1)法的な責任を問う

まず、当該表現行為が、現行の刑法その他の刑罰法規に違反し、犯罪を成立させる場合、警察等の捜査機関に通報し、公権力を通じて、その表現行為を止めさせるということが考えられる。

また、そこまで行かなくても、当該表現行為が違法と評価される場合には、これによって被害を受けた者は、民法の不法行為(民法第709条)を根拠として、これによって被った損害の賠償を求め、民事訴訟を提起する、という方法を取ることができる。

ただ、いずれも当該表現行為が違法と評価される場合にとることができる方法である。正当な表現行為に対してはとることができない。

(2)批判的発言で対抗する

次に、当該表現行為自体は、違法ではない場合、考えられるのは、まず、当該表現行為(表現物)に対する批判的な表現をすることである。表現に対しては、表現で対抗するというものであり、おそらく最も正当な対抗手段であると思われる。

批判的な表現が世間の多くの賛同を集め、また、賛同者が当該表現に対して同様の批判をするようになれば、次第にそのような表現をする者は少なくなって行くだろうと考えられる。

(3)表現者を説得して表現を中止させる

次に考えられるのは、表現者に対して、その表現を辞めるように話し、表現者に任意の意思決定を通じて、当該表現行為を止めさせることである。例えば、当該表現行為(表現物)によって不快を感じたものが、「そのような表現は不快であるから止めてもらいたい」と伝えることで、表現者を説得し、表現者がこれを理解し、考えを変えれば、自発的に表現行為を取りやめ、世間からその表現はなくなるだろう。

ただ、これは説得という、あくまで「平和的な方法」によることが必要であって、表現者の意思を変えさせるために、脅迫的言辞を用いれば、脅迫や強要罪に問われることになってしまう。また、意思を制圧するような「威力」を用いれば、威力業務妨害罪となり、「偽計」を用いれば、業務妨害罪となってしまう。つまり、度を過ぎれば、それ自体正当な手段とは評価されなくなってしまうのだ。

(4)表現の自由規制立法を促す運動

批判的な表現で対抗したり、あるいは、当該表現を止めるように説得することは、あくまで表現者の任意の中止を促すという方法にすぎない、表現者が頑なであれば、どんなに批判的な発言が世に溢れても、どんなに正当な抗議をしても、表現行為を止めないということは、ある。

そこで、その表現行為をどうしても止めさせたいのであれば、そのような表現を規制する法律(表現の自由規制立法)により、そのような表現を禁止したり制限したりするほかはない。

このような立法をする権限は、もちろん国会にある。そこで、国会議員ではない一般人であれば、国会がこのような立法をするように促す運動をする、という方法をとることになる。

前述したとおり「表現の自由」は、「思想・良心の自由」などとは異なり、絶対的に保障されるものではない。そこには、限界があり、その表現が「公共の福祉」に反する場合には、立法により制限することが可能である。

ただ、問題は、どのような場合であれば、その表現行為が「公共の福祉」に反していると言えるのか? である。

そして、どのような規制立法であれば、正当化されるのか? である。

これは、広くは「人権規制立法に対する合憲性判定基準」と呼ばれる問題に位置づけられるもので、司法試験の出題などでは、極めてポピュラーな問題である。

7/表現の自由規制立法の正当性判断

では、表現の自由規制立法の正当性は、どのように審査・判断されるのか?

(1)正当性判断の枠組み

まず、このような人権規制立法の正当性を判断するための検討の「枠組み」として、

芦部信喜先生は、①立法目的の正当性、②立法目的達成手段の相当性、という2つの観点から審査を行うようである。

これに対し、佐藤幸治先生は、①規制目的の正当性、②規制の必要性、③規制方法・手段の相当性、という3つの枠組みで検討するようである(佐藤幸治・憲法(第3版)372頁)。

私は、受験時代は佐藤説に従ってこの3つに分けて検討していたが、つらつら考えるに、佐藤幸治先生のいう「規制方法・手段の相当性」には、本来の意味での相当性(つまり、規制の程度)の問題だけではなく、規制目的と規制手段との間に合理的な関連性があるか、という問題も含まれてる。本当は、これは分けたほうがよいのだろう、と現在では思っている。

つまり、つぎの4つに分けて考えるのである。

①立法目的の正当性
②立法の必要性
③立法目的と規制との合理的関連性
④規制手段・方法の相当性

まず、人権規制立法にも、何らかの「目的」があるはずであり、その目的がそもそも「正当」でなければ、話にならないだろう。この目的は、人権規制立法の場合、規制の対象となる人権と比肩するだけの価値をもつものでなければならないはずであり、何らかの憲法上の利益であることが必要であろう(→①)。

つぎに、そのような立法目的となっている「利益」が、現実に脅かされて保護を必要としていたり、実現を必要としている、という状況が必要なはずである。そのような保護・実現の必要性がなければ、そもそも人権を規制する必要がないからだ(→②)。

さらに、立法目的たる「利益」と、規制対象たる「人権」との間には、その人権を制限することによって、その利益の保護・実現が達成される、という関係が存在しなければならない。つまり、両者の合理的関連性である。もし、人権を規制することが、立法目的たる利益の保護・実現に役立たないのであれば、人権規制はまったく無意味だからである(→③)

さいごに、人権に対する規制の範囲や程度は、立法目的たる利益を実現するために必要な最小限度の範囲にとどめなければならない。必要な限度を超える規制は、立法目的の達成に無関係だからである。その意味で、規制手段・方法は「相当」なものである必要がある(→④)。

一応、この4つの観点から、人権規制立法の正当性は検証される必要があると思われる。なお、この4つは、あくまで「枠組み」であって、その枠組みの中で用いられる基準(ハードルの高さ)は、制限の対象となる人権の重要度によって、当然に異なってくる。そして、一般に「表現の自由」は、人権の中でも最も重要な部類に属し、最も厳格な基準が用いられる人権であると解されている(表現の自由の優越的地位)。

このように「表現の自由」を規制する法律を制定し、公権力をもって正当に表現の自由を制限するには、憲法上、かなり高いハードルが設定されていると考えられる。

(2)不快な表現に対する規制の正当性

さて、こう考えた場合「ある人が見て不快になる表現」が存在する場合に、このような表現行為を正当に制限することは可能なのだろうか?

まず、最初の「立法目的の正当性」という点を考えた場合、その表現の自由と対立している利益は、何だろうか?

おそらく「不快を感じない自由」であろう。確かに、人々が、日々、幸せに暮らすためには、不快感を感じない、ということは重要である。しかし、これは、それ自体「表現の自由を制限するに足りるだけの憲法上保護すべき正当な利益」といえるのだろうか? という問題がある。

「不快感」というのは、一種の感情である。

そこで、この点で検討の参考となるのは、現行刑法は「感情」を保護法益としているだろうか? という問題である。

結論的に言えば、現行刑法が「感情」それ自体を保護法益としていないのではないか、と考える余地がある。

このように言ってみて、まず思い浮かぶのは、脅迫罪(刑法第222条)、強要罪(第223条)、恐喝罪(第249条)などの「他人に恐怖心を生じさせることを内容とする犯罪」である。

しかし、恐喝罪は、恐喝によって他人を畏怖させた結果として「財物を交付」させることや「財産上不法の利益」を得ることを内容としており、保護法益は「財産」である。

強要罪の場合は、財物の交付などはないが、土下座を強要されたりなど「義務のないことを行わせ」たり、「権利の行使を妨害」したりするものであるから、「恐怖を感じない自由」というような「感情」が保護法益というわけではない。

脅迫罪は、強要罪とは異なり、脅迫行為を通じて具体的な作為・不作為を要求されるわけではないため、「恐怖を感じない自由」あるいは「人の意思活動の平穏」を保護法益と解する余地もあるが、そのような恐怖心によって制約される「行動の自由」や「意思決定の自由」が保護法益であるという理解も有力である。

では、例えば、侮辱罪(刑法231条)はどうか? これについては、「名誉感情」が保護法益であるとする見解もあるが、通説は、名誉毀損罪と同じ外部的名誉が保護法益であるとしている。

例えば、人は、他人から騙されたことを知ったとき、大きなショックを受け、憤慨することが多い。それが多くの人の通常の反応であると思われる。ところが、それにもかかわらず、「騙される」ということに関連して刑法が処罰の対象としているのは詐欺罪(第246条)だけである。しかも、これも、「騙されない自由」を保護しているのではなく、財産を保護法益としているのである。

このように考えると、刑法は、少なくとも一般的には「感情」を保護法益とはしていないように思われるが、どうだろうか?

そして、もし刑法が意識的に「感情」を保護法益から除外しているのだとすれば、それはなぜなのだろう? そういう疑問は湧かないだろうか?

(3)感情は保護法益に向かないのか?

そもそも「感情」というものは、保護法益に向かないのだろうか?

人は、殴られたり、蹴られたりすれば、大概怪我をする。身体の丈夫な人やそうでない人もいるが、それでも、多くの人は怪我をするだろう。

これに対して「感情」はどうだろう。だれでも、同じようなものを見せられれば、同じような「感情」が生ずるだろうか? これは、なかなか難しい。

先ほど話題に上がった「脅されたときの恐怖心」や「侮辱されたときの腹立たしさ」などの感情は、比較的だれもが、同じような行為に対して、同じように反応して、同じように感情を生じやすいもの、と言えるかもしれない。

これに対し「不快感」などというものは、非常に難しい。あるモノを見て、心地よく感じる人もいれば、不快に感じる人もいる。つまり、感情の中でも「不快感」などは、人による「振り幅」が大きいものと言えるかもしれない。

仮にそうだとして、このように人による振り幅が大きいものを、刑罰によって対処すべき「犯罪の保護法益」とすることに、問題はないのだろうか?

例えば、仮に「人に対して不快感を生じさせる表現行為」を処罰するという刑罰法規を作ったとしたら、そこにはどのような問題があるだろうか?

(4)不快な表現を規制する法律の問題点

仮にこのような刑罰法規を作った場合、第1に問題となるのは「明確性の基準」であろう。これは「漠然性ゆえに無効の法理」とも言われる。

表現の自由をはじめとする精神的自由権を規制する法律や、刑罰法規について適用される基準・法理で、法文が漠然不明確な場合には違憲無効とされるというものだ。

漠然不明確な条文は、規制の対象となる行為が明確でなく、精神的自由権規制立法や刑罰法規の場合、本来規制の対象とされるべきでない正当な行為まで萎縮さえてしまう効果が心配されるからである。精神的自由権の優越的地位や、罪刑法定主義から導かれる要請である。

このような観点から「人に対して不快感を生じさせる表現行為」を禁止し、これを処罰する法律を考えた場合、まず「不快感」というのが漠然として明らかでなく、そのため、人に対してどのような心理状態を生じさせた場合に処罰の対象となるのかが明らかでない。そこで、まずはこの「明確性の基準」ないしは「漠然性ゆえに無効の法理」に引っかかるだろう、と考えられる。

第2は「過度の広汎性ゆえに無効の法理」への抵触である。仮に、上記の構成要件においておよそすべての「不快感」が含まれると解するのであれば、法文としては「明確である」と強弁することができるかもしれない。しかし、それでは、規制の範囲がいくらなんでも広すぎるだろう、ということである。あらゆる人に対して、なんらかの不快感を生じさせる表現行為は、みな処罰の対象としたら、それはあまりに広汎だ。これは、本来処罰の対象とすべきでない行為までも取り込んでしまっているというべきであり、それ自体として無効と判断される。これも精神的自由権の優越的地位や罪刑法定主義から要請される。

この2つは、いわゆる「文面審査」と呼ばれる合憲性判断の手法で、先ほどみた、①目的の正当性、②規制の必要性、③立法目的と規制との合理的関連性、④規制手段・方法の相当性を、立法を基礎づける社会的事実(立法事実と呼ばれる)の存否と照らし合わせながら正当性の判断を行う「事実審査」と対比される。そして、精神的自由権を規制する立法の合憲性や、刑罰法規の合憲性の判断の際には、事実審査に先立って、このような文面審査が行われることとされているのである。

このように、仮に「人に不快感を生じさせる表現行為」を禁止し処罰する法律を作った場合、まずもって、このような「漠然性ゆえに無効の法理」や「過度の広汎性ゆえに無効の法理」に抵触して、事実審査に入る以前に、違憲無効とされてしまうだろう。

考えてみれば、仮に、脅迫罪の保護法益を「脅迫されない自由」あるいは「恐怖心を生じないことによる心の平穏」と解し、侮辱罪の保護法益を「侮辱されることによる憤慨からの自由」や「侮辱によって心を乱されないことの利益」などとして、一定の「心理状態」を保護法益と捉えたとしても、その範囲は、「不快感」などのような漠然・広範囲なものではなく、かなり限定されていると言える。

それゆえ、ある種の「不快感」を生じさせないことを1つの保護法益と把握して刑罰法規を構築することが仮に許容されるとしても、どのような不快感をどのように限定するか、ということが課題となろう。

その意味では、脅迫罪が、仮にある種の「心理状態」を保護の対象としていると構成するとしても、脅迫の内容を「生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知」に限定し、このような危害を加えるとの告知から生じる「恐怖感からの自由」に保護の対象を限定しているとすれば、それはそれで、漠然性や過度の広汎性の問題をうまくすり抜けている、とも言えるのである。

これは、侮辱罪についても、同様である。

そのほかに考えられるとすれば「性的羞恥心」なども、このような限定によって刑罰法規の対象とするこは、不可能ではないような気がする。つまり、ある種のセクハラ行為を刑罰法規の対象とするという発想である。

しかし、このような限定なく、広く「不快感からの自由」を保護の対象とするという犯罪構成要件を考えるとすれば、それは、目的の正当性判断以前に、文面審査でアウトだろう。

では、そこで、対象を思いっきり限定して、例えば、このようにしたらどうだろう。

過去における戦争犯罪等、我が国の歴史上不名誉な事実を摘示して、人に不快感を生じさせた者は、事実の有無を問わず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。

名誉毀損罪の条文をちょっといじったものだが、このように規定すれば、保護法益たる「不快感」も明確に限定されているし、処罰範囲も過度に広汎とはいえず、文面審査はクリアしていると言えるだろう。

しかし、このような刑罰法規が仮に制定されたとした場合、これは、そもそも、事実審査のうち「立法目的の正当性」の審査をクリアできないだろう、という感じがする。

(5)表現の自由の優越的地位の意味

ここで、本論考でも何度が登場している「表現の自由の優越的地位」あるいは「精神的自由権の優越的地位」という問題について、考えてみたいと思う。

表現の自由を代表格とする精神的自由権は、財産権、職業選択の自由などの経済的自由権などよりも、人権のカタログにおいて、「越的な地位」にあり、それゆえに、これを規制する法律の合憲性審査は、厳格な基準によって行われなければならない、というのが、この「表現の自由の優越的地位」という考え方である。

では、なぜ「表現の自由」は優越的地位にあるとされるのか?

それは、①自己統治の価値と、②自己実現の価値に支えられていると言われる。

自己統治の価値とは、立憲民主主義国家において、「表現の自由」は、民主主義を維持・運営するために不可欠な手段であるということである。民主主義は、自由な言論を通じた説得と議論によって運営されるから、このような自由な言論自体が不当に制限されると、民主制の過程自体が傷つけられてしまい、仮に国民が不当な法律を民主制の過程を通じて排除しようと思っても、自力で排除することができなくなる。そのため、表現の自由に対する規制立法の合憲性判断については、他の人権に対する規制立法よりも、裁判所による一層の配慮が必要とされるということである。

自己実現の価値とは、「表現の自由」を通じてなされる情報の交換が、個人の人格の形成と展開にとって必要不可欠だということである。これは個人的な価値とも言えるが、そもそも民主主義の運営には、主権者たる国民自体において、自ら考え、判断する能力を備えていることが不可欠なのであって、結局、これも自己統治の価値と連なる問題といえる。

そして、このような観点からみると、表現の自由の中でも「政治的表現の自由」はとりわけその価値が高く、これを規制する法律の合憲性の判断は、より厳格な基準によってなされなければならない、ということになる。

そして、このような観点から上記の刑罰法規(仮)を見ると、まさに「政治的表現の自由」を規制するものである。そして、その価値と、前述の刑罰法規が保護しようとしている利益すなわち「ある種の不快感」を比較したときに、後者が前者を上回る憲法的価値をもつとは、到底考えられない(そもそも、そんな不快感を生じさせない心の平穏を保護すべきかさえ疑問である)。

8/むすびとして

人は、無人島でたった1人で生きているわけではない。私たちの暮らす社会には、多くの人が生活していて、その中には、自分と考えの異なる人も少なくない。そうであれば、社会生活を送るうえで「不快感」を生じることなど、当たり前のことであり、「まったく不快感を感じることなく生活したい」という希望のほうが「無い物ねだり」だと思う。

法律は、多くの人々が1つの社会で平和に暮らしていくために必要とされる最低限度の社会的基盤を整備するものであって、理想の社会を構築するものではない。特に、快・不快の感情は、多くの面で個々人による「振り幅」が大きく、ある人にとって心地よいものが、ある人にとって不快であることも少なくないのである。そんな中、万人にとって快適な社会など、作れるわけがない。その意味で、みんな少しずつ「社会とはそういうモノだ」「多様な人たちと一緒に暮らしていくということはそういうことなのだ」という、ある種の「諦め」がなければ、やっていけないのである。

自分にとって不快なものは、すべて排除したい!

というのは、たぶん、わがままだ。ただ、不快なものは、見ない、聞かない、ように目を閉じ、耳を塞ぐことは自由なのであって、そうする権利だけは十分に保障してやればよい。そのあたりが、おそらく社会規範としてのバランスだろうと思う。

もちろん、未成熟な子どもに触れさせるのが適切でない情報というものは存在すると思うし、その規制は「不快感」とは別の観点から必要だろう。

また、いわゆる「ヘイトスピーチ」についても、私も、現在はで、規制が必要だと思っている(かつてはそうでなかった)。

平成28年に成立し施行された「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(いわゆるヘイトスピーチ規制法)は、いわゆるヘイトスピーチを「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」と呼んだうえで、これを「専ら本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの(以下この条において「本邦外出身者」という。)に対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命、身体、自由、名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知し又は本邦外出身者を著しく侮蔑するなど、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動」と定義し、これを「許されないこと」と宣言している。つまり、違法としている(もっとも、罰則などは設けられていない)。

この定義を見ると、保護法益は、脅迫罪や侮辱罪に見られるような、ある種の「感情」と捉えるのが素直かもしれない。つまり、危害を加える旨の告知によって生じる「恐怖心」であり、また、著しい侮辱によって生ずる「腹立たしさ」や「憤り」を侵害と捉え、このような悪感情からの自由(ないし平穏)を保護していると理解することができるように思われる。

しかも、このようなヘイトスピーチが「公然」と行われるときは、その存在は、否が応でも耳に入ってしまう。つまり、それを、見ない、聞かない、という自由すら保障されない状況に置かれる。

その意味で、このようなヘイトスピーチ、すなわち「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」を、仮に刑罰をもって禁止したとしても、私は憲法第21条第1項には反しないと考える。

しかし、そのような意味での「ある種の不快感からの自由」や「ある種の心理的平穏」を保護法益として、刑罰法規をもって表現行為を規制するのは、このあたりが限界ではないか、と思うのである。


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