この国は、いつまで「人権のようなもの」にしがみついているのか?


この国の人間たちは、自分たちを取り巻く世界は独立した特別な「環境」だと思っている。
だが、「環境」は、「すべて」が地続きである。このことを理解しない限り、この国における「人権」の概念はいつまでたっても浮かび上がることはない。

つまり、西洋哲学においては、エンバイロメントからヒューマンの概念が浮上し、ヒューマンライツの概念が確立していく。
ヒューマンライツを和訳すると、「人権」となるが、「人権」を英訳しても、決してヒューマンライツにはならない。

概念リテラシーを持ち合わせていない民族は、世界を見渡しても日本人だけである。世界中どんな国のどんな子供でも、ヒューマンライツは、アプリオリに前提されている。もっと言えば、カラスの10gの脳でも「人権」、いや「カラス権」そのことを理解しているのである。

人類社会の危機に際して、事変ライブの、K-1イベントの、パチンカーの、そして、公園で、スケボーやジョギングを楽しむ人間の欲望や権利を守ることは、「人権」行為だと本気で思っているのだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?