そもそも、接触削減の営業自粛の政策を繰り返すことは出来ない。

橋下氏の「敬意を持って」は、いかにももっともらしいが、そもそも接触削減の営業自粛の政策は、もうこれ以上続けることなど出来るはずがない。

新たな病原体の出現時には分からないことばかりだ。アウトブレイクを含め、緊急事態では最悪のシナリオを考えて準備するのが基本である。だからこそ、専門家はある限りの知見と新たな情報の分析を通じて、独立した立場で政府にどんどん意見や提言をすべき。経済など別の専門家の意見や観点も踏まえて、それらを最終的に判断するのは政府である。

初発的な判断として、この流行の本質は接触を止めないといけないものであり、行動変容には被害想定は不可欠であり、西浦モデルを発表する意味は大きかったのではないか。だが、今後想定される、2波、3波に備えて必要なのは西浦モデルではなく、教授には敬意を持って舞台から退出してもらうことが合理的であると言える。



新型コロナの感染モデル「数」は、「音」の概念に近い。 

       

数理モデリングは、最も広くスイートスポットを設定するよう「音像」を組み立て、現場に最適な「音場」を組み立てる。音像とは「音」の定位の正しさ、「音場」とは臨場感のことである。

新型コロナウイルスには「正面」という概念がない。様々な角度のツイーターから、最適な配分で「音」を再生する。そして、「音」は「反射」する性質を持っている。

「反射」とは、本来、鏡が光線を受けてこれを投げ返すことを意味するが、これを生物に応用すると、外部の刺激を受容器で受け取り、この刺激に対して実行器で行う反応、これを「反射」だと理解する。

人間は無意識のうちに、ウイルスの「反射」におけるエネルギーの動機の背後に、何かしらの意思の存在を求めて、ウイルス像を勝手に膨らませ、自ら霧の中に迷い込んでしまっている。                  
ウイルスは自分の意思を持って、人間の体内で次から次へと細胞に侵入し、グループをつくっていくように感じるが、ウイルスは人間と違って、意思を持って行動しているわけではない。仲間を作ろうとか、他のウイルスとグループを作ろうとか、そもそも、自分を増やしていこうとも思っていないのである。

ウイルスは、“増やす”ではなく、正確には環境を与えられたので、“増えられるから増えている”とも言えるのである。

数理モデルは、感染症流行の現状および将来予測、資源の適正化・配分、目標の設定のためのツールであって、目的ではない。モデルは完璧でなく限界があるという前提で使用している。

再生産数を2.5に設定したことをもっと下でもよかったと言うのは後出しジャンケンで、基本的に、アウトブレイクは大流行もなくうまく抑えれば、「(介入を)やり過ぎだ」と非難され、大流行したら「何をやっている」と言われる。

日本で感染者数や死亡者数が少ない要因として、何らかの異質性、2次感染に関する異質性と、重症化するかどうかの異質性に関しては不明である。

新型コロナウイルスについては、各国で疫学的な分析やモデルで「音場」を確実に捉えることができておらず、道筋が見えていない。だから、イギリスとスウェーデンで方針が全く違ってしまった。

重要なのは、数理モデルを二次元で捉え、その表面における正面を探ることではなく、新型コロナというアンダーザドームにおける中心点を知覚することである。

日本での新型コロナについては、クラスターを急所とみて対策してきた。学者の使命は、リスク評価に対して、アンダーリアクトよりは、オーバーリアクトであるべきなのは当然だとも言える。

数理モデル理論は、現実への実装が飛躍的に発展し、2000年代以降は技術的にコンピューターも速くなり、定量性が格段に上がった。観察データと重ね合わせ、ある程度真実を捉えられるようになってきた。

だが、「学者」の「知識」が強いのは、「論理空間」の大きさが限定されているからだ。科学、医学、経済、法律、すべてそういうことである。だが、リアルな現実社会では「論理空間」は無限大であり、何が行われるかわからない。新型コロナの戦いは、未知との戦いであり、「学者」はデータを処理する以前に、前もってどのようなデータかを予測し、いかなる論理にしたがってデータを操作するかのアルゴリズムにより、結果を導き出すというプロセスによるわけだが、良き結果を生み出すのは、過去のプログラム作成時におこなった状況予測が当たった時だけである。

新型コロナウイルスについては、疫学、生物学的領域に留まらず、全体的社会的現象のフェーズに突入している。全体的社会的現象とは、社会集団の疫学的、医学的、法的、倫理的、政治的、経済的な側面が一気に表れる現象で、いずれか1つには還元できない。

つまり、新型コロナには「正面」という概念が存在しない。重要なのは「中心」という空間知覚なのである。


アフターコロナの社会においては、コミュニケーションそのものが変わる


吉村大阪府知事は接客を伴う飲食店やライブハウスでの大阪独自の「暫定ガイドライン」を公表した。接客業では「テーブル間をパーテーションで区切る」「従業員は横並びで席を1つあける」、「身体的な接触を避ける」。ライブハウスは「着席で」などとあり、吉村知事は「1席あけたら接客にならないという意見もあるでしょうが」と無理な注文であることを承知の上でガイドラインの順守を求めた。

非現実的と言われるかもしれませんがお客さんも事業者もよろしくお願いします」と理解を求めた。

だが、予想通りライブハウスやホストクラブやキャバクラなどの接客クラブの現場からは、様々な不満の声が上がってきている。だが、考えてみて欲しい、ソーシャル・ディスタンスを堅守しなければならないという前提では、ライブハウスや接客クラブなどはそもそも無理なのである。

私たちは、そろそろ、問題の全体像と先端を議論する必要がある。
アフターコロナの社会においては、コミュニケーションそのものが変わる

この国は、ほんとうに接客クラブ、そして、演劇やライブハウスなどのエンターテインメントを守りながら、この未知のウイルスとの戦いに勝利出来ると思っているのだろうか?ほんとうに、この国の「文化」を最後まで、護りきる覚悟があるのだろうか?

そもそも、アフターコロナにおいて、コミュニケーションは自己化、自閉化し、ブロックチェーンとして共有化される。これがアフターコロナの芸術文化における「定常」であり、デフォルトなのである。


「文化はこれからが出番。心に穴があく人が出てきて、その穴を埋めるのが文化」「アーティストは生命維持に必要不可欠な存在」「文化の多様性を守りたい」


「ハコ」のあり方が、ドラスティックに変容することは避けられない


新型コロナウイルスの影響で窮状に追い込まれた、演劇・ライブハウス・ミニシアターが一体となっての「文化芸術復興基金創設」を目指す会見と省庁への要請が22日、東京・永田町の衆議院第一議員会館で行われ、日本劇作家協会の会長で女優の渡辺えり(65)らが出席した。 

渡辺えりは「小さな星が集まって大きな宇宙になった。この手を離さないでやっていきたい」と述べ、小泉今日子は「文化はこれからが出番。心に穴があく人が出てきて、その穴を埋めるのが文化」と話している。

その他にも、「アーティストは生命維持に必要不可欠な存在」「文化の多様性を守りたい」などの基金創設を求める要望が上がっているが、どれもこれも、さすがアーティスト、文化人らしい美文脈のメッセージである。

劇場や映画館においては、席は前後左右数席を空ける、観客同士の「ソーシャルディスタンス(社会的距離)」を保てるようにすることになる。その空席だらけのガランとした光景を見れば、その事業の経営採算性において、安定した持続可能な経営が実現するようにはとても思えない。様々な事業形態における「ハコ」のあり方はドラスティックに変容することは避けられないのである。


遊興やエンターテインメントは、「休止」ではなく停止すべきである。


遊興やエンターテインメントは、「休止」ではなく停止すべきである。「停止」の概念とは、「休止」とは異なり、再開を前提としないことである。「停止」せず、このまま「休止」を続ければ、逆に事業者の生殺し状態が永遠に続くことになる。
考えてみて欲しい、ソーシャル・ディスタンスを堅守しなければならないという前提で、ライブハウスや接客クラブなどはそもそも無理なのである。私たちは、そろそろ、問題の全体像と先端を議論する必要がある。

現在における、首都圏でのクラスタの追えない市中感染の多くは、この事変ライブに参加した1万人のスーパースプレッダーによるものと言っても過言ではない。想像してみて欲しい。もし、こうした大規模なソーシャル・ディスタンスもない、三蜜の状況下で全く感染が起こっていないと思っているのであれば、随分とおめでたい話である。


だが、そんな「おためごかし」は、もはや没交渉である。


問題の本質は、エッセンシャルワークや市民生活における自粛要請ではなく、ライブハウスや、クラブ、キャバクラ、ホストクラブなどにおける濃厚接触が避けられない事業についてのピンポイントの対策である。政府行政という「権力」は、法的根拠があろうとなかろうと、このピンポイントに対して強制力を発動しなければならない。


もはや、国や行政はこうした事業の継続は不可能という、事実は事実としてありのまま伝え、その代わりに廃業を求める以上、施設の取り壊しに関連するコストや転職転業のサポートは、国や自治体が全面的に補償し、責任を負うことで、ホストクラブやキャバクラ、風俗などの接客クラブ、エンタメ事業者や従業員、関係者などの人間を徹底的に救っていくことに全力を注ぐべきである。

そして、この国の社会が支えなければならないのは、スポットライトの当たる舞台の上で働く女優やアイドルではなく、地方都市の性風俗で働く周縁のシングルマザーたちなのである。

80%の外出接触の自粛よりも、一部の観光、公園でのバーベキューやスケボー、ジョギングなど、こうした無自覚のスーパースプレッダーなどのわずか数パーセントのテロリストに対するピンポイントの行動制限を行うことが感染防止においては何よりも重要な政策なのである。いくら大多数の国民が頑張ってもこうしたテロリストが存在する限り、ウイルスとの戦いに勝ち目はない。つまり、これが新型コロナというアンダーザドーム下における「人権」行為であるということを理解しなければならない。何故なら、何万何十万人の感染者もたった一人の感染者から始まるのである。発症してても、していなくても。




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