西浦モデルという、フィクションー「芸術的数理思考」

「新型コロナウイルスの感染者が海外から1日10人入国すると、90日後には99%の確率で大規模な流行が起こる」

                                   
西浦教授は、「第2波」に備え、リスクに応じた入国者の制限など体制整備が必要だと訴えているだけである。西浦教授の主張に通底するのは、接触10割削減しなければ、感染はなくならないという強い「思い」である。それ以上でも、それ以下でもない。いちいち、後出しジャンケンによる検証など全く時間の無駄である。議論すべきは、自粛要請に対して大規模なライブやイベントを強行した、アーチストやアスリートに代表される一部の「テロリスト」に対して、法的根拠を言い訳にして権力遂行が全く機能しない、無能な政府や行政についてである。


緊急事態宣言を発出するために西浦モデルというフィクションが必要だった。

                                  早急に欧米に近い外出制限をしなければ、爆発的な感染者のオーバーシュートを防げないとする政府が、緊急事態宣言を発出するために創作されたのが、感染症数理モデルの専門家である西浦教授による接触8割削減というフィクション虚構である。

そもそも実効再生産数などのパラメーターが存在する中で、真実をそのままのかたちで捉え 、未来の予測に描写することなどほとんど不可能である 。だからこそ真実をおびき出して、虚構のかたちに置き換えることによって 、未来の尻尾を捕まえようとすること自体は決して悪ではない。

そうした手法は科学者として、一体どうなのかという声は上がるのは当然だが、西浦教授の主張するアーキテクチャーには、「公式」は常に変わらないが、「変数」により、最終的な答えは変わると言う強い「思い」が込められている。

つまり、「対策ゼロなら40万人死亡」という西浦教授の試算は、全く介入をしなかった時の人との接触を減らすなど対策をとることで流行を止められるのではないかという期待を込められた、情熱的な数理メッセージであると言える。

                                  プログラムとは「前もって(pro)書く(gram)」ということである。


学者はプログラムにもとづいて「知識」の展開を行う。データを処理する以前に、前もってどのようなデータかを予測し、いかなる論理にしたがってデータを操作するかのアルゴリズムにより、結果を導き出すというプロセスによるわけだが、良き結果を生み出すのは、過去のプログラム作成時におこなった状況予測が当たった時だけである。

再生産数を2.5に設定したことを、もっと下でもよかったと言うのは後出しジャンケンで、基本的に、アウトブレイクは大流行もなくうまく抑えれば、「(介入を)やり過ぎだ」と非難され、大流行したら「何をやっている」と言われる。

「西浦モデル」とは、西浦教授の経験値に基づく主観が大きく反映された数理モデルであり、そもそも座標は「屋根に登るための梯子」のようなものであり、考える際の手段・方便にすぎないのである。屋根に上がるにはそれが必要だが、 上がってしまえば不要になる。今更、使い果たした「梯子」の話を繰り返しても意味はないし、これ以上同じ「梯子」を求めるべきではない。屋根に登ればすばらしい眺望が開ける、それこそが数理の本質だということの理解が必要である。

                                   
今、必要なのは検証でも、批判でも、議論でもなく発議であり、行動である。

                                  この未知のウイルスと戦いを展開するのは、西浦教授のような学者でも、政府でも、議会でもない、一人一人がフラクタルで戦うしかない。そして、今、必要なのは検証でも、批判でも、議論でもなく発議であり、行動である。この国では、様々なデータ解析や予測が行き交っているが、共通するのは誰も戦わないということだ。

数理モデルは、感染症流行の現状および将来予測、資源の適正化・配分、目標の設定のためのツールであって、目的ではない。モデルは完璧でなく限界があるという前提で使用する、それ以上でもそれ以下でもない。

新型コロナウイルスについては、各国で疫学的な分析や数理モデルで「中心」を確実に捉えることができておらず、展開の道筋が見えていない。だから、イギリスとスウェーデンで方針が全く違ってしまった。


アンダーザドームにおける中心点を一刻も早く知覚することである。


飛沫感染、エアロゾル感染を防止するためには、6〜10mの社会的距離が必要だとする数理モデルもあり、接触削減による感染防止策はもはや限界であると言える。もちろん、社会モラルやエチケットとしては、マスクやソーシャルディスタンスは継続すべきではあるが、決して中心点にはならない。

パラドキシカルに言えば、西浦教授の接触10割削減しなければ、感染はなくならないという、強い「思い」は、極めて合理的であると言えるのかも知れない。

だが、ここに来てウイルスの情報は大分出揃ってきた。もはや「西浦モデル」の検証などではなく、そもそも第2波、第3波において、もはや外出自粛などの政策は取ることは不可能である。重要なのは、数理モデルをことさらに複雑にし、二次元で捉え、その正面を探ることではない。必要なのは新型コロナというアンダーザドームにおける中心点を一刻も早く知覚することである。


結論を言うと、この問題の中心点は「食」である。最後には必ずここに帰結する。

                                  ウイルスから共存共生を謳いながら、ただ接触から逃避を繰り返すのであれば、それはゾウリムシと何ら変わりがない。

ゾウリムシは、どこかで何らかの刺激を受けると、逃避運動をおこす。まず後方へ退き、次に向きを変え、さらに前進運動を始める。このようにして障害物は遠ざけられる。この場合、同一の知覚標識は、つねに同一の作用標識によって消去される。

結論を言うと、この問題の中心点は「食」と「免疫」についてである。人間は何を食べて、何を食べないのか。いくらこの命題を避けようとしても、最後には必ずここに帰結する。

そもそも宿主であるヒトとは、その人間自身ではなく、環境の側にある。ウイルスという概念のありかは、ヒト個人の中ではなく、環境ー社会の相互連関の中に求めるべきなのである。

自己に対する免疫は、アプリオリに禁止されるべきものと考えられていた。自己に対する寛容とその破綻という、免疫学のもうひとつの根源的な問いかけも、免疫システムを構成する数多の蛋白がクローニングされ、その機能が分子レベルや遺伝子レベルで解明されつつある今日でも、未だ新鮮な命題なのであり、人間の免疫システムは、いかにして「自己」と「非自己」を見極めているのか――。

人類は、その壮大な命題の解明に未だ到達していないのである。


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