見出し画像

俺の屍を越えてゆけ

記事内容は同名のゲームとは無関係です。

子育ては何時か終わる(と思う)のですが、何を以って区切りとするかは子供が自立して生活できるようになったらかなと思っています。自分の場合は奨学金で学費と生活費を補っていたので親に頼らずに生きて行けるようになったのは大学生になってしばらくしてからでしょうか。進学のために迷わずへそくりから大金を出してくれた母親の行動には随分驚きましたが、自分が親になって同じようなことをしているので親子は似るものなのかもしれません。
さて、長女は無事に第一志望から内々定を得て、本人曰く単位の取得のめどもついたそうなので、あとは卒業するまで貴重な学生生活を堪能するだけになりました。親としては学費をすべて支払えば、大きな意味ではもうしてやれることはありません。

そんなわけで、最後の学費の払い込みを済ませた時点で長女に関しては子育てが終わったのだと実感しました。子供が職を見つけるために必要な教育の機会を提供し、多少の紆余曲折があろうと心身ともに健康に育てば、後は親に頼らずとも自立してやっていける準備はできたはずです。娘はこれからも多くの選択をしていくはずですが、その選択が正しいと思えるのかはあくまでも本人の問題であり、求められればアドバイスをすることはあっても親の出る幕はあまり無いと思います。

一般的には一人の子供に対して約20年前後、子育てをすることになると思いますが子供は何らかの形で親の元から離れようとするので、望む望まないに関わらず何時か終わる類のイベントであり、その期間をどのように過ごすのかはその人次第でしょう。
最近だと、子供を持たない選択をする家庭もあるようですが、確かに経済的な負担は大きく、様々な点で自分自身よりも優先される生き物なのでその負担や責任から逃れようとする選択もあるのかもしれません。しかしなががら、N=2とは言え子育てをある程度行った経験からすると、これほどまでに自分が一生懸命に取り組み、学ぶ機会も多く、また自分自身の仕事の成功や稼ぎに何かしら意味を与えてくれた活動は無かったと思います。自分が生きてきた意味そのものと言っても大げさではない。
そして子供の成長自体が先に上げた自分自身のことよりも喜びを感じられる出来事であり、どれだけ贅沢や消費活動を繰り返しても子育てと子供の成長に匹敵する活動は無いと思います。
おそらくは自分以外の何かを応援するという行為自体が遺伝子レベルで人間には組み込まれており、その対象が自分の子供になるのか、プロ野球チームになるのか地下アイドルや推しの追いかけになるのか程度の違いであり、人は自分自身のためだけに生きれるようにはできてないのではないかと思います。まあ推しのことが自分事よりも大事なものと感じられるようなものなのかは知りませんが。

自分の子供や先のある世代に自分たちの経験や資産を元に何かを伝えて残してやることの繰り返しが、家を発展させたり社会を営むことだと思うのですが、やはり自分が用意した土台の上に次の人たちには自分以上の成果を出してほしいという気持ちはあります。世代を重ねるごとに劣化していくと悲しいですから。自分よりも良い教育を与え、自分より多くの機会や選択肢を与えたいというのは自然な発想であり、教育産業やらはそういう気持ちの上に乗っかってるビジネスだと思います。ひょっとしたら、自分たちよりも良い機会を与えられないという後ろ向きな理由が子供を持たない選択をする家族の本当の理由なのかもしれません。

最後に人間ダービースタリオンと言われる子孫を育てて、数世代を掛けて大きな目的を達成するというゲームから引用しておきます。

「俺の死を悲しむ暇があるなら、一歩でも前へいけ。決して振り向くな。子供達よ…俺の屍を越えてゆけッ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?