「私」とは何者か。

はじめに

「私」とは何者か。誰しも一度は考えたことがあると思います。

この問いに対する筆者の到達点を簡潔にお伝えしたいと思います。

思惟する存在としての「私」

「私」とは何者か、という問いにおいて、既に「私」の存在は所与のものとして暗黙のうちに承認されています。

近代哲学の父であるR.デカルトは「我思う、故に我在り」と言って精神、つまり「私」を実体的存在として考えました。
その「私」とは思惟する存在としての「私」です。

しかし、筆者の言う「私」とはそんな抽象物ではありません。
単に思惟することが存在規定になるのなら、あなたも筆者と同じ「私」であって、人類みんな「私」になってしまいます。
現実的には、あなたと筆者は別々の「私」として厳格に区別されますよね。

つまるところ、筆者は思惟しますが、思惟することによってのみ「私」であるわけではありません。あなたと筆者が区別されるのは、あなたと筆者の間に決定的な区別があるからではないでしょうか。

「私」と他者を隔てるもの

では、あなたと筆者が別々の「私」と考えられるのはなぜでしょうか。

それは単純なことで、あなたと筆者は別々の肉体を持っているから、また行為内容が異なるからです。
つまり、可視的なレベルにおいて見出される差異によってあなたと筆者は隔たりを感じるわけです。

そして逆説的に言えることは、この可視的な差異こそが「私」を「私」としているということです。

他者との差異が「私」である

あなたと筆者は違います。だから別々の「私」です。
それが何を意味するかというと、「私」は他者との関係において自己を認識するということです。

ここに矛盾があります。
他者との差異が「私」であるということは「私」は他者ではない者ということになりますが、それは結局のところ「私」とは他者であるということになってしまうのです。

というのも、「私」の存在を認識するには他者を認識することを媒介しなくてはならない、つまり他者が何者であるかということによって「私」は規定されるということだからです。

「私」と他者は違うけれど、「私」と他者は同じである。
これが、「私」の本質なのです。

「私」はそれ自体で存在しない=「私」は存在しない

筆者の最大の主張は何かというと、「私」はそれ自体で存在しないということです。

もしも、あなたがあなたは独立した「私」であると考えるなら、それは幻想です。
表象に囚われているのです。独立した「私」というのは存在しません。

人間関係は流動的です。
だから「私」とは流動的なのです。
生まれながらに今の「私」が存在しているのではありません。

もしも、存在するということが実体を持つということと同義であると考えるなら、「私」は存在しません。

「私」は他者との関係において構成される仮想的実体であり、実体ではないのです。

「私」は本来的には何者でもない

イギリス経験論の代表的哲学者であるJ.ロックは生得観念を否定し、人間の心を「白紙」と表現しました。
「私」とは「白紙」であって、書き込まれることで何者かになるというのなら、結局のところ「私」は本来的に何者でもないということになります。

「私」は本来的には何者でもないということは、「私」というアイデンティティを破壊してしまうような、とても暴力的な言い分に思われるかもしれません。

そうです、筆者はあらゆる「私」をぶっ壊すジェノサイダーです。
しかし、この虚無こそが本当です。
私は覆い隠されていた虚無を露わにしたに過ぎません。

わざわざ悲観的になる必要はありません。
発想を変えてみましょう。
何者でもないということは何者にでもなり得るということを意味することもできます。
つまり、人間は本来的には自由なのです。

もっとも、現実的には「私」が何者かになるための選択肢はかなりのところ制限されています。
だから、現実の人間は不自由なのです。
これについては別の機会に。

おわりに

「私」とは何者か。
結論を簡潔に記すと、「私」とは何者かになることができる何者でもない者、ということになるでしょう。
これが筆者の到達点です。

筆者は何者でもありません。
しかし筆者は何者にもなれません。
この虚無と折り合いをつけることができないのです。

筆者は一生涯、この虚無と向き合うことになるのでしょうか。
虚構とわかっていながら、それを忘れて楽しめますか?
後ろめたさからは逃れられません。

自分がどう生きるか、模索中です。

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