自由という名の不自由

はじめに

「自由」という響きは素敵だ。
人は誰でも自由を欲している。
自由の獲得を巡って歴史が展開されていると言っても過言ではないだろう。

私たちは自由を愛している。
そして現代日本社会においては、自由は私たちの権利として認められているし、おそらく多くの日本に住む人々が自分は自由だと思っているのではないだろうか(勿論、一定程度の不自由を感じている人々もいるだろう)。

しかし、それは嘘だ。
私たちは自由ではない。
自由という名の不自由なのだ。

本稿では自由についての筆者の考察を書き連ねていきたい。

自由とは何か

人間の数だけ自由の定義がある、というのは誇張し過ぎかもしれない。
しかし「自由」という響きには、そのように思っても仕方のないくらいに様々なの意味が与えられている。
そういう事情だけを抽象すれば、自由とは理想である、とも言えるだろう。

さて、ここで筆者が問題にしたい「自由」とあなたが考える「自由」は少し異なっているかもしれないから、筆者が問題にしたい「自由」の意味を前もってはっきり書いておくことにする。

自由とは自らの意志に適う選択である。

自由とは自らの意志に適う選択である

例えば、商品Aを欲する或る人が商品Aを買うことができるとき、その或る人は自由だ。
しかし例えば、商品Aを欲する或る人が経済的な事情によって商品Aを買えないとき、その或る人は不自由だ。

この仮定には、おそらくほとんどの人々が賛同するだろう。
そういうわけで「自由とは自らの意志に適った選択である」という定義は、たとえあなたの自由についての考えと筆者のそれとの間にいくらかの誤差があったとしても、受け入れて貰えるものだと思う。

しかしこの自由は、先に挙げた例で示したように、またそれ以外の様々な諸条件によっても阻害され得るし、経済的な事情もとい経済的諸条件に着目するのであれば、現代日本社会はますます私たちを自由から疎外された状態に陥れようとしている。

ただし筆者が問題にしたいのは、自由が何らかの諸条件によって阻害され、また私たちが自由から疎外された状態に向かって転げ落ちているということではなくて(それはそれで検討すべき重要なことだが)、私たちが主観的には自分は自由であるに違いないと考えてることしても、本当のところはそうではないのではないか、ということである。

つまり端的に言えば、冒頭でも述べたが、私たちは自由という名の不自由なのではないのか、ということである。

私たちは不自由だ

自由とは自らの意志に適う選択である。
だから、私たちが自らの意志に適う選択をしている限り私たちは自由だ。
……それは違う!
私たちは自らの意志を所与のものとして認知し、また同時にそれが内発的なものであると暗黙のうちに前提しているが、それは誤りなのだ。
自らの意志は自らのうちにはない。

私たちは知らず知らずのうちに自らの意志を誘導されているのだ。
M.フーコーは権力が自由を制限すると考えたが、権力は支配者―被支配者の間だけではなくて、種々の人間関係にも生じている。
とすれば、人間関係は権力関係だ。

ただ、権力だけではこの意志の誘導を捉えるには不十分であって、それこそさっき度外視することを決めた経済的諸条件は意志の誘導、あるいは意志の規定においてとても重要な要素になる。

なぜ自らの意志は誘導されるのか、あるいは規定されるのかという問題は、イデオロギーの問題に回収され得るが、それについては別の機会に。

大事なことは、商品Aを欲する或る人が商品Aを買うことができたとしても、そもそもその或る人が商品Aを欲するようになる段階で、その或る人は意識的に、あるいは無意識的に商品Bを買うという選択肢、あるいは他の商品を買う選択肢を排除している。
そして、その選択肢の排除はしばしば内発的に行われるのではない。
外発的排除は内発的排除を装うのだ。
だからたとえ私たちは自らを自由だと思っているとしても、そのように思わされているということ、つまり私たちが自由でありながら不自由であるということを排除することにはならない。

おわりに

あなたは自らを自由だと思いますか?
残念ながら、あはたは自由ではない。
主観的には自由なのだとしても、それは骨抜きなのだ。
自らの意志は自らのうちにあるものだという信念を曲げない限り、自由になることはできない。

このように言うと、それは人を強制的に自由の外へ追いやるような暴力的な物言いに思われるかもしれない。
そうです、筆者は自由をぶっ壊すジェノサイダーです。

冒頭で述べた通り、自由とは理想である。
自由は美しくなければならない。
私たちはその本当の自由に向って歴史を紡いでいくのでなければならない。

人類は自由に向かっている。
いつか人類が本当の自由を手にすることはできるのだろうか。
その世界は幸福に満ち満ちているだろうか。

自由とは希望である。
なぜ私たちが不自由であるのか、その解明を通じて私たちは飛躍しなければならない。
私たちは希望を持たなければならない。
私たちは幸福でなければならない。
なぜなら、それが生きることそれ自体に意味を見出だせるようになるための条件であるのだから。

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