見出し画像

七月革命とフェミニズムー性から読む「近代世界史」⑩

・七月革命、サン=シモン主義、「自由女性」

 ナポレオン帝国の崩壊後、フランスでは王政復古が唱えられ、貴族を中心とした旧体制が返り咲こうとしていた。1824年に即位したシャルル10世はそうした反動的な政策をさらに進め、不作も重なったことで人々は不満を募らせてゆく。高まる民衆の抗議の声に対し、王は出版の自由を奪い、議会を無視することで応じた。これにより、シャルル10世は益々力をつけつつあった資本家層までも敵に回すことになる。
  1830年7月27日、しびれを切らしたパリの市民は三色旗を掲げて決起した。七月革命である。国王軍は人々に銃弾を浴びせたが、夫や父とともにバリケードを築いた女性たちの奮闘もあり、民衆は工場や市庁舎を占拠して王を追い詰めた。7月31日、混乱の隙をみた資本家たちは、ラファイエットの協力を得て貴族のルイ・フィリップを新たな王として即位させ、ここに七月王政が成立する。選挙権は1%の富裕層に制限され、経済活動の自由化が促された。政府主導の資本主義政策により、産業革命の波がフランスにも到来するのである。
 共和制を望んでいた人々の間には失望が広がった。物価上昇と貧困層を襲ったコレラ流行も重なり、31年末のリヨン暴動、32年のパリ六月暴動など民衆の反乱が相次いだ。下層民に対し政府は国民軍を動員、弾圧と虐殺でもってて対処した。体制側に立ったラファイエット自身、民衆への裏切りではないかと葛藤したらしい。彼はその後政府の重役を辞任し、1834年に亡くなった。

「六月暴動」

 金銭欲と権力欲に取りつかれた政治家たちへの嫌悪感は、パリで新しい運動を育てることなった。サン=シモン主義Saint-Simonianismである。ウィラーとトンプソンにより『女たちの訴え』が著され、オーウェンがアメリカ議会で演説したのと同年の1825年、パリでサン=シモンが死去した。彼の思想は弟子のアンファンタンらによって引き継がれ、次第に支持者を増やして時代を画する思潮へと発展する。サン=シモン自身は女性の解放についてあまり語らなかったそうだが、彼の後継者たちは家庭における男性支配を問題とし、対等な夫婦関係を目指した。フーリエの影響もあり、サン=シモン主義者たちは従来のキリスト教など女性を罪深い存在とする価値観を退け、性と恋愛の自由を説いた。 
 サン=シモン主義の運動では、女性的な思いやりがより良い社会を築く鍵になると考え、売春婦を含めた労働者女性も多く参加した。そのうちの一人に、帽子職人の家に生まれたシュザンヌ・ヴォワルカンSuzanne Voilquinがいた。彼女は貧困層を無視した七月革命の結果に失望し、労働者の境遇改善を急がねばと奮起する。1832年、初めて労働者女性を主体とした新聞『自由女性La Femme libre』を編集、全ての女性が窮状から脱して解放されるよう訴えた。 彼女はこの新聞で夫の姓の代わりにファーストネームを用い、フランス民法典における男尊女卑を批判する。さらにシュザンヌは、貴族、ブルジョワ、労働者と女性の内部でも分断が生まれている現状に対し、階層を超えて女たちが連帯し、ともに闘うべきだと呼びかけた。「女性」内部の亀裂がその後21世紀の現在まで続いていることを鑑みるに、シュザンヌと『自由女性』の主張は時代を遥かに先取りしていたと言える。

知的自由も、性的自由も、女性の独立と美しさの獲得は、自己の能力をすべて開花させることにかかっている。...われわれは自分で自分の道徳をつくろう。...もはや男性を待っていてはならない。自ら行動するのだ

『自由女性』

・フロラ・トリスタン、南アメリカ解放、マヌエラ・サエンス

 七月革命の前後、サン=シモン主義の集会に、後に自ら「賤しい女」と名乗り、19世紀のフェミニズムを語るうえで欠かせない存在となる人物が来ていたらしい。フロラ・トリスタンFlora Tristanである。1803年、彼女はパリの郊外に生まれた。父はペルー出身の貴族、母はフランス人、フロラは私生児であった。幼少期は裕福な父の邸宅で過ごすが、四歳の時に父が亡くなると、フロラと母はたちまち貧窮した。貧しい中でも彼女は好奇心にあふれ、ジェロメーヌ(スタール夫人)の『コリンヌ』を読み、革命家シモン・ボリバルの冒険譚に夢中になった。
 17歳で結婚、夫シャザルとパリの小さなアパートで暮らし始め、すぐに男の子が生まれた。フロラ21歳の時には次男が生まれるが、この頃からシャザルとの関係が悪化していく。彼女はその後、この夫に長きに渡って苦痛を強いられることになる。シャザルは賭博にはまって借金をこしらえ、ある日、金のため妻に売春してくれと頼み込んだ。辟易したフロラは家を出て母の下に避難する。このとき彼女は妊娠しており、22歳で娘アリーヌを出産した。
 貧困からフロラは二人の息子を田舎の乳母に預け、自身は仕事のためにヨーロッパ各地をまわった。労働の合間を縫って、フランス革命の歴史書やウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』を読んでいたらしい。フロラとウルストンクラフトの二人は、若くして貧窮を強いられた点、夫と父親という違いはあれど、身近な男性の暴力に苦しめられた点など、共通点が多く見いだせる。自らの苦境から「女性の権利」を叫ばずにはいられなかったウルストンクラフトに、フロラは強く共感し、情熱的な言葉を捧げていたそうである。だが言葉だけで女が身を立てるのは、まだ困難な時代が続いていた。25歳のころ、子供の養育費を求めてフロラは夫との裁判を起こしている。翌年には名家の生まれであった父の縁故を頼ってペルーの叔父ドン・ピオに手紙を書き、金銭の援助を求めた。サン=シモン主義に加わったのはこの頃であるようだ。
 1830年に勃発した七月革命に、フロラもまた他の労働者と同じく希望を抱き、すぐに失意の底に落とされた。彼女はこの新たな政変によって、40年前のフランス革命の際に認められ、ナポレオンによって否定された離婚の権利が復活するのを期待したが、資本家たちの策略によって夫の暴力から逃れる手段も失われたのである。フロラはお金のためにイギリスへ渡って働き、パリに戻ったとき、借金取りに追われる夫シャザルと会合した。シャザルは娘を自分に引き渡すよう要求、暴力で脅されたが、フロラは頑なに拒んだ。夫は彼女に執拗に付きまとい、フロラは逃亡生活を余儀なくされた。フロラ30歳となった1833年、彼女は叔父のいるペルーに旅立つことを決める。
 
 さて、当時のペルーは独立を勝ち取って間もない共和国であった。スペインの植民地支配からこの国を解放した英雄の一人が、シモン・ボリバルである。啓蒙主義に育まれた共和派であった彼は、青年期にフロラの両親と親睦を結んでいる。幼いフロラと話したこともあったかもしれない。ボリバルは革命の成果を学ぶためにフランスに来ていたのだが、ナポレオンの圧制を目にし、自由と国民を裏切っているとこの皇帝を非難したという。その後故郷のベネズエラに戻った彼は、共和主義を掲げて独立運動を展開した。1816年、既に共和国として独立していたハイチの支援を得たボリバルは奴隷解放を宣言、黒人やムラート(白人と黒人の混血)の支持を得てスペイン軍を圧倒した。その勢いのままに、1819年にはベネズエラを含めた大コロンビア共和国が成立、21年にはペルー、25年にはボリビアがそれぞれ独立を勝ち取った。
 むろん、独立のために闘ったのはボリバルだけではない。アスルドゥイ・デ・パディジャJuana Azurduy de Padillaは軍服を身にまとい、男に勝る指揮官としてスペイン軍との戦闘で活躍した[8]。ボリビアの独立に大きく貢献したこの女性は、現地で国際空港の名となって記憶されている。また、ペルーの特権階級に生まれたマヌエラ・サエンスManuela Sáenzは、夫と決別して独立派に加わり、情報収集や部隊の組織化を通じてスペインに対抗した。ボリバルの恋人であったサエンスは、南米のフェミニズムを先駆けた女性としても評価されている。

 フロラに話を戻したい。ペルーに着いて叔父ドン・ピオの邸宅を訪れた彼女は、現地の有力者である彼と果敢に交渉するも、私生児であることを理由に父の財産の引き継ぎは拒まれた。伝統的に教会を通して婚姻を結んでいた西洋社会では、「正式な夫婦」から生まれた子供以外はその権利を認められてこなかった。フランス革命期にオランプ・ドゥ・グージュが『女性の権利宣言』の中で婚外子の認知を訴えているのだが、以前に書いた通り、その時期に主張された女性の権利は「ナポレオン法典」によって悉く否定されたのである。何とか少額の年金を受け取ることに限り認められるが、はるばる大西洋を越えて来たフロラの心は打ち砕かれた。
 彼女は暫くペルーに滞在することにし、現地の産業や習俗を見て回った。憧れのボリバルの名残を辿りたい思いもあったのだろう。ここでの体験は、後に『ある賤しい女の遍歴』と題された本にまとめられる。特に先住民の女性からは感銘を受けたようで、フロラは彼女らの勇敢さ、力強さをたたえる記述をしている。奴隷制も大きな関心の一つだった。フロラはこの制度の不正義を激しく非難しているが、それは実際に奴隷を使役する工場に足を運んだ上でのことだった。彼女はこう記録している。

二人の奴隷女が閉じ込められている独房に入った。彼女たちは授乳を止めて子供を死なせてしまったのだ。二人とも裸同然の姿で片隅に縮こまっていた。...その視線はこう訴えかけているようだった。「子供はあなたのように自由の身になれないとわかっているから、死なせたのです。奴隷の身であるよりも死んだほうが幸せだと思ったのです」。私の胸は痛んだ。このように黒い肌の下に気高く誇り高い魂を持つ人に出会うことが出来るのだ

トリスタン『ある賤しい女の遍歴』

<参考文献>

[全体]喜安朗編『ドーミエ諷刺画の世界』岩波書店 2002
マッケン, ハンナほか『フェミニズム大図鑑』最所篤子、福井久美子訳 三省堂 2020
レオ, ゲルハルト『なぜ彼女は革命家になったのか―叛逆者フロラ・トリスタンの生涯』小杉隆芳訳 法政大学出版 2020
[8]ハールバート, ホーリー監『WOMEN 女性たちの世界史 大図鑑』戸矢 理衣奈 日本語版監修 河出書房新社 2019 pp154-5



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?