見出し画像

浅草寺の牛鬼伝説

今日、浅草へ行った。前に来たのは1年以上前だから、久しぶりといえば久しぶり。観光客がずいぶん増えて、活気が戻っている印象を受けた。昼メシは、神谷バーの2階、「レストランカミヤ」。入るのは何年かぶりだった。10年くらい前まで、仕事や私用で、ときどきここで飲み食いしていたのを思い出して懐かしくなった。

きのう、あるお城の「鬼門封じ」として建てられたお寺の話を投稿をしたが、こんな賑やかなまちである浅草にも、「牛鬼うしおに/ぎゅうき」の伝説があるのだった。記録によると、鎌倉時代の建長2年(1251)3月6日に、それは現れた。「牛鬼」でなく「如牛者うしのごときもの」として、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡あづまかがみ』巻第41にこう書かれている。

六日。丙寅。武蔵国浅草寺如(レ)牛者忽然出現。奔(ー二)走于寺(一)。于(レ)時寺僧五十口計。食堂之間集会也。見(二)件之恠異(一)。廿四人立所受(二)病痾(一)。起居進退。不(レ)成。居風云云。七人即座死云云。

(正宗敦夫編『吾妻鏡』第7、日本古典全集刊行会、1930)
正宗敦夫編『吾妻鏡』第7、日本古典全集刊行会、1930年(画像:国立国会図書館デジタルコレクション)

牛のような者が突然現れ、浅草寺の中を走り回った。そのとき、浅草寺のお坊さん約50人が食堂じきどうに集まっていたのだが、くだん恠異かいいを見て、24人がたちまち病気になり、起居進退ききょしんたい(立ったり座ったり歩いたり)ができなくなった。7人はすぐ亡くなったのだとか、という記録だ。
「居風云云」の「居風」が何かはわからず、調べないといけないのだけれども、たぶん何かの病気を指しているのだろうとは思う。
なお、これを読む限りでは、その「牛のような者」がどこから来て、どこへ去ったのかはわからない。

ところで、「牛のような者」というから、なんとなく牛頭人身のヒューマノイドを想像していたのだけれども、牛のようであったのか、それとも人のようであったのか、『吾妻鏡』の記述からはわからない。

ヒューマノイドの牛鬼というと、例えば『綱絵巻つなえまき』(室町時代)の牛鬼がいる。『太平記』(室町時代)には、渡辺綱わたなべのつな(鬼の頭目・酒呑童子しゅてんどうじを倒した源頼光みなもとのよりみつの四天王の一人)が牛鬼(頼光の病の原因とされた)の腕を切り落として持ち帰る話がある。一連の物語を絵に描いた『綱絵巻』や『では、その牛鬼は、黒い体の牛頭人身。ヒューマノイドで、『地獄草子じごくぞうし』などに描かれる地獄の獄卒、牛頭ごず馬頭めずなどに近い。

『綱絵巻』(部分)、室町時代(16世紀)、紙本着色、縦24.2cm×長さ996.8cm、東京国立博物館蔵、ColBase(https://colbase.nich.go.jp)

浅草の「牛のような者」も、そういう姿を想像していたが、ぜんぜん違うのかもしれない。

いろいろな時代に、昔の人はどんなふうに想像していたのか。調べればいろいろわかるかもしれないが、私が今知っているのは、曲亭馬琴きょくていばきんの『敵討枕石夜話かたきうちしんせきやわ』で、これに浅草の「鬼牛」が出てくる(馬琴は浅草寺の牛鬼伝説に取材している)。江戸時代の創作娯楽作品だが、挿絵を見ると、黒い巨大な牛である。牛頭人身でも人頭牛身でもなく、ズバリ、牛。

著・曲亭馬琴、画・歌川豊広『敵討枕石夜話』2巻、文化5年(1808)刊、2巻2冊(画像:国立国会図書館デジタルコレクション)

ちなみに『敵討枕石夜話』では、牛鬼とは何なのかについて、登場人物がこう説明するくだりがある。すなわち――

海でおぼれ死んだ人がうらみを持っていたとき、その魂魄こんぱく(死者の霊魂)がけものと化す。これを鬼牛という。それは普通の牛より大きく、力は水牛の百倍。いつも水の中に沈んでいて、人に見られることはないが、もしこれを見たら、その人はたちまち死んでしまうといわれる。

下の画像右ページ4行目下から6文字目から「およそ江海こうかい溺死できしの人、うらみふくむときは、魂魄こんぱくして獣となる。これを鬼牛きぎうといふ。そのかたち尋常よのつねうしより大きくて、膂力ちからまた水牛すいぎうに百ばいし、つね水中すいちう沈淪ちんりんして、人に見らるゝことなし。もしこれを見るときは、その人立地たちまちするといへり」

著・曲亭馬琴、画・歌川豊広『敵討枕石夜話』2巻、文化5年(1808)刊、2巻2冊(画像:国立国会図書館デジタルコレクション)

これもたぶん、馬琴がいろいろな要素をいろいろなところからもってきて面白くしているのだろうと思う。
まあしかし、いちばん有名な牛鬼は、やはり水木しげるさんが描いた牛鬼であろう。牛の頭に蜘蛛くものような体。あれは石見いわみ(島根)の牛鬼だと思うが、牛鬼といえばあれ、という感じになっていると思う。