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自論「私論」

 昔、書き溜めてた文を一部書き加えして投稿する。何か考え方の役に立てば幸いではある。

 ある偉人が「とりあえず今考えてる私は存在するよね」的なことを言ってたので、それについて考えてみた自論をここに書く。

 まず、私がいる、と言ったものだが、厳密には、「頭に浮かんだ自らの思考」が存在するのであって、それは「私という人間」の存在証明ではないと考える。「私が考えているんだから私という人間もいるに決まってるじゃないか?」と思うかもしれないが、何故それが無条件に成り立つのか説明できる人はいないであろう。あくまで、思考、五感の認識と言った情報から私という人間がいる、というように想像したのであって、存在が約束されているものは、あくまでそれらの情報である。

 そこで私は、これらの情報、我々が五感で感じ取ったり、頭で考えていると思っていること(五感で感じたなり考えた情報だと思っているということは、私という人間がいる、という「認識」と同じようにあくまで想像だと考える)を、自らが認識する世界における「定義」であると考える。(というより、そのように「置く」、という方が表現としては正しいと思うが。)
以後、この「定義」のことを、自分という人間、と区別して「主格」と呼ぶこととする。

 この「主格」というのは、我々が見ている世界における、数学世界における数学の定義のようなものである。
 話は変わるが、存在というのは、自身は存在論について詳しくはないため、説明はつかないが、要は我々が見ている世界全てのこと(厳密には我々が見ている世界から我々が切り取り想像したもの全てといった方が正しいだろう)を指すと考えられる。つまるところ、全ての存在は、「主格」に帰結していると言える。

 これによって、この考え方を用いることで、目に見えるさまざまなものから、「主格」を、ひいては自己の認識を行うことができる。世界を知ることとはすなわち自分を知ることであると考える。

 この考え方では、「他者の意思の存在」を否定する。それらはあくまで「主格」によって映された世界から切り取られた1クリップなのであって、もとの「主格」と対等な別の「主格」というものは存在し得ない。数学の定義の中に、ジャンルや系統、論理の形式の異なった複数の定義が存在しないのと同じである。(あくまで情報から想像されたものとしては存在する場合がある。)また、それによって、いわゆる「客観的な事実」「絶対的な世界観」(目の前の世界が誰から見ても存在すると言った類のもの)の存在を明確に否定する。(絶対そのものの存在は否定しない。)主観的な世界の存在のみを基本的には肯定する。

 先ほどの考え方だと、「主格」という定義しか許されておらず、「数学の定義」と言ったあることが想定されている別の定義に関して考えることができない。それ故、別の概念を仮想的に用いる。(その存在を仮定したとして、複数の定義が同一世界に存在することはない。つまるところ「主格」を定義した際、厳密な意味では「数学の定義」は成り立っていないということである。)

 「主格」を定義した際、「絶対」や、「非存在」の概念を夢想することができる。それにより、「絶対的な何か」を夢想することができる。「主格」や、「数学の定義」を定義する土台の存在を夢想し、それを「存在非存在」と呼ぶことにする。
 茹で卵を想像してほしい。これを「存在非存在」とする。当然この卵は切断することができる。この切断の行為そのものが定義であり、そのどこからどの角度で切り込むかによって、それぞれ別の定義である。そしてそれにより切られた茹で卵の切断面、それがその定義によって広がる世界である。「主格」における我々が見ている世界がこれに相当する。(以後、定義によって見られる認識や広がりのことを世界とよぶことにする)

 この「存在非存在」の中に、「主格」を見出すことは無限に可能である。しかし、この「存在非存在」の外にあることはできない。それ故、「主格」というものを夢想できるということは、「主格」がある種無限に存在出来るが、それには一定の制限が存在する、と考えることができる。

 最後に追加で、「なぜ同時に二つの『主格』ができないにもかかわらず、別の「主格」の存在を夢想できるのか」に関して書いておわる。
 先ほどの卵のたとえで言えば、断面二つが交差している可能性がそんざいする。だから、その交差点から先の断面を推測した、と考えられる。これにより、交差する面は夢想できるが、しない面は完全に未知となる。
 それ故、「存在非存在」の中には、完全なるブラックボックスが存在する、と考えられる。

 以上が、私の世界の捉え方となっている「私論」である。
 何に使えるかはわからないが、使えるなら使って欲しい。

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