見出し画像

遊びと勝負の境界

この週末、僕がプレイしているNintendo SwitchのARMSというゲームのオフ大会が行われた。小規模ではあったが国内で腕の立つプレイヤーが集まったトーナメント。勝ちあがるのは簡単なことではない。

しかし、多くの強豪を退け準優勝を果たしたそのプレイヤーは下を向き、試合後のインタビューには涙声を抑えて2、3ポツリポツリと言葉を絞り出すのがやっとだった。

普段温和な彼の人柄を知っているだけに、悔しい感情を隠しきれないでいるその様子に驚かされた。彼が優勝の1点にかけてきた想いの大きさが伝わる。

振り返ってみて、自分はそのくらいの気持ちを持って試合に望んでいるだろうか。

大会に出場しても勝ち上がれないことに慣れてしまい、以前より悔しい気持ちが小さくなってはいないだろうか。勝てないことよりもそのことのほうが問題だ。

僕はオフの大会で結果を残すことをずっと目標にしてきた。今でもそれは変わらない。しかし実際には勝てない相手にずっと負け続け、克服しなくてはいけない課題から目をそむけている。これでは掲げた目標はハリボテで、実際は毎日ただゲームを遊んでいるだけだ。

同じ大会に出ていながら距離を感じる。自分と彼の間に、遊びと勝負、その境界線が見えた。

発売から何年も経ち、シリーズの新作が稼働していたり、プレイできるゲーム機が生産終了になったゲームタイトルで、今でもユーザー主催の大会が開かれていたりする。

集まる人数が毎回何百人となる人気タイトルもあれば、十数人くらいのものもある。しかしその大小を問わず、コミュニティの中心には必ず、はたから見れば理解しがたいくらいそのゲームに情熱を傾け続ける人たちがいる。

プレイヤーとして本気で勝負をし続ける人たちと、そのための場所を作り続ける人たち。勝負は相手がいないと成立しない。それもいつまでも競い合える、同じ熱量を持った相手だ。

彼らがお互いに薪をくべている限り、どんなに小さくなっても火は絶えない。そしてそこに灯りがあれば、そのまわりには同じゲームを遊ぶ人、遠巻きに見守る人が集まりコミュニティは存続する。

ゲームに対して、人それぞれいろいろな関わり方、楽しみ方があり、モチベーションも様々だ。僕はこの大好きなARMSというゲームで、火の目前で薪をくべ続ける役割をしたい。長く続く他のゲームコミュニティと同じように、自分がARMSを楽しめる環境をずっと残していきたい。そのために強者を奮い立たせるような勝負ができるプレイヤーになりたいと改めて思った。

ストイックになるつもりは全く無い。僕にとっては中途半端な気持ちでやっているよりも全力で取り組んでいるほうが、今よりももっとARMSを楽しめるはずだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?