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JOKER(ジョーカー) ネタバレ考察

先週のレディースデーでやっとこさ「Joker」を観てきたものの、あれから一週間毎日映画の内容について考えて眠れない日々を過ごした。

DCシリーズはバットマン ビギンズを開始15分でやめてしまった人間なのでDC作品について何か語る資格は無いのだが、とりあえずジョーカーだけは122分ちゃんと観たので語らせてほしい。

所感

前評判が良かったので何の予備知識も無くとりあえず観ておこうと思ったのがきっかけだったのだが、観た感想としては「無敵の人」の話だなあと思った。(そしてTwitterで「ジョーカー 無敵の人」で検索したら同じ感想を持った人達がいっぱいいた。)

「無敵の人」については以下の通りである。

"簡単に言ってしまえば、『失うものが何も無い人間』のこと。失うものが何もないので社会的な信用が失墜する事も恐れないし財産も職も失わない、犯罪を起こし一般人を巻き込むことに何の躊躇もしない人々を指す。"

元々2ちゃんねるを作ったひろゆき氏の考案したネットスラングだが、最近は川崎の無差別殺傷事件福岡IT講師殺害事件があったりして、こういった衝動的な動機を持つ人達の存在が日本でも割と認知され始めたなと思う。
アメリカでも銃乱射事件が度々起こるが、トッド・フィリップス監督はそういったなりふり構わない動機を持った犯人達の存在を「Joker」という誰でもよく知っているダークヒーローを使ってアメリカ中に認知させたかったんじゃないかなという結論に至った。(英語に"無敵の人"に当たるスラングがあるかどうかは知らないが)

1.ジョーカーは現実にいるか

 作品を観る前にネットで色んな感想を見かけたが、その中に「誰でもジョーカーになりうる」とか「俺もジョーカー予備軍だ」みたいな一文を書いている人達が居て、観た後にそれを思い返すとどうなのかなと思う。
結局この内容をDC作品のジョーカー(とホアキン・フェニックス)に演じさせたのは一定の常識を超えた(通常ならば心理的にありえない)描写があるからで、リアリティを求めるならばDCを使わない別の方法で描写すると思う。
つまり、ジョーカーのような人物をフィクションとして留めておく必要があると言うことだ。

ジョーカー自身がジョーカーという"特別な存在"である理由としては人殺しなど並の人が越えられない一線を越えていくからであって、普通の人間はどんなに不幸な境遇になろうともそういった社会的常識や良心を打ち破ることは出来ないのだ。
もちろん中には実際にそれを越えてしまう人間もいるが、しかしそれ自体を容認することや彼らの存在自体をダークヒーローの模倣として手放しで持ち上げることは一般的には出来ない。なのであくまで監督はジョーカーをフィクション映画の中の人物として、作品の中に閉じ込めている。
私を含む世の中の人は誰でもアーサーのように生活や境遇が困窮化する可能性はあるが、誰もがそれを理由に衝動的に、あるいは無差別に人を殺してしまうほど脆いモラルは持ち合わせていないのだ。
なので実際のところ物語終盤にあるテレビショーの最中に人殺しをするような、ジョーカーに近い狂気を現実に実行出来る人物はかなり数少ないと思う。

2.アーサー自身は"悪"なのか

職を失い、
これといった友人もおらず、
社会福祉は打ち切られ、
生活は困窮していき、
唯一の母親だと思っていた人間に血の繋がりが無く、その手で母親を手にかける。
その上、先天性だと教えられていた"笑いが止まらなくなる"という自分の障害が、母親と当時の父親の虐待によるものだと知る。

こういった劇中のアーサーの私生活については同情できる部分はかなりある。他者の感想の中に「(アーサーの本質は)善か悪か」といった内容を綴っている人も居たが、それはそれとして人を殺す行動に出てしまった以上、結果として「悪」だと思う。アーサーは最初の犯罪として電車で絡んできた富裕層である証券マンを3人殺害するが、犯罪を犯す前のアーサーが「善人」かと言われればそうでもない。(護身とはいえ小児科に銃を持ち込んだり、隣人であるシングルマザーの女性をストーカーしたり、女子供など自分より立場の弱い人間を脅かす状況を実際に作り出しているため)
しかしこの証券マン殺害事件は後に貧困層のデモ参加者の絶大な支持を受けることになる。

3."アーサー"と"ジョーカー"

強いて言うならば、この作品は善悪と言うよりは"弱者"と"強者"のストーリーだと思う。

アーサーであった頃の彼はどこか自信が無く、社会的にも弱い立場にあり"自分"という人間が定まらずに生きていたが、自分の生い立ちを知り、長い間自分を騙していた母親や自分を陥れた人間を排除していくうちに身も心もジョーカーとなり、自身を肯定し、精神的にも安定していく。
この作品には富裕層や貧困層、ジョーカーに殺された同僚や助かった同僚など様々な対比があり、変遷するそれらの要素も含めてアーサーとジョーカーの違いが描かれていると思う。
この部分は文章で表現し難いので、気になる人はぜひ本編を見てほしい。

4.ラストシーンの解釈

それに関連して最後まで悩んだラストシーンの解釈だが、ジョーカーはゴッサムシティのデモの後に精神病院へ収容される。ネットを見てみるとこの収容までがジョーカーの妄想説、そもそもラストシーンは実は本編の冒頭ではないかなどラストの解釈を巡って本当に色んな考察があった。私はそれらを眺めては見たものの、どれも辻褄が合わなかったり、その場合の動機が理解出来なかったりしてしっくり来なかった。

一週間悩んでみたが、まず時系列としては作中に描いてある通りの解釈が正解なのかなという思いに至った。

調べてみるとこの作品はホアキン・フェニックスのアドリブが数多く含まれていて、
・証券マンを殺害した後のトイレのダンスシーン
・冷蔵庫の中に入るシーン
など一見意味深な場面が数多くあり、アドリブ以外にもシングルマザーとデートをする妄想などがさも現実かのように描かれていたりしてうっかり深読みしてしまう部分が多々あるが、それはあくまでホアキン自身の演技力が発揮された部分でもあり、物語の本質は結構シンプルな内容なのではないかと私は解釈した。


5.精神病院がカギ

多くの人は劇中序盤に登場する黒人女性のカウンセラーが示唆した"アーサーが以前精神病院に居た"ことに惑わされ、「ラストは以前と同じ精神病院にいたんじゃないか?」や「ラストシーン自体が作中の精神病院に居た頃の話なのではないか?」と推理する人がたくさん見受けられたが、私なりの答えとしてはこの2シーンを対比として"以前の自分(アーサー)からの脱却(解放)"が暗喩されているんじゃないかなと思った。

過去に精神病院に居たアーサーのシーンでは鍵のかけられているドアに延々と頭を打ち付けている場面が回想されたが、それに対してラストシーンではジョーカーの姿で収容された後、その部屋を自力で脱出している。
ラストのカウンセラーが殺害されたという直接的な描写は無いが、部屋を出てきた後の足跡が血溜まりになっていたことや廊下の突き当たりで職員に追い回されているジョーカーの影が「本来部屋から出てきてはいけないはずだが(何かしらの手段で)無理矢理出てきた」ことを表現しているんだろうなと思った。

まとめ

よってやはりラストシーンの具体的な時系列としては、バラエティ番組で罪を暴露し、司会を射殺する事件を起こして逮捕されるが、護送されている途中にパトカーごと事故に遭い、デモ隊によって助け出されボンネットに登ったシーンの後(ジョーカーは再逮捕され)、ラストの精神病院に入れられたと解釈するのが正しいのではないかと思う。
そして精神病院自体は前述の通りアーサーとジョーカーの違いを表す比喩になっているというのが私の結論である。さらにオチとしては"弱かったアーサーがジョーカーとなり、自分を閉じ込めていた社会から(もしくは自分自身から)脱却した"というのがこの作品の真相だという結論に辿り着いた。まあ観たままという感じだが。

ホアキンの演技力は本当に素晴らしく一つ一つの描写を深読みしてしまいがちだが、実際の作品の題材としてはとてもシンプルなもので、ホアキン演じるジョーカーのセリフに煙に巻かれそうになりながらも観た側がそういった真相を感じ取っていくというような映画だと思う。

まあこんな感じで作品を観た勢いでざっと調べただけなので監督のインタビューなど細かい内容は全部は見ていない。その他にどういった要素がこの映画にあるかは分からないが、自分なりに考えた上で作品のオチとして納得がいった解釈を綴ってみた。あなたの感じた感想はどうだっただろうか。
もし他に「こうだったらどうか?」という解釈があれば是非noteにして見せて欲しい。

それにしても、たった一本の映画の結末を一週間も考えさせられたのは初めてである。

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