見出し画像

春を謳う鯨 ⑧

◆◇◇◇ ⑦  ◇◇◇◆

振り返って目が合うと、楢崎くんは鈴香に微笑みかけて、激しく唇を重ねてから、体を起こして鈴香の腰を抱え上げ、鈴香の膝を開いて、自分の脚にかけた。

いい眺め…鈴香。俺、いますごく、盛り上がってるよ。今日は悦すぎて漏らすまで、やり込んであげる。覚悟しなよ。

噛み付かれていた右耳が、熱かった。鈴香は、反り返った体の自重を頰と肘に感じながら、期待なのか、恐怖なのか、自分でもわからない、震える唇で小さく、楢崎くんの名前を呼んだ。

◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆

-----------------------------------

チェックアウトまで、まだ、小一時間あった。鈴香が髪を乾かしてメイクを終え、部屋に戻ると、楢崎くんはソファで新聞を読んでいた。部屋は、来た時とほとんど違わないほど原状復帰していて…違いといえばシーツに皺があることと…結局耐えきれなかった鈴香の下に楢崎くんがすかさず敷いた、バスローブが、いま、鏡台の上に重たげに、丸まっていることくらいだった。掛け布団を斜めに折って空いたスペースには、鈴香の服が並べられていた。

休みの日のホテルでも、新聞は読むんだね。何か興味あって追ってるの? それともマラソンとかと、一緒? 読むのが趣味なの…?

ベッドに腰掛けた鈴香が、ストッキングに足を通しながら話しかけると、楢崎くんは新聞から顔を上げて、憮然とした。

読むのが趣味は鈴香だろ。エロ本がわりにフーコーを読むような悪趣味なことは、俺は絶対にしない。…鈴香は、軽んじるけど、世相というのは社会を生きるうえで、決して無視できないんだよ。俺たちは個別に、隠れて、独立して生きてるんじゃない。社会の中の個人として、社会的な影響力を持って、活動してるんだ。そういうところ、鈴香は頭が回るだけで、人間としては馬鹿なんじゃって、すごく不安。

…。馬鹿かもね…? それでもきっと、たっくんほどじゃ、ないけどね。

は。バカを競ってどうすんの、ほんと、馬鹿。

楢崎くんは軽くいなして、手元にまた、目を落とした。

活字嫌いの俺が、我慢して毎日、新聞を読むのは、知るためでもないし、考えるためでもない。決めるためだよ。自分が何をすべきか、決めるために読んでるんだ。未来はわからなくても…結果は、受け止めるしかなくても、俺がいまどうするかは、俺が、決められる。だろ?

楢崎くんを見つめたまま、ぼんやりと聞いていた。右脚をストッキングに入れ終わって、もう一方をつま先まで手繰り寄せた。足は甘皮の手入れを、できればしようと思って、キットを持ってきていたけれど…夜も朝も…心も、体も…それどころじゃなかったな、と、鈴香は自嘲気味に、振り返っていた。

意外に…頑張ってる青年みたいなこと、言うんだね。

ちゃんと働いてれば、何で差がつくかはわかってくるものだろ。まあ、鈴香みたいな都会のクラゲに、地に足のついた人生経営なんて、求めやしないけどね。

…。私は、仕事には満足してるし、挑戦もしてる。それなりに長い目で考えて、それなりに、やってるよ。生活に、仕事を持ち込まないだけ。平日は仕事に集中して気持ちよく働いて、休みの日は仕事を忘れて、気持ちよく休みたいの。たっくんに踏み込まれる筋合い、ない。

ああ、そう。だったら、それなりの計算をしてもいいんだね? 俺だってそんなに高収入じゃないんだから。本音を言えば、鈴香には育児給付金が上限もらえるくらい、いまは無理をしてでも死にかけるほど、働いておいてほしい。結婚して子どもを持つ男女がキャリアにつぎ込める時間を鑑みれば、どうせまた伸びて元どおりになる爪を、せっかくの休みにこせこせ磨くなんて、狂気の沙汰だよ。ほかにもっと、前に進むための、有益なことがあるのに。

楢崎くんの視線を辿ると、鈴香のバッグの横にはいつのまにか、ポーチが形を整えて、添えてあった。夜、鈴香は楢崎くんが眠りに落ちてからも、なんだか、眠れなくて、起き出して手の爪を磨いていた。サイドテーブルに置いていたヤスリやオイルが、そういえばない…ということは、ネイルのセットはきっと、もうポーチの中なのだろう。

より多く生産するために、自分の時間があるんだ。休日は、時間を浪費するためにあるものじゃない。

…。私は、…。

ねえもう新聞、読んでもいいかな。お願いだからぴーぴー騒がないで黙って、俺のことはほっといて。なんか…調子に乗ってない? 鈴香は静かに爪でも磨いておけばいいんだよ。そのつもりで道具、持ってきたんでしょ?

楢崎くんはポーチを取ると、ベッドに投げた。

言うだけ言ってみたけど、鈴香には何の期待もしてないから、安心しなよ。有益無益は鈴香の判断で、俺には俺の感想があるって、それだけのことだ。批判されて挫けるくらいなら、最初からやらなければいい。その程度の決心でそんな無駄なことするのは、それこそ見苦しいよ。じゃ。

楢崎くんと言い合ううちに、鈴香は服を着終わっていた。鈴香は、黙った。楢崎くんは微動だにせず新聞を読んでいて、たまに、新聞をめくる音が、部屋の空気を乱した。

鈴香はポーチのジップに手を掛けて、やめた。何かを始めるには、時間が足りない。鈴香はしばらくポーチの柄を確かめて、やっぱり可愛い、サイズもちょうどいいしポケットも使いやすいし、買ってよかったな、と思ってみたりもしたけれど、手持ち無沙汰になって、ツイッターを開いた。

新着の通知を見てスクロールすると、ボーナスで鈴香と同じブレスレットを買った、と、気恥ずかしそうに告げるツイートと、誇らしげな右手首の画像が出てきた。ヴァンドーム青山の、ダイヤモンドラインの、テニスブレスレット…。

そうだ、ミナガワ…。

そうそう再来週のお泊り♪ 今からすごく待ち遠しくて、、、ほんと頭おかしい笑 こないだ好評だったアップルパイ作ろうと思ってるよ♡ 美味しく、できますように…

テーブルの小物皿に、時計と揃えてまっすぐ並べ置かれた、ブレスレットを、ちらりと見た。苦いような、甘いような、瞬きもせずに見つめていたいような、もう眠ってしまいたいような、不思議な気持ちに、襲われた。

ミナガワには、…もちろん…佐竹さんのことは、話していない。

ブレスレットは自分で、就職した時の初心を忘れないために、うんと背伸びをして買ったと話してあって、…だって現実に、いまも鈴香の、それは大切なお守りで…。

きっと、君を守るよ。

鈴香はいつもブレスレットをしている右手首に軽く、左手を押しあてた。ミナガワにはいつか、話せるかもしれないと思っていたけれど…ううん、初めに、嘘をついて誤魔化してしまったのは、鈴香だ。そのうちに友達と呼ぶには微妙な関係になってしまって…鈴香は、もう一度画像を見た。鈴香がこの前褒めたブラウスの胸元が映っていた。鈴香がこの前、優しく、キスしてあげた、フレンチネイルだった。こうなったらもう、引き返せない…。結婚のこともある。どう返信したものか悩んだけれど、いまリアクションしなければたぶん、今日はタイミングがないだろう。鈴香は午後じゅうツイッターのチェックをするだろうミナガワの、寂しげに伏せた目を想像して、いいねをタップした。

♡♡!
…って、ミナガワの好み? 大丈夫?!
大きい買い物させちゃったみたいで…あんまり、喜んじゃいけないのかもしれないけど。。。いつも付けてるものだから、いつも、繋がってるみたいで。心強いな…

楢崎くんが新聞をたたむ気配を感じた。鈴香は、そそくさと返信ボタンを押し、ツイッターからログアウトして、クロームを落とした。

ね、今日からすごく、暑くなるって。天気予報…。

楢崎くんは、新聞をソファに置いて伸びをしながら、そんなことは昨日から知ってるよ。ハンドタオルは? 持ってきた? 俺は、持ってるよ。と、言った。


〉》》〉⑨ 〉》》〉

今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。