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小説の技巧:アルターエゴをフル活用して裏心理ドラマを演出しよう(理論編)

【合わせて読みたい:これは一話完結の連作短編集『愛を犯す人々』のスピンオフエッセイです。こんにちは世界が本篇を書くときに使うちょっとした小ワザを、ネタバレ覚悟!「愛を犯す人々 番外 啓志郎」をデモに、結構ミもフタもなくお届け。理論編:アルターエゴってご存知ですか、読者の無意識は文の様々な意味を読み込んでます/実装編:偏屈な主人公の偏屈な自分語りをブロックして本心をさらけ出させてみましょう、アルターエゴにストーリーをリードさせましょう、憧れを夢の言語で語らせてみましょう 他】

こんにちは!こんにちは世界です、こんにちは。
今回はですね、小説をお書きになってる方々向けに、ちょっとした小ネタのご紹介をしたいと思います。お役に立てると、嬉しいなぁ(筆力のなさを曝け出すようで悔しいんですが、長くなってしまったので、理論編と実装編に分けました。長い文が苦手なかた、理屈に特に興味のないかたは、こちらのノートはスルーして実装編をお読みください。書き手さんは、こちらの理論編も是非!)。

この小ネタは、以下の症状にお悩みの方の問題解決に役立ちます(と思います):

・主人公に「自分はこんな人間だ」という説明をさせたくない。
・主人公が本音を話さないタイプなので困っている。
・主人公の感情を間接的に表現するには字数がないが、エモーショナルな演出をしたい。

うんうん。あるある。特にうちの人たちは皆さん、ちょっとずつ嘘つきで、捻くれ者ですし…(笑)

これまでも、人物の作り込みかたモチーフの埋め込みかた構図の引きかたについて、私なりの楽しみ方を表現してきたつもりですが、今回ご紹介するのは、こうした、一連の多重的手法の仲間である「アルターエゴの活用」。登場人物の台詞や描写にターゲットの性格や伏線を埋め込んで、ストーリーラインに目が行ってる読者の無意識にこっそり訴えかけることで、文章に厚みを出してみる方法です。

アルターエゴ?

人間って、自分の像を他人に投影して、無意識に自画像を描いているんですね。自分の嫌悪すべき部分を相手の短所に見るあれなんかは、わかりやすい例かと思います。他にも色々…暗いところでは、相手が飽きてるって疑う時、本当のところ自分が飽きてきててそれが不安だとか…明るいところでは、受け入れてくれるように笑いかける女性を見ると自己肯定感が増して自信がわくとか…基本的として人というのはそんな風に、他人の中に見える自分、まるで他人そのもののように思っている、他人が見せる自分の性質、あるいは他人からの照り返しで見える自画像というものに取り巻かれてまして、互いに心理を与え、あるいは与えられながら生活してる。マリオネット効果なんかをご存知のかたもいらっしゃるかと思います、これ、意識してなくても影響し合ってるんですね、恐るべき影響力なんです。

といっても、これは現実世界の生身の人間についての心理学ですので、もちろん文学となると少し話は違ってきます。つまり(忘れがちですが)文学において登場人物というのは、あくまで一表象であって、生身の人間ではない。このことが今回、読み手をこっそりリードしたい書き手にとって、重要なファクターになってくる。この、勝手に自画像を描いている読者の無意識の仕組みを利用することで、読者が感情移入してる主人公の像をこっそりと、しかし生き生きと描かせる…ためのツールとして、人物を使い倒す。 という、今回はこういう手法のご紹介。「あるものは全部使え」法の一環になります。

このあたりで以前にもお話ししました「無意識的表象には人称と時制がない」ことについて念のため簡単に振り返りますと、人間の言語認知には一層、中間レイヤーがあり、そこでは言語やイメージは形式的には完全に解釈可能なんですが、主体や順番が輻輳的に入り組んで、意味の解釈の上では非常に複雑かつ不確定な動的構造を持っている。ある解釈に対しては完全に意味が通る、というようなことが多重的に成立しているように見えるものの、肝心の「ある解釈」が決まらないために、何も決まらない、そんな世界がそこには、広がっています。通常の私たちは、ある解釈に従った世界、物語の世界、擬似現実的な世界について割とリネラルな読みかたをしているのですが、読みながら実は、この解釈不定の領野にどっぷり浸かっていて、しかも、意識していない…ここが大切で、物語世界がゲシュタルト崩壊してしまうので、筋を追うためには無視せざるをえないんですねこれ。「意味はあるが対象がない」、この意味溢れのレイヤーでひっそりと恣意的に登場人物を動かしてあげると、読み手はその動きを意外なほど機敏に察知し、登場人物の心の流れに同調してくれます。…たぶん。

というわけでアルターエゴにしても、文学表象としてのこの性質を使い、例えばなにかテーマがある場合に、登場人物一人一人にそれぞれの話をさせながら、読者には一つのテーマを提示し続けるなどの戦法がとれます(ドストエフスキーなんかがお好きな方には、理解しやすい戦法ではないかと思われます)。このアルターエゴ、書き手に嬉しいのは、ある程度理屈はあっても、用途用法は様々という点。私なんかはテーマというよりは、現実にある複雑さの再現というのに重きを置いてまして、「主人公は…だ」「主人公は…思った」を避けるか、偽の言説を配置し、主人公のアンビバレントな精神の動態に言外に迫ってゆくのが好みです。例は実装編でと思いますが、読み手の認知の仕組みを利用して、様々なステルス機能を利用しながら(例えば人間の脳って実は、否定形が上手く読み込めないとか、人が言っていることと自分が言っていることを区別しにくいとか、注目するよう指示されたもの以外には見ない傾向があるとか)人物描写を深めていく感じですね。こういう場合、筋を追うのとは別に色々な信号を受け取っている読み手の無意識の受容体に、いかに主人公の心理ドラマに即した信号を投げていけるか、というのが、書き手としてはアルターエゴ形成の肝ではないかと思われます。そもそもアルターというのは「他の」という意味。主人公に「お前はこうだ」と分析や定義を行う登場人物や、妙に心を見透かしてくるような登場人物は、理解の助けにはなりますが、ここでいうアルターエゴとはちょっと意味合いが違います。それをすると、主人公がなんだか自己分析の足りない劣った人間みたいに見える傾い、小説が単なるストーリー型心理分析本みたいになる傾いがあって、お説教臭くなる。小うるさい脇役が苦手っていう、私の好みもあるかもしれませんが…。あくまでアルターエゴはアルターエゴとして主人公とは別に、別の経験、別の考えで、別の人生を、主人公の心を間違っても完璧に読んだりはしないで生きていないといけないわけでして、主人公の話をするにも、主人公を表面ではむしろ、理解していてはいけない。このあたり、いかにアルターエゴを人格として独立させるかというのも、腕前としては重要な点になってきますね。…たぶん。

ふーん、ああそう。

ね、詳しく書いてありそうで、芒洋としている気がする。

ので、私がこの前書いた「愛を犯す人々 番外 啓志郎」をデモに話を進めましょうか。やっぱり、実装方法が気になりますよね。

※啓志郎くん初対面の方、すみません。…お話の詳細は、本篇をご参考に。

粗筋としては西田は啓志郎の友達で凪にホの字、凪には啓志郎はセ[なんか違和感あるので伏せます]ドなのですが、一応地元に彼女がいるくせに啓志郎は凪のこと割と本気で好き、真奈美は啓志郎の「東京における」公式の彼女、真奈美と凪は同じクラスです。(粗い!これは粗い…!今回のアトリエ開放に免じてどうか、本篇を覗いていただけますと、光栄です…。)

では、実装編へようこそ:


教科書?は、こちら:



今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。