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春を謳う鯨 ③

◆◇◇◇ ② ◇◇◇◆

あー…電気暗くてよかったわー。いま、すずの顔見たら絶対ヘコむ。や、思ってるだけで実行しないのが、クッション中山のセールスポイントなの。むしろごめん。いいんだよ。気にしないで、ほんと。

鈴香は、心の全面にせわしなく明滅する警告灯の赤色に圧倒された。激しい違和感と、うっすらした嫌悪感と、戦いながらも、奏太の薄い唇に自分の唇を押し当てた。

こういう理由で目を閉じるキスも、あるんだな、と、思った。

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奏太は朝食をコンビニで買って来ていた。鈴香は久しぶりにコンビニのサンドイッチを食べて、そういえば学生の頃はこれが普通に「食事」だった、奏太はいま、そこにいるんだな、と、思った。アパートは駅近で、送ってもらう必要はなかったから、身支度を終えた鈴香は一人で玄関先に出た。体育館シューズ、バドミントンのラケット、先が黒ずんだビニール傘が3本、色の変わった革サンダル、もうなくなって容器だけになった脱臭剤、踵の潰れたコンバース、外側がベースまですり減った通勤靴。上がりがまちの影に、蜘蛛の巣が見えて、鈴香は息が苦しくなった。駄目。ここにいちゃ駄目。鈴香は奏太の指を少しだけ握ってから、目を伏せて、呟いた。

ありがと。

ん。

知らない街の、雨の、午前10時。歩いたことのない風景。折りたたみ傘を畳んで濡れた手のまま、電車に駆け込んだ。20分もかからないはずの自分の駅がひどく、遠かった。




あ、…え、LINE? してた…?

鈴香は思わず携帯をみた、そこでやっと、バッテリーが切れかけていることに気づいて、楢崎くんから画面が見えないようにした。楢崎くんは鈴香のベッドに寝転がって新聞を読んだ姿勢のまま、視線だけを鈴香に投げた。

ううん。さっき来て、そろそろ、連絡しようと思ってた。

今日は…午前中はなんか、予定入れてるって言ってなかったっけ…。

生半可な釣りだからね。雨で中止。

楢崎くんはまた新聞を読み始めた。楢崎くんを隠している紙面を、鈴香は見つめた。昨日の、朝刊だった。もし、楢崎くんが今日の朝刊を持っていなかったら…。

今日はちょっと…一人になって、考えごとしたいって、私、言ったよね…?

ひと晩、一人じゃなかったの?

一人だったけど…。

…寝てないの?

うん…漫喫行ってた…最後うとうとしただけで、ほとんど、寝てない。

…。もう若くないんだから、そういうのはさ…。

たっくん、うちの鍵持ってるもん。漫画が読みたかったのもあるけど、安心して一人になりたかったの。実際、来てたでしょ?

…。

楢崎くんは一瞬、眉根を寄せた。

シャワー、浴びたら。

言われなくても浴びるよ。

鈴香は携帯に充電ケーブルを挿した。大丈夫…大丈夫だ、鈴香にも、プライベートはあって、それを楢崎くんが知る必要はないはずで…それは、ううん、言い訳だ…鈴香は楢崎くんといると息が詰まる、その理由がうまく言えない、本当は、そのことについて、話し合いたいのに…。

シャワーを浴びながら、LINEの通知をオフにしているかどうかを、どうしても思い出せないことに気がついた。どことなく手際も間も悪そうな奏太の、意外に思慮深そうな様子を、信じるしかなかった。楢崎くんが冷蔵庫を開けて、また部屋に戻ったのが、気配でわかる。賞味期限の近いものはいくつかあったと思うけれど、期限切れのものはないはずだ。…それでも、賞味期限がギリギリだったら、気をつけるように言われるだろう。そう、そんな風に、言ってくれるから、鈴香は楢崎くんと付き合いだしてから、食べ物を駄目にしなくなった…けれどこういう日は…。背中をシャワーで流しながら、鈴香は少しのあいだ考えた。鈴香はたまに漫喫に行って、新作をチェックして、気になっていた漫画をまとめ読みする、それは楢崎くんもよく知っている。1冊15分、5時間で20冊。15巻以上出ていて、楢崎くんが興味を持って筋を調べたりしないような、少女漫画…が無難だけれど…ううん、自分から話すのはいけない、それに、いつもどおりなら、たぶん、訊かれない…。

髪にタオルを当てているあいだ、歯を磨いた。奏太の口元が瞬きの隙間にちらちらと、浮かんで、鈴香の胸のなかに、じっとりと暗い影がさした。

すずのせいじゃないよ。すずは、悪くない。ね、…すず。なんだってそれほど、大したことねーのよ。…じゃ。月曜には、元気でね。

鈴香が部屋に戻っても、楢崎くんは全く反応せずに、新聞を読み続けていた。気まずい沈黙…パンツとキャミソールだけで出てきてしまったけど、ブラトップにすればよかった。違う。自分の部屋なのに、どうしてそんな風にあれこれ…姿見の前にスツールを出して、ドライヤーをかけていると、楢崎くんがとうとう、近寄ってきて、まだ? いつも思うんだけど、そんなに時間かけて、なにしてるの? と、遮って、鏡ごしに鈴香を見つめた。

ちゃんと、乾かさないと、水分で弱ったキューティクルが摩擦で剥げちゃうんだよ…?

切ればいいのに。

短いほうがいいの?

ううん、長いほうが好きだけど、そんなに手間どるなら、切ればって思う。ごちゃごちゃ何かしてる女に付き合う不快感に比べたら、鈴香の髪が短いくらい、なんでもないよ。もともと、どうでもいいし。

…。絶対に。切らない。もう帰りなよ。

楢崎くんは難しい顔になった。酷いことを言っているのは自分なのに、まるで酷いことを言われたみたいな顔をしていた。

乾いてるよ。荒れたら適当に補修クリームとか、塗っときなよ。

そんな簡単な、…ことじゃ…。…。…したいの?

鈴香を後ろから抱きしめた楢崎くんは、明らかに、興奮していて、鈴香はその硬さと熱さに、気おされていた。

うん。しよ。したい。

楢崎くんは答えない鈴香の下着に手を入れて、舌打ちをした。

女ってなんで、なにかと、すぐにできないのかな…なんでも待ってばっかりで、ほんと嫌気さす…。

…。そういうとこが、嫌いなんだよ。たっくん、なんにもわかってない。

我慢できないもん。挿れてからなら、いっぱい触ってあげる。好きでしょ、全部攻め。

楢崎くんは手早く自分の服を脱ぐと、鈴香も裸にしてベッドに突き飛ばし、自分は鈴香を見下ろしながら、ゴムの封を切った。

ちょっと、…ね、乱暴なの、嫌いだってば…。

どうかな。鈴香がちっちゃいから、飛ばされちゃうんでしょ。

…だったら、…。

抗弁しようとする鈴香の口は、唇で塞がれた。

舌出して。

…。

…いいよじゃあ、顔、べちょべちょに舐めるよ…?

…。

冗談。ねえ、舌出してほら。…もっと。

楢崎くんは鈴香の舌を根元まで口に含みながら、鈴香の間に割り入って、ゆっくり体を沈め始めた。

だめ、…おっきいんだから、無理、しないで…ほんと…ちょっとは、大事に…。

そう? なんか…スムーズだよ…? 準備、できてた感じだなぁ…。

楢崎くんはそのまま、力づくで入口を抜けると、じんわりと、鈴香に入りきった…自分でも、計算外だった。鈴香はひやりとして思わず、目を伏せてから、そんな自分に焦って、仕草にちょうどいい、もっともらしい言い訳を、必死で考えた。

シャワー浴びなよって、言ったから…仲直り、したいのかなって、なんだか期待…しちゃってた…かも、ね、そういえば生理前だし…。

ふーん、さすが動物。

やっぱり…嫌い。すぐそういうこと、言う…。

嫌味じゃないよ。鈴香がそんなだから、俺の本能が刺激されて困るっていう、意味。ほら…止まんない。鈴香もエロい顔になってきてるし…あーこれ。気持ちよすぎる…。

弱い奥の方を丁寧に擦り上げられるうちに、鈴香はああまた、許してしまった、と、後悔した。本当はこんな感じかた、したくない、したくないのに、本当はもっと味わうような、静かに満たされるようなセックスがしたいのに、…ううん、でもこんな風に鈴香をいっぱいに満たして、追い詰めることができるのは…。奏太とのセックスなんて、楢崎くんとのこれに比べたら、しないのと大して変わりもしない、まるで…借りていた面白くない本を、ばれないように適当に時間を置いて返すような、セックス。鈴香は本当に「天井を見」ていた二回めを、小学校の夏休みの、つまらない一日の遠さで、思い出した。

もし…奏太が、すごく…よかったら? ううんそんなことがないから、奏太は、奏太なんだ…。幻滅と、悔しさと、申し訳なさと、後ろめたさを、烈しい快感が貫いて鈍らせていき、思考が濁るのを追いかけるように、視界が涙で烟った。心はこんなに、目を背けようとしているのに、体はこんなに、溢れさせて、涙が滲み出るほど、悦んで…鈴香は、楢崎くんを見あげた。

ああ。おっぱい、自分で寄せて。

…?

楢崎くんは、鈴香の手を外から掴んで、鈴香の胸を寄せさせてから、片手で鈴香の両方の先端を擦りながら、もう一方の指を鈴香の下生えに埋めて、鈴香の敏感な場所を探った。そうするあいだにも、鈴香の中を、大きく、行ったり来たりした。

あー、忙しい忙しい。

っ…そ、いう、ムードのないこと…。

楢崎くんはにやりとして、口答えはいいから、堪能しなよ。と、囁いた。

…。

…気持ちよくなってきた…?

いつもなら、飽きてすぐ、やめてしまうはずなのに、楢崎くんはなんとなく気遣いを見せたいのか、しばらく鈴香を攻め続けていた…ずっと、迫り上がる絶頂感に耐えていた鈴香が、小さく頷くと、楢崎くんは鈴香の左脚を跨いで右脚を肩まで持ち上げて抱え、叩きつけるように、腰を使った。鈴香は声が上がりそうになるのをこらえて、口を掌で塞いだけれど、それを見た楢崎くんはいっそう激しくして、追い詰められた鈴香が声を漏らすと、満足げに微笑んだ。楢崎くんは、鈴香の手首を掴み、唇を奪って、そのまま鈴香を抱きしめて、体を震わせた。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。