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大人の領分 番外 彼と彼女

金曜の夜に「友達と会食」の予定を入れた、と彼女から連絡が入る。仕事の合間に店を検索する。前回は和食だったから今度はフレンチかイタリアンにしよう。食事はせっかく選んでも、前だと気が急いて味がしない。今回は後にする。コースがあった方が安心だな。そのうち、アラカルトでも失敗しないくらいにはなりたいけど、今のところ宿題。味はさっぱりめが好み。野菜料理に惹かれがちだったな。器にこだわった店。終電まで移動の時間はないから、閉店が遅いだけじゃなくて、食後にコーヒーがゆっくり飲めるのはマスト。裏路地を通る経路なら、きっと手を繋いでも嫌がられない。窓から遠い席。季節を感じさせるメニュー。金額に惑わされるな。あまり複雑でも、あまり多くても、「ちょうどよ」くない。彼女の誕生日が近い。毎回の逢瀬の特別感も大事にしつつ、ハレの日とのコントラストも大切にしたい。付き合ってからぴったり9か月だけれど、多分、気にしているのは自分だけだ。仕事に家事に育児、両方の実家とのやりとりに交友関係、仕事に繋がる地道な勉強、それであの、手入れの行き届いた身体。彼女は日付に追われていて、記念日には疎いみたいだ。そもそも、9か月ってなんの記念だ。毎月19日になると浮かれた気分になって、デートとセックスの回数を数えあげているのは、言わずにおこう。18回のデート、47回のセックス。4回した日が3日ある。学生かよ。どこで計算をやめたものか。やっぱり言わないでおこう。コーヒーの時、お土産に渡す予定のちょっとした焼き菓子は、さよならのあともしばらくは思い出してほしい、という気持ちを伝えるため。彼女が「会社でもらった」と言えるようなものがいい。マイナーながら親密感のある、高すぎない感じのものを選ぼう。一緒に食べてもらえるように、子ども受けしそうなのもいいな。帰りは乗り換え駅までタクシーで送って、一本で帰れるように。たぶんもう話すことなんて何もないだろう。うっとり、黙って手を繋いで帰れるのがすごくいい。過ぎゆく街灯に明滅する彼女の、ちょっと疲れたような、放心したような横顔も好きだ。

爪は二日前に切り揃え、当日は角が立っていないか入念に調べる。ささくれ、傷の類もなし。よし。背中にニキビがないことを確認する。これには先週から気をつけていた。OK。陰茎の根元のほうにはぐれ毛が2本あるのを毛抜きで抜く。ついでに顎のえら周りに5ミリ以上の剃り残しがあるのを見つけてこれも抜く。1本抜き損ねて、涙目になりながらもう一度トライ。頰の肌触りを確かめる。血色が悪いと心配されるかもしれない。鉄分強化の牛乳を飲む。あとは亜鉛か。亜鉛はやりすぎか。しかし…17時に会って食事の予約は21時。できれば3回したい。よく食べてよく寝るに越したことはないな。こんな動機が自分を、人生で最も健康にしているのは、いささか滑稽にみえる。と同時に、彼女に会わなければ、どんよりとした肌、うんざりな目つきで、つまらない娯楽のための徹夜ばかり、半ば投げやりに、半ば闇雲に仕事して、適当なものを食べて毎日過ごしていたに違いないと思うと、ぞっとする。会うたびに綺麗になる彼女のことを考える。あまり思い上がっても、とは、思うけれど…。

ブログをチェック。今週は悲しい出来事はない。前向きな表現があると安心するし、励まされる。ついでに恋愛に関わる記事をもう一度読む。実は暗記するほど読んでいる。というか記念にバックアップを取っているのは…言っていいものか? いや、やめておこう。

「溺れるみたいに愛おしさしかなくなる夜。こんな幸福」。

彼女が本気で書いているなら…自分はなんという素晴らしい恋愛をしているのだろうと、居ても立っても居られない心地になる。もし本気で書いていないなら…いや、そんな手の込んだ嘘を仕組んでなんになる。枕に半分、上気した顔を埋めて微笑みかける彼女の、満ち足りたしずかな瞳の輝きを思い出して、自分に自信を持て、と、ひとりごちる。

何を着て行こう?あまり気合いを入れると前のめりになる。新調アイテムは1つまでだ。ジャケットがいいかな。

チャージよし。現金よし。カードは整理、レシートなし。よし。

待ち合わせには必ず10分前に着くが、あまり急かしてもよくない。わかりやすさを心がけて、きっかり3分前に、少し歩いた目立たない場所で待っていることを伝える。

この時間が好きだ。

改札方面の角から彼女が、不安げに頭をめぐらしながら現れる。可愛い。前髪を切って分け目を反対にしている。切りすぎたと言っていたな。キョロキョロ探しながらも、気にして手で撫で付けている。全く問題ない。が、恥ずかしげにするのがたまらないから何も言わないことにする。目が合うまで待って、手を振る。笑顔。記憶のほうは録画スタートだ。

疲れてないか? なにか心配ごとは? 仕事はうまくいっているのか、体調は? 子どもの様子は? 多忙症の旦那様のご様子、彼女の家事育児の負担は? 来月の予定はどうか? 浮ついた調子で言葉をやりとりしながら、さりげなく確認するポイントは大量にある。

今日のホテルは遠い?

彼女が不意に尋ねる。

少し駅から離れてるかも。ダメだったら、だんだんこっちに戻って来ればいっかな。

清楚で真面目な日常会話の裏側で、彼女もセックスのことしか考えていないのかもしれない。俄然、興奮してくる。

部屋に入るといきなりディープキスされる。今日は積極的な日、という合図。ルームキー、時計、携帯、ブレスレット、グラス、間食用のプリッツ、ミネラルウォーターはテーブルに綺麗に並べて、枕元にキャップを開けてからペットボトルを設置。合間、合間にキスの嵐。時々、それなりに深いやつ。世間話は済んでいる。歩く時間が長かったのは、正解だった。

全部脱いじゃおっか。

頷く彼女のブラジャーのホックを外すと、ぷるんと両乳房が出てくる。久しぶりだね君たち。ブラジャーと脇の間に鼻を潜らせる。洗剤と石鹸と汗の混じった甘い甘い匂いがする。なんで毎回こんな、イチゴミルクみたいないい匂いなんだろう。相性かな、なんて考えるのは、ご都合主義だろうか。今日はヘアオイルの匂いも混じっている。ココナッツの甘さも、追加。

裸の肌にまとわりつく、シーツと彼女の身体。没頭して楽しめるようになるまで、彼女にはいつも、多少の時間が要る。仕方ない。焦らない。彼女の身体より先に心を開くこと。交互に囁く「好き」。前戯中の彼女の「好き」はまだ、躊躇いがちで、ちょっとさみしい。

嘘みたいに気持ちいい彼女の中。これまでにここに侵入した男全員を呪うとともに、ここまでじっくり彼女を味わった男もいなければ、彼女に味わわれた男もいなかっただろうと優越感に浸る。見よ、彼女のこの表情…!

いかん…何か違うことを考えよう。大リーガー? 戦争? 地球が100人の村だったら? 最終兵器はナチュラルローソンの山辻さんの髪型か。彼女には不審がられないように、上半身への愛撫は欠かさない。

とろっとろ。あったかい…。

気が遠くなるほどゆっくり抽挿するのが彼女のお好みだ。いいでしょう、付き合いましょう。ずっとしてられるから、これはこれで好きだよ。時々意地悪をして激しいのを入れ込んでみる。笑いを取るようなトークも忘れずに。楽しげに笑う彼女と、笑うとねじれるようにうねる彼女の中と、そして、彼女の笑い声よりもさらに明るく広がる、幸せな気分。

長い時間をかけた1回目がつつがなく終わる。手早くコンドームを処理する。それにしてもすごい量だな。気持ちって大事なんだ、と感心する。天井を見上げたまま脱力して、安らいでいる彼女の姿を瞼に焼き付けながら、隣に滑り込むと、彼女ははにかむように笑って、頰にキスをしてくる。高揚しきった彼女の気分がおさまるのを待ってから、さっとお湯を溜めに行く。ここのはでかいな。温度の調節はまあ、一か八か。熱いよりぬるいほうが、後からスマートに調節できる気がする。

浴室ではもう一歩、踏み込んだセックスの話をしながら、嫉妬の苦しみと両想いの喜びの複雑な波に身をまかせる。今日は…ぬるぬる系はやめとこう。こないだしたから、芸がないと思われても困る。キスのついで、優しく乗り上げてくる彼女の動きに合わせて、皮膚の表面を滑る水の圧力。彼女を膝の上に乗せて乳首をねちこく責める。1回目ですっかり出来上がっている彼女の身体は素直で、心はといえばすっかり、こちらへ委ねられている。そう。安心していいんだ。なんでもしてあげる。いままでの人生で、してほしいって言いたかったのに、言えなかったこと、全部、言ってほしい。

のぼせてきて浴室から出る。洗面台の鏡に並んだ、裸の彼女と自分。思わず股間をタオルで隠す。顔を見合わせて、照れて笑い合う。2回目は彼女のターン。これは正直に嬉しい。大好きな彼女が、自分を大好きだと思って、それでこんなことをしてくれてるなんて、考えてる自分の頭がおかしいんじゃないかと思うのが冷静なところだけど、どうやら頭がおかしいんじゃなくて、現実が信じられないほどバラ色だったようだ。これこそ現実。もはや信じるしかないか。はじめは半信半疑だった。でも、そうか、両想いって、こういうことなんだ、と、思う。

待って。待って、ごめんなさい。気持ちよすぎて、動けない…。

いいよ。そのまま。痙攣するみたいに震えている彼女の熱い身体。下から見上げる彼女の身体の凹凸と曲線は、とても、エロティックだ。入れてるだけでいっちゃうなんてすごい。地味だからって彼女は恥ずかしがる。構わない。自分自身で、いてほしい。それに、その顔、その紅潮した幸せそうな顔の、どの辺が地味だろう? 今まで他の男に言われてきたことは全部、忘れていいんだ。とらわれる必要なんかない。

不思議だ。やってもやっても、気持ちいいのが重なるだけで、深まりこそすれ、全然遠のかない。しかも、足りないって全然、思わない。沈黙まで、満たされきっていて、なんにも、足りないものなんてないのだ。きっとしばらくしたらまた足りなくなってくる、でも、今日はフル充電。世界はきっと、選択肢と自由に満ちている。だって、彼女がいる。自分は彼女の恋人で、彼女は自分の恋人なのだ。自分の人生は想像以上にバラ色だった。いま使わずにいつ使う、そうなんだよ、ああ、「生きててよかった」。

帰りはほぼ完全に予定通り。予定外だったのは、彼女がご機嫌になって、食後にグラッパを頼んだことくらい。グラッパにまつわる彼女の若い頃の話。そう、こうやって、彼女の思い出が、自分の思い出になっていく。

土日はずっと筋肉痛だ。最近は軽くなった。体幹ができてきたのかもしれない。密かに「セックス仕様」か。大昔はセックス仕様だったわけだ。なるほど。痛みが引いていくのが、まるで、自分の身体が彼女を忘れてゆくのを目のあたりにするようで、どうしようもなく、さみしい。彼女もそんな話をしていたな。土日はゆっくり休めているだろうか? 太ももや腰に来てるから、子どもと公園で遊んであげるのが大変だと、苦笑していた。負担になっていない? いや、負担に違いない。それを償えるだけの歓びを彼女に与えられていることを、願うしかない。

月曜朝、通勤時間に合わせてメールを送る。送った途端に、送ったのと同じような内容のメールが届いて、二人が同時に送信したことに気づく。

「今週も一緒に頑張ろう」。

朝から快晴。気分だけは、週のスタートは快調だ。仕事には山も谷もあるけれど、上を向いて、なにはともあれ、登っていけそうな心地がする。たとえ踊り場にさしかかっても、彼女が上を指差してくれていれば、どちらへ向かうか忘れずに済むだろう。

いつも。いつまでも。

このまま、ずっと。彼女といたい。

仕事はぼちぼち忙しい。ひと頃前なら死ぬほど忙しいと言って拗ねていたかもしれない量だ。強くなった。夕方、遅れすぎた昼食に出た先で、ノンアルコールビールを注文してみる。

10年経っても、20年経っても。お互いの喜びと幸せを願いながら。時を重ねて、一緒に歩んでいきたい。

毎日じゃなくていいんだ。彼女には、彼女が自分で集めて築いてきた毎日の幸せ、毎日の笑顔がある。自分にも自分なりのそれがあるように。彼女の最愛の子どもたちは、彼女を幸せにすると決意した男にとっても、最愛の子どもたちで…彼女を好きな自分だからわかる。彼女の幸せが、自分の幸せだ。やり場のない胸の痛みに、常に向き合うのが正解というわけでもない。時には、目を伏せて。

ずっとね、恋人が、欲しかったの。それだけが、なかった。すごく欲しかったのに、なかったの…。

ポストが空いていたのは偶然じゃない。彼女は自分を待ってくれていたんだと思う。両想いって、だって、そんな風に訪れるんでしょう? 何十年も、もしかしたら何百年も前から、ロマンチックないくつもの歌が言っている。「なにもかも、このために」。「あなたを待っていた」。

やっぱり祝いたい。9か月記念は夜、こちとらのお嫁様が寝てから、ひとり酒でもして祝おう。今はとりあえずこれで。

彼女という美酒に酔ったことのある、すべての男たちに、乾杯。残念ながら一番美味しいところはまるごと自分がいただいた。彼女はいま、幸せだ。

自分に乾杯。大人になった。大人になってから会えたから、彼女の大切さがわかる。この気持ちの、かけがえのなさも。

彼女を幸せにしているすべてに。彼女の幸せを守るものすべてに、乾杯。

ついでだ。

いまこの瞬間、幸せな人びと全員に。乾杯。

今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。