見出し画像

春を謳う鯨 ⑥

◆◇◇◇ ⑤ ◇◇◇◆

楢崎くんは飲み終わった缶をかたり、とサイドテーブルに置いて、夜景を見つめたまま、膝のバスローブを抑えていた鈴香の右手に、そっと、自分の左手を重ねた。

鈴香に残る選択肢が俺以外にはないように、俺は精一杯のことをすることに決めた。明日起きたら、戸籍謄本を取り寄せる書類を書いて、指輪を買いに行こう。

鈴香はチューハイの缶を傾けた。もう一滴も残っていなかったけれど、鈴香は残りを飲み干すふりをしてから、自分も缶を、サイドテーブルに置いた。

海越しの夜景は、鈴香と楢崎くんのいるこの部屋で何が起こっているのかなんて、知るよしもない風情で、相変わらず夜に浮かび、煌めいていた。

◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆

-----------------------------------

鈴香は、高校時代に友達が、クルーズデートで夕陽をバックに告白されて、その場でOKした時のことを、耳まで赤くなりながら「ズルいよね、断れないよ」と言っていた、幸せそうな表情を、思い出していた。相手の男の子は、鈴香には到底付き合う気が起きるとも思えない、ぼんやりした顔立ちの、声の小さな、理系クラスの男の子で、その子が鈴香のことを「大村も悪くないけど、結構ほくろあるじゃん、あれ全部いらなくねえ? ちょっとケツがあるのもさ、現実感ってことで仕方ねえけど惜しいよなぁ。ま、顔は好みだから3点足して、83かな」と、男子同士で話しているのを、鈴香は忘れ物を取りに行って、聞いたことがあった。「おーいー、高いじゃん、いけよ」「胸な、胸。巨乳が必要条件だからないわー。胸入れたら付き合うかも」「いやいや、天然に限るだろー」「つか、あれで胸あったら、リアルAVだろ」「あー俺それ、ひと晩じゅうハメ倒すやつだわー」「お、いいね。意外に真面目じゃん。やり捨てたら、本気で好きになったとか言って泣きそうじゃね?」。みんな、鈴香が話しかけると、焦ってまともに話せないような子たちだった。

人間には、分がある。楢崎くんと鈴香は、釣り合っていると、鈴香は思っているだろうか?  楢崎くんは…?  鈴香は、右手を裏返して、楢崎くんの左手を握りしめた。

もっと…泣きたくなるほど、嬉しいと思ってたけど、不安で、心細くて、寂しいんだね…たっくんは、うまくやっていけると…思うの…?

楢崎くんは、無言で、鈴香の肩に手を回した。

鈴香次第だよ。うまくやっていきたいなら、そうだな、これ以上、幻滅させないでほしい。

…。

楢崎くんは、鈴香が離しかけた手を握り返して引いて、鈴香を抱きしめた。

鈴香。…こんなときくらい、素直になって。

うん…。

なに…?

ううん、なんでもない。私、せっかくだから、旗艦店で指輪、選びたいな…。

楢崎くんは鈴香を見た。鈴香が楢崎くんを見つめ返して、ねえ、私にもすごく、決心がいることなんだよ、大切に、してね、と、呟くと、楢崎くんはしかめ面になって、これ以上、どうやって大切にしろって言うの。わがままも大概にしなよ、と、ため息をつくように、苦笑した。


〉》》〉⑦  〉》》〉

今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。