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春を謳う鯨 ④

◆◇◇◇ ③ ◇◇◇◆

(…)  迫り上がる絶頂感に耐えていた鈴香が、小さく頷くと、楢崎くんは鈴香の左脚を跨いで右脚を肩まで持ち上げて抱え、叩きつけるように、腰を使った。鈴香は声が上がりそうになるのをこらえて、口を掌で塞いだけれど、それを見た楢崎くんはいっそう激しくして、追い詰められた鈴香が声を漏らすと、満足げに微笑んだ。楢崎くんは、鈴香の手首を掴み、唇を奪って、そのまま鈴香を抱きしめて、体を震わせた。

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背中に恐ろしく冷たいものを感じて、悲鳴をあげて飛び起きた。楢崎くんが楽しげな表情で保冷剤を手にしていた。

いつまで寝てるの。準備できてるから、早く起きて。

…。冷たかった…。

俺は楽しかった。俺が働いてるのに、寝汚くいつまでも寝てるからだよ、ざまあみろだ。ひどい顔だったよ、ああ、いいもの見た。

働いて…?

香ばしい匂いに気づいて、鈴香はローテーブルを見た。パスタ、豆腐とトマトの薄切り、サラダ、スープ、バゲット、オリーブオイル、ブリュット。たまに、楢崎くんが来た時のために、食器はたしかにペアで用意しているけれど、鈴香はこんな風に綺麗に並べたことはない…エプロン姿の楢崎くんが目に入って、ごく単純な嬉しさと同時に、刺すような焦りに襲われた。そうだった…楢崎くんはいつも、鈴香の足の向かう先にいて、鈴香が来るのを、苛立ちを露わにした表情で、けれどずっと、引き返さずに、待っている。

逃げられない。

漫喫に行ったなんてウソだろうって、詰問されたなら、鈴香は楢崎くんに簡単に事実を告げて、別れることもできるだろう。楢崎くんが確信していなければ、疑うのは好きじゃない証拠だって、少し距離を取ることもできる。

楢崎くんはやっぱり、知っている。

それで、鈴香が帰ってからひたすら、知っているけど鈴香が言わないなら訊かない、と、伝えているのだ。

ごちそう、だね…。

早く。冷めた飯は食いたくない。

買い物、行ったの?

あるもので作るのが基本でしょう。アンチョビあったから、どうにかなった。思ったけど、簡単な料理ばっかりしてるから、腕が上がんないんじゃないの? そこからなのはわかるけどさ、いつかはステップアップしないと。

…。

楢崎くんはネットラジオを付けて、何局か回してから、邦楽の番組に決めて音量を調節して、ブリュットの栓を抜いて注ぎ入れ、向こう側にあぐらをかいて座った。時計をみると、14時を少し、回っていた。

酒だけ、そこの酒屋に買いに行った。あすこのおやじ、結構絡んでくるんだね。俺、洋酒買いに行ったのに、新物の日本酒ばっかり勧められて…まあいいや、なにぼんやりしてるの? 苛々させないで。座って。

まだ眠い目をこする様子を見せながら、鈴香はのろのろと楢崎くんの向かいに座って、いただきます、と言った。鈴香のワイングラスの横にだけ、エヴィアンと、氷の入ったタンブラーが置いてあった。ラジオでは、ゲストアーティストが夏旅行の予定の話をしていた。さっきは雨空だったのに、そういえば、晴れている。ラジオにぼんやり耳を傾けて、パスタを食べていて、温泉、最近行ってないな…と、鈴香が呟こうとしたとき、不意に楢崎くんが、今日明日、予定入れてないよね、と確認してきた。

うん。土日に何かあったら、私はちゃんと言うでしょ。いつも急にいなくなるの、たっくんじゃない。早めに言ってくれれば、私だって友達と会う都合つけられるのに…。

恨みごとは聞きたくない。

…。

…横浜の、インターコンチネンタル行こう。ナイトプラン取れたから、横浜で中華食べてからレイトチェックインして、レイトチェックアウトして、横浜でフレンチ食べて帰る。

え、横浜…?

横浜。渋谷から一本で行けるから、そんなに遠くないはず。

あ、うん…突然、だね…。

俺には突然でもないけどね。

私には、突然だよ…?

でも、問題はないでしょ。

…。こういうのって、本当なら、嬉しいことでしょう色々、計画してもらったりして…。でも…釈然としないというか…素直になれないな。たまには、素直に、喜びたい…。

楢崎くんはいつのまにか食べ終わっていて、ブリュットをもう一度、注ぎ入れてあおってから、ため息をつくと、根本的な問題として、鈴香が素直じゃないだろ、と、呟いた。

素直に喜ぶ日なんて、たぶん来ないよ。俺だって見てみたいくらい。何してあげたって、大抵、ひねくれた文句ボソボソ言って俯いて、陰で変な顔してぐふぐふ笑うのが関の山だもん。

…。どんな生き物。…スープ、おかわり、ある?

あるよ。それには振ってあったけど、お代わりもパプリカ入れる? パセリ?

ううん…あ、パプリカだけ、ちょっと、ちょうだい。

食事の片付けはしとくから、掃除洗濯しときなよ、と楢崎くんは、鍋を温めながら、洗濯カゴを指差した。

ああ、あと前に、思い立って三日坊主になってたあれ、運動の用意、まだあるよね? ジム付きのエグゼクティブフロアみたいなのが奇跡的に空いてたから、取ってみたんだ。服や靴は、なければ借りれるとは思うけどね。

…。…あるよ。あるんだよ、でもね、たっくん…。

そろそろ気分転換、したいなって、思ってたでしょ。鈴香のことだからどうせ、温泉にでも行ってだらしなく寝て暮らしたいと思ってたんだろうけど、休むより、体動かしたほうがいいよ。きっと、浴室も広いし。勢いで買って使ってないお手入れ用品とかあるでしょ、腐りかけてるようなやつ。この際、持っていけば。

…。

楢崎くんはスープのお代わりを出したあと、鈴香の肩をぐっと掴んで、アクティブレストだよ、飯も決めてあるし、大船に乗ったつもりでね、と、自分はもう座らずに、済んだ皿を下げ始めた。

鈴香はなにかを、諦めた。ひとり、夏の旅行に盛り上がるラジオを聴きながら、スープをすすった。また、ぼんやり窓の外を眺めて、…また、あんなに雨だったのに、こんなに晴れたんだ、と思って、そして、濡れてもいい靴じゃなくても、いいかな、と、考えていたけれど、天気を調べに携帯を手にとったりするほど、無神経でもなかった。

雨が止むと、柔らかい日当たりだけが自慢の、鈴香の小さな1DKはまるで、鳥籠のように感じられた。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。