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46才のババアに何が出来る?自立への挑戦!!〜私の母という人~ ㉖話

皆さまごきげんよう。
私は先日、私が沖縄で是非やりたい事という記事を書きました。
末っ子の弟の死を経験して来る想いだったので、私の母という人を悪く印象付けてしまうと本末転倒だと思い、その記事は今は一旦保留にしました。

死んだ弟の話をする前に、私の母という人を書いてみようと思います。

私の母という人は学生の頃は勉強がよく出来、走らせても一番だとか…
今の母からすると想像できない 笑

学生時代は那覇にあるそろばん教室に通い。
おばーが那覇は遠いからと止めさせたかったそうで。
バス代を母に与えないとすると、隣近所の小母さんにバス代を借りてまで通っていたそうでした。
好きなものにはとことんのめり込み集中力を発揮する人。
そしてそろばん1級を取得します。
そのお教室の当時の最高級が一級だったそうでした。
その上のを教えてもらえるお教室だったら、うちの母だったら取っていたと思います。
そして、当時は沖縄では勉強が出来た人が通った那覇商業高校出身です。
母は商業高校でタイプ(今でいうワープロ)の打ち込みを習いました。
母が自身のタイプが欲しいと両親にねだると
(誰が買えるか高級品!)
あっさり買ってもらえたそうでした。

だから母の両親(おじーおばー)も母は勉強だけしていたら良いと家庭的な事は何も教えられず。
笑えるほど常識的な事が本当に欠如している人間。

いや、おばーが全ての家事を私が、出来る人が、するのが当然とばかりな人だったので。
おばーもド天然な人でした。
(おばーの面白い話もあります。)
私自身もおばーに料理を教えてもらう事は無かったな。
私が不器用に台所に立っていると、それを見たおばーが。
(おばーがする方が早いと思ったのかな)
「どけ」って言われ私が持っているものを取り上げ。
サッサとおばーが代わってあげるのでした。

だから私も結婚するまでは料理が出来ずに育ちました。
でも私は食べた食器は洗う、洗濯物は畳む事は小学生からはしていました。

そして、母が本当に何もしなかった人だったから。
私たち兄弟は今も洗濯は各自で。
アイロンがけも各自。
ご飯も各自。
(特に長男の兄は母が作るご飯は絶対食べない。だから毎日外食。)

母方の方は根っこが本当にうちなーんちゅ(沖縄の人)何でも大雑把。
なんくるないさ(どうにかなるさ)って精神。
楽観的で明るい。

対照的に父方の家族は母方より常識的で堅いところがありました。
でもどちらの家族も根は明るく、どちらも(母方、父方)よく人が集まる家庭でした。

私自身も世間知らずなところがあります。
お金、特に税金の事に関しては知らないことばかり。
私は母が教えて来なかった分、恥をかいて学ぶ事が多かったです。

でも私は幼い頃は父方の方で育った事もあり。
父方のおば達を見ていたので。
私の母よりはまだ自分はきちんとしていると思っています。

・父方の長女の伯母は既に他界しましたが
軍雇用員として働き、お琴(琉球琴)の先生もしていました。
威厳があり厳しい人でした。
私の母がのほほんとしているから、長女の伯母には私も私の兄弟もよく叱られました。躾でした。

・次女の叔母(他界しています。)は文化服装学院卒で、洋裁の腕が素晴らしかった。
またお料理も完璧。
女性らしいという言葉がぴったりな人でした。
サンフランシスコで挫折したけれど、私がファッションの大学へ進んだ事は次女の叔母の姿が大分影響しています。
次女の叔母の仕立てる服が幼いながらにも美しいと思いました。

・三女の叔母は頭が物凄くキレてる人。
容姿端麗、兄弟の中でも一番のムードメーカー。
読書が好きで。
今も詩吟を嗜んでいる。
何でも知っている。
常に向上心を持っていて、
叔母の職業に関係ないのに英検準一級を持っていたり。

おば達3人はお仏壇の両脇に千羽鶴を飾るのが好きで、
小さい頃は私も従姉も鶴を折ったり、刺繍を習ったり、大正琴を触ったり。お手玉をしたり。
日本の遊び、文化がそこにはあって。
私は北谷に引っ越すまではその文化が普通だと思い育ちました。

私の父は8人兄弟でした。
開拓移民でどこの島だろう。。。
アメリカの領土の一つと聞いたことがありますが。
三男のサンフランの叔父まで南洋で生まれたと言っていました。
その島には日本兵もいらっしゃったそうで。
父のお父さん(私には祖父)は病気で徴兵を免除になっていたそうでしたが社交的な人だったそうでした。
だからその島で日本兵さんたちと頻繁に交流していたそうでした。
父方の祖父は私が物心つく前に亡くなったので。
私は父方の祖父の記憶が全くありません。

おば達の話では、祖父が亡くなった時。
交流していた日本兵さんが遥々沖縄までお葬式に来てくださったそうでした。
そして嘉手納町の一般の民家にお葬式で3000人来た記録は未だに破られていないと聞いた事があります。

「命(ぬち)どぅ宝(いのちこそ宝)」も私たちご先祖さまの言葉よ。って。
「世が世ならあなた達はお姫様よ」って。
叔母は冗談で言っていたけれど。
私はお姫様という言葉に憧がれを持ちました。
今でもその言葉は響いています。
レインボーガールでもTPOを学びましたが。
行事ごとはきちんとした装いで参加する心は父方の家系が大きく私に影響しています。

私が辛い経験をしても腐らず前を向ける姿勢は
私の周りの多くの大人たち。
父方も母方どちらも。
そして学校。
おじーおばーの日々の茶飲み友だちのご近所さん。
おじーの選挙で集まる大人たちも。
周りの大人がきちんと話を聞かせてくれたり。
叱ってもらったり。
偶にはみっともない大人の姿を見たり。
大勢の大人たちと従兄弟と私の兄弟の中で育ってきたことが良かったと思いました。

だから、東京は核家族で。
私の息子の周りの大人たちが限られていて。
大人しい息子の友だち作りも課題だったし。
私が育って来た環境と違う社会で子育てするという事は私にとっては本当に難しかったです。

母は嘉手納に住んでいる頃、父の仕事を手伝いながら慣れない家事育児に追われ常に疲れていたと思います。
(幼い私には母が疲れている事が分からなかった。)

父の事業がうまくいかなくなると父は母に暴力を振るっていたと思います。
夜中。
皆が寝静まった頃。
誰かが追いかけて、誰かが逃げる。
そんな足音が聞こえるのを私はよく耳にしました。

でも、私の母の凄いところは
結婚は一度きり。と言って他所を見なかったこと。
そして、父が暴力を振るっていたことを私たちには一切話さないのです。
今も母から父の悪口を聞いたことがありません。
だから、父と母が別居しても私たちは普通に父の実家へ行くことが出来ました。

母の非常識ぶりが数々あるので話していきましょう。

嘉手納にいる頃、
私は母に千円を渡され、弟の保育園のお迎えをタクシーに乗って行くことが何回かありました。

ある日私は「髪切りたい」って母に言うと。
また私に千円を持たせ
「私に似合う髪型にしてください。」って言うのよ。って一人で行かせられたり。

父の事業が立ち行かなくなってきてからは母は実家へよく帰りました。
置手紙には
「ゆかりへ。
これですきなものかってたべてね。」って、また千円。
帰宅も遅い。
私一人で延々と待つことが何回もありました。

北谷に引っ越してからは子育ては両親、叔父夫婦に丸投げ。
自分の好きなことだけしていました。

母は読書が大好きで兄弟皆で書店に行くと、ここは家か?という恰好(地べたに女座り)で本を読み夢中になり時間を忘れるので。
私たち兄弟はそんな母が恰好悪くて。
待ちくたびれるし。
だから、
「え!(オイ)お母さん呼びに行け!」って。兄弟誰かが言ったけど。
あんな人がうちの母だと思われるのは恥ずかしい。勘弁とばかり。
誰も母を呼べず。
(今書いていても笑える)

おばーが亡くなってからは本当に悲惨でした。
ご飯が無い。
毎日、お弁当買ったり。
外食外食外食外食外食…

これもあり得なくて、笑えるのですが。
母は仕事が終わると残業はモスバーガーでしていたので。
携帯電話の無い時代。
直接モスバーガーへ私たちは電話をかける。
「お母さん何時に帰ってくる?まだ?」って。
母は
「もうすぐ帰る。何か買ってくる?」
(てか、もう22時!)
だから私たち兄弟はファーストフード店のメニューはほとんど網羅しています。

母は学生時代勉強勉強で遊んでこなかったので、おばーが亡くなってからは箍が外れたように遊び出しました。
キッカケは高校の同窓会でした。
仲が良かった友だちとの再会。
友だちが友だちを呼び交友範囲が広がりました。
月一のお食事会。
年一の旅行。
ショッピング。
サークル。

サークルは本当に悪かった。
話し方教室
カラオケ
は特に好んで通っていたけれど。
何コマも取るから、一つも続かないし。
お金だけ捨ててました。

まるで独身気分で遊んでいました。
母の周りは結婚しているけど、子どものいない人たちが多かったから。
うちの母とは元々かけられるお金の違いがあったと思います。

母はおばーにお金を管理されて育って来た人だったから。
家計をやりくるするっていう計算が出来ない。
家事も出来ないから外食だったし。
(お味噌汁は出汁から取ってきちんと作る。皆ごはんよ~って呼ばれて行くと。おかずは!?って突っ込まれる母のご飯)
だから借金が増えていきました。
(最後はおばあから譲り受けた財産を手放し清算しました)

父の借金でも嫌な思いしたのに。

弟も病んでいくからあの当時は本当に苦しかったです。

弟が具合悪くなっていった時から母は友だちとの付き合いも段々と止めていきました。

でも、最近私が帰ってきたことで。
私のお願いをきっかけに友だちに電話をかけ。
会い始めたので良かったと見ています。

母は普段お化粧もしないから。
酷い恰好ばっかりしています。

ある日私が母を車に乗せ運転していたら
車内ミラー!
「お母さん!あんた!幽霊みたい!!」
めちゃウケル!!心霊写真みたい!!
って私は携帯で車内ミラーに映る母を撮って母に拡大して見せました。

それを見て、母も大爆笑していて。

またある日は

私が朝起きて台所に行くと。
なんと!!
上半身裸の母が洗い物をしていました!
「お母さん!!何で裸?上着て!!」って私が言うと。

「上着たら、バシャバシャ水が撥ねて、また着替えないといけないでしょう。」

って。
もおぉおおおぉーーーー
本当勘弁して欲しいです。

で、別の日。
私が台所に立っていたら。
私の恰好を見た母が

ケタケタ笑い出し
「ゆかり~あんたの恰好お嬢さんみたいね」って。

(私は出かけるからと
年甲斐もなく白のフリフリのブラウスを着ていました。)

だから私は
「あんたのおっ〇い、エプロンよりマシ(良い)でしょう!!」って言い返しました。

母といるとあり得なさ過ぎて困る。けれど笑えます。
私、東京にいる時は笑うっていう事を忘れていたところがありました。
だから、眉間に皺があって。
鼻の上にも皺があって。
母が笑わせるので。
心なしかその皺の深さが薄くなってきているような気がしています。

でも、沖縄に帰ってきた当初は。
散らかし放題の母の部屋、整理整頓出来ていない台所やあちこちのゴミに埃。
掃除するとなると。
めちゃくちゃ腹立ち私は吠えていました。

私のすぐ下の弟が何事か?って。地下から上がってきました。

「ゆかり、でもおまえが帰って来てから、おかあ十分弱み入ってるからな!(心労で寿命が縮まってしまった)」って。

私は弟のその言葉でハッと気付かされました。
そんな母親でもいてくれるだけで良い。
労わりなさい。
という想い。

私も私の兄弟も本当に嫌な思いばかりさせられて来たけれど。
私の母という人を誰も恨んでいません。

母は自分の価値観で思うことを
こうしなさい、ああしなさい。
と押し付けるように私たちに言うところがあります。
「あんたに言われたくない」って。

若い時は憎らしくなり、兄弟皆母に酷いことを言っていました。

母の数々の失敗。
呆れるけど最後は仕方ないと皆で許容して、
今後どうしようか、長男の叔父を始め皆で話合ってその都度乗り越えてきました。 
その繰り返しで今に至ります。

母の逸話は書ききれないほど沢山あります。
また気が向く時にも書きたいと思います。

そして、つい先日。
母は病院で
「重症筋無力症」と診断されました。

母は何年か前から言っていました
「お母さん80までしか生きられないさぁね」って。

ちょっとちょっと
何で勝手に寿命設定してるの?って笑って聞いていたけれど。

重症筋無力症。
悪化すると結構重い病気のようです。
次回CT検査です。
胸腺摘出手術になる方が悪化は防げるようですが。
どうなることやらです。

今は母も普通に動けているので、まだ深刻に受け止めていません。

そして私は母に言いました。
「ね、掃除しないと病気になるでしょう!」って。

「掃除するさ~、するよ」って返してきたから、
年末でも掃除はしない、と言っていたので
お!凄いと思いました。

母のペースを見ながら私も整理整頓してあげようと思います。

嘉手納で暮らしていた時も、何でこんな思いしなければいけないんだろう。って幼心に思っていたけれど。
北谷に来てからは。
私たちと同じように子どものようになってしまった母だったけれど。

でも私がしたい!と言ったことには惜しみなくお金を出してくれて。
東京にも嫌がらず、むしろ喜んで嫁がせてもらえたし。
まだ、面と向かっては生んでくれてありがとうが言えてないけれど。

お母さん
ありがとう。

カラオケの発表会になんと振袖で登場した母。
私は東京にいたから知らなくて。従姉から✉️
「やーのおかぁ(あんたのお母さん)しに(めちゃくちゃ)ウケる‼︎皆大爆笑どー(家族中大笑いだったそう)」
本当、話題に事欠かない人。

46才のババアに何が出来る?自立への挑戦!!㉗話につづく




































































































































































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