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ORANGE RANGE「花」に挫折から救われ、人前で歌うことの楽しさ、全力を出せない辛さを知った話

はじめましての方ははじめまして。モテな医と申します。
現在、内科医1年目をしていますが、事情があって少しばかり仕事をお休みしています。
ふと #創作にドラマあり というお題企画を目にし、個人的にここについては人に語りたいと前々から思っていた体験があったので、これをいい機会に書かせていただきます。
少しボリューミーな話になってしまいましたが、少しばかりお付き合いください。

小学校の時に経験した挫折

小学校の時、「漫画家になること。」を夢見ていました。もともと絵を書くことが好きで、幼稚園の時に読んだ「ドラえもん」に衝撃を受け、漫画家になりたいと強く思うようになりました。小学校1年生の時には、将来の夢というお題の作文で「漫画家」というタイトルで漫画家への熱い思いを語ったこともあります。自由帳に自作の漫画を書いて、それを同級生に披露する日々。同級生に「うまいね」と言われ、得意気になっていたことがつい昨日のように思い出されます。

そんな中、それまで田舎暮らしを続けていた私は、家庭の事情で、都心部へ転校することになります。牧歌的な世界で、同級生と共に、野山を駆け巡り、自由気ままな田舎ライフを送ってきた自分。周りの環境も、クラスメイトたちも、自分よりも少し垢抜けて見えました。

当時転校した小学校の同じクラスには、同じく漫画家志望の女の子がいました。少女漫画志望という彼女の漫画を「どんなもんなんや」と思い、少し見せてもらいました。衝撃が走りました。画力。構成力。明らかに自分の3段は上を行っている。改めて見渡してみると、他の子も心なしか絵が自分より上手く見える。ここで、「漫画家になる」という夢はもとより、それまで絶対だった画力への自信もいとも簡単に崩壊してしまいました。

「朝のうた」で気づいた才能

人生の目標を見失い、呆然と過ぎゆく日々。そんなある日、どういう経緯かは全くわかりませんが、クラスの中で「朝のうた」という企画が開始されるようになりました。
ホームルームの前に子供たちが好きな歌を歌うことで、朝の気分を活性化させるというコンセプトでしたが、実際は歌うのが好きな誰かが「歌いたかったから」発案したのではないかと思います。

その当時はちょうどオレンジレンジが大流行していて、学校内でオレンジレンジの歌を聞かない日はないくらい、四六時中オレンジレンジがかかっていました。毎日のように、給食の時間中には「以心電信」が教室内で響き渡り、校内放送では「ロコローション」がかかっていました。当然のように、朝のうたで取り扱う歌は「花」になりました。

ところで、当時の自分は、夢の挫折からか、人一倍自意識が強い性格になっていました。みんなと同じことをすることが嫌いで、流行に乗るなどもってのほか。当然オレンジレンジも興味がなく、彼らの歌は右から左へと受け流されて行きました。

そうした時間をすごしている間に「朝のうた」の企画は始まりました。
当然歌う気はありませんでしたが、「朝のうた」を仕切っている「ハキハキ系」女子たちが張り切っている様を見て、身がすくみました。歌わないフリなんてしたらこの後どんな仕打ちが待っているか。。。

そうこう考えている間にラジカセの再生ボタンが押され、間髪入れずに短いイントロ、冒頭のサビが始まりました。当然自分以外のみんなは知っている曲なので、みんな当然のように歌えていました。周りの歌に聞き耳を立てつつ、音が外れないように注意しながら。よく分からない歌でしたが分からないなりに歌ってみました。
歌い終わった後、隣の席にいた男子の一人が目を丸くしながら自分に話しかけてきました。
お前、この歌聞いたの初めてって言ってたよな?なんで普通に歌えてんの?
おれ、意外と音楽の才能あるのかも。自分では気づかなかった才能に出会えた瞬間でした。

中学時代に再認識した、自分の歌唱力

朝のうたの効果などで少しずつ友人ができるようになった小学校時代。しかし「医学部に入って欲しい」という親の意向もあり、中学からは、地元では進学校で有名な私立の中高一貫男子校に進学することになります。「学年の半分が東大、京大、医学部に入る」と言われるような学校なだけあり、クラスメイトは「いいところの坊ちゃん」ばかりでした。周りのクラスメイトみんながデフォルトでピアノやバイオリンが弾けると言う環境。どうやら歌唱指導も入るようで、当然、みんな歌も上手い。意固地になってそこかしこで乱雑に歌いまくり、いつしか自分の歌は仲間内から「騒音公害」と揶揄されるようになりました。

やはり自分には音楽の才能はないのか。
小学校の時漫画家になる夢を挫折した時と同じように、音楽への自信が次第に失われて行き、いつしか「歌うのが怖い」と思うようになりました。

そんな自信を失いつつあった日々が変わったのは、中学3年の夏のある日のことでした。その日は学校祭本番の前日でした。学校祭は、毎年中学生は展示を、高校生はバザーをやることになってました。連日にわたり延々と続く内装や展示の準備。いつの間にか教室に備え付けられていたリスニング用のラジカセを使い、クラスの中心人物たちが好きだという、あまり聴き馴染みのないJ-POPや洋楽が流れる空間と化していました。
黙々と作業し続け、気がついたら午後4時。この時間になるとどこのパートの作業もほぼ終了していました。作業を終わらせた解放感からか、みなが思い思いの行動をとっていました。そんな自由な時間が流れていたある時、長時間にわたりよくわかんないハイテンションなJ-POPを垂れ流し続けていた教室内のラジカセが、突然どこかで聞き覚えのあるバラードを流し始めました。

花びらの ように散りゆく中で
夢みたいに 君に出会えた奇跡

小学校の時に歌う楽しさを教えてくれた、オレンジレンジ「花」の歌い出しでした。この曲は流石にみんな知っていたのか、なぜかクラス全員が歌い出していました。教室内に響き渡る大合唱。気がつけば自分も、自然と「花」のメロディーを歌っていました。歌が終わり、また別の曲が流れるまでのインターバル。また思い思いの持ち場に戻っていく同級生たち。戻り際に、人の歌を散々「騒音公害」と揶揄していた友人が、半ば目を丸くして私に、「お前実は歌うまいんだな」と声をかけてくれました。人の歌を「騒音公害」と散々貶していた同級生に「歌うまいんだな」と言わせた経験。失いかけていた音楽への自信を取り戻す大きなきっかけとなりました。

「高カラ」への挑戦

高校生に入って待ち受けていたのは、進学校の厳しいカリキュラムと、「医学部を目指せ」という親の方針もあり、勉強で縛られ続ける日々。来る日も来る日も勉強ばかりで、あまり高校生らしいこともできないまま、気がつけば高校3年になっていました。
高校3年となり、受験を控えた自分。中高6年間を振り返ると、特段思い出のない灰色の青春が横たわっていました。このまま高校生活を終わらせていいのだろうか。「高校生活のせめてもの思い出づくり」と言う名目で、J-POPに明るく、歌える友人を誘って、通称「高カラ」という学校祭のカラオケ大会に出ることになりました。

自分たちの高校の学祭で行われる「高カラ」は、いわゆる「学校祭の花形企画」でした。出場枠は全体で20組ですが、毎年出場希望者が殺到し、出場者は枠内に収めるために抽選がかかりました。運良く出場できることとなった20組の出場者たちは、1日目の予選でA-Dブロックに振り分けられ、各ブロック内で5組中2組まで選抜されます。勝ち残った合計8組が、翌日の決勝トーナメントへ進むことができました。学校祭のクライマックスで、大観衆を前に、負けたら終わりの一発勝負のトーナメントで、優勝を目指して死力を尽くして歌う。当時の学内では、「高カラの決勝トーナメントの舞台へ立つ」と言うのは、ひとつの大きなステータスとなっていたように思います。
なんとか抽選には通ることができ、予選の組み分けも決まりました。出場者の名簿を見てみると、やはり目玉企画というだけあって、出てくるのは学内でも有名な「うた自慢たち」ばかりでした。ここで僕の心は揺れ動きます。

せっかく出ても中途半端に取り組んで負けたら一生悔いが残るし恥になる。どうせだったら優勝する気持ちで取り組もう。

声をかけた友人、そして抽選漏れしてしまったけど「どうしても出たい」という友人がもう1人加わり、3人のグループで出場することが決まりました。勉強そっちのけでカラオケに通い、なにを歌うか考え続ける日々。「高カラで優勝する」という分不相応に壮大すぎる目標のもと、僕らの挑戦が始まりました。
たくさんの曲を聞いて、歌って。これじゃないとなって。また聞いて、歌って。喧々諤々の議論の末、予選、及び決勝トーナメントの3回戦分で歌う、4曲を厳選しました。当時の僕たちが、本気で「勝ち」に行くための選曲。その4曲のなかに、当然のように「」は入っていました。そして、「」は、予選で歌うことにしました。3人のハーモニーが、一番うまく決まっていたからです。苛烈な「高カラ」の予選を勝ち抜くには、最初から一番自分たちの自信がある曲で臨まなければなりませんでした。

最悪のコンディションで臨んだ「高カラ」当日と、その結末

学祭準備期間中も、3人でクラスのバザーの準備や手伝いそっちのけで校舎の屋上や空き部屋で練習に明け暮れ、迎えた学校祭当日。
朝起きた時、なんとなく喉に違和感を感じました。なんかイガイガする。一抹の不安を抱えつつも「そのうち治るだろう」と自分に言い聞かせました。しかし、不安は的中しました。前日練習し過ぎからか、身体を冷やして風邪をひいたのか。原因はわかりませんが、喉の調子は最悪のコンディションでした。ちょっと囁くように歌うならいいけど、少しでも声を張ると咳き込んでしまう。のど飴などの力でなんとか歌えるくらいには整いましたが、全く万全の状態と言うには程遠く、不安要素が解消されないまま「高カラ」予選に臨むこととなりました。

目玉企画の予選とはいえども、初日でかつ昼前の開催。大概の観客はバザーに舌鼓を打っていて、体育館の特設会場に見える人影はまばらでした。
他のグループの歌唱を聞いていたら、やはりしっかりとみんな仕上げてきているようで、上手い。不安をかき消すように、「この中で一番上手くある必要はない。5組中上位2組になればいい。」と自らに言い聞かせますが、プレッシャーは増すばかり。「何百回と歌ってきた曲で勝負するんだ」という自負が、かろうじて自分の体を支えてくれました。やるしかない。体育館の特設ステージ上に上がったとき、自然と覚悟は決まっていました。
MCが終了し、司会が曲の紹介をする。音源を再生するまでの数秒間の沈黙。不安と緊張を胸に、僕らの挑戦が始まりました。

オレンジレンジの「花」は、イントロが短く、最初のサビの入りが難しい。でも、喉を潰してしまったけど、その代わりに入るタイミングは昨日死ぬほど練習した。あとは声をメロディラインに載せるだけだ。よし、行くぞ!

入りのタイミングは完璧で、不思議としっかり声が出せていました。手応えは良好で、最初のサビ終わりの間奏の途中にまばらながら拍手が聞こえ、「いける」と確信しました。結果は、見事に予選勝ち残り。奇跡だ。喜びのあまり、自然とガッツポーズが出ていました。

予選終了後、3人でバザーに舌鼓を売っていると、聴いていてくれたという同級生の一人に捕まりました。「お前うまいな!びっくりした!」と目を丸くして感想を伝えてくれました。
それをはじめとして、思ったよりも自分の歌が話題になっていたらしく、翌日の朝、登校するバスの途中で、一人の同級生に「あいつの歌上手かった。びっくりした。」と言われ、クラスについた後にも同級生たちから「お前の歌、期待してるからな」と言われ、内心かなりうれしかったです。
しかし、予選で力を使い果たしてしまったようでした。翌日にはさらに喉の状態は悪化し、決勝トーナメントを迎える前には少し歌っても咳き込んでしまう始末。コンディション的に歌い切るのは厳しいと判断し、泣く泣くメインボーカルを友人にお願いしました。
元々メインボーカルは自分で調整していた曲だったため、急な調整が効かず。できる限りの力は尽くしましたが、大観衆の応援も虚しく、1回戦で敗れました。対戦相手はそのまま決勝戦まで残っていたので、仮に自分が万全の状態で歌っても、勝てる相手ではなかったかもしれません。でも、せっかく目玉企画の決勝トーナメントまで行けたのに、全力を出せないで挑戦が終わってしまった。
こうして、手応えと後悔を胸に、高校生活最後の学校祭が終わりました。

全力を尽くして「花になろう」

決勝トーナメントまで行けた。けど万全の状態で歌うことができず、初戦敗退してしまった。自分にとって、「高カラ」で決勝トーナメントに出れたことは収穫でもありましたが、同時に大きな悔いを残しました。

「ごめん、俺がお前と同じくらい歌えてたら。多分あそこでお前が歌えてたらかなりいい線いってたと思う。」
学祭終了後、こう友人に謝られました。慰めの言葉のつもりで声をかけてくれたようですが、逆に「お前がちゃんと調整できたら、もっと上にいけていた」と責められているように感じ、グサリと心に刺さりました。

今では10年近く前の話となりますが、この時実力を発揮できなかった後悔は強く、今でも時々当時の夢を見ます。どうしても「あの曲を歌うことができた」世界線に想いを馳せてしまうのです。
もうこれ以上「あの時全力を出せてたら」で後悔したくない。学校祭終了後から死ぬほど勉強し、医学部に現役で合格することができました。その後も、趣味にも仕事にも、コンディションを整えつつ、全力のパフォーマンスができるように取り組む姿勢が身につきました。

君が僕に 遺したモノ 今という現実の宝物
だから僕は 精一杯生きて 花になろう

小学校の頃に味わった漫画への挫折、歌うことの楽しさ、全力を出せなかった後悔は、今の自分の中に息づいています。そして、全力で日々を生きることで、きっと自分の人生で花開き、実を結ぶことになると思っています。

#創作にドラマあり
#私の勝負曲
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#学校祭

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