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ハワイタイムマシーンZ/太平洋のど真ん中で 44.ハワイがすごい勢いで姿を変えていきます

フィリピンから労働者移民が到着します

前回、日本からの移民に対する排斥運動が起こり、新規移民を禁止する日米紳士協約ができたことを書かせていただきました。その前に、他の国からの労働者移民を増やす、という政策も行われています。といっても、当時のアジアはヨーロッパの国々の植民地となっているところがほとんどでした。そんな中、1898年の米西戦争でアメリカ合衆国がスペインから独立させた国がありました。フィリピンです。

※独立といっても、アメリカ合衆国統治なので、アメリカに占領されたようなものですが。

1906年、ハワイ州は、フィリピンからの労働者移民を受け入れ始めます。36話で紹介した労働者移民の母国を並べた表ではフィリピン人はそんなに多くありません。が、その後、どんどん増え続け、フィリピン人はかなり多くなります。

わたくしが昔住んでいたコンドミニアムの管理人はフィリピン人でした。彼らはとても仲良くつるむので、よくプールサイドを貸し切ってBBQをやっていました。わたくしのコンドミニアムだけか、と思っていたら、ローカルに、あちこちで見かけるよと教えてもらったことがあります。

とにかくハワイ州は、そんな感じで日本以外から労働者移民を集めようとし始めます。

ハワイ州にアメリカ海軍基地が本格的につくられ始めます

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第35話に書いていますが、1875年、カラカウアはアメリカと仲良くなるため、パールハーバーの利用を許可しています。

それ以降、ハワイはアメリカ軍の出入りが頻繁になっていたわけですが、ハワイが準州になったということは、アメリカ合衆国になったも同然。アメリカは、もう何も気にしません。1899年からアメリカ陸軍がパールハーバーを軍事基地として構築し始め、1908年にはアメリカ海軍も参入し始めます。1908年と言えば、日本は明治41年です。そんな時代から、パールハーバーはアメリカ海軍の軍事基地やったのです。

※陸海空それぞれの軍隊がいろいろつくっているので、パールハーバーの軍事基地がオープンした年としていろいろ表記されていますが、海軍基地の工事が終わってスタートするのは1919年みたいです。

アメリカ合衆国はスペイン領フィリピンを獲得した(第42話)辺りから、太平洋を制覇し始めていました。そして、その太平洋を挟んで向かい側にあるアジアの小国日本が、なんだか気になる存在になってきていました。

・1894年~1895年 日本は日清戦争に勝利
・1904年~1905年 日本は日露戦争に勝利

軍というものは、常に仮想敵国を設定して戦いに備えて、考えたり訓練したりします。日本がアメリカの仮想敵国として見られるようになったのが何時かは正確にはわかりませんが、すでに認識し始められていたのは間違いないようです。

ちなみに、日本が日露戦争に勝てた背景には、イギリスとアメリカの政治的な協力がありました。が、日本政府はその恩に対する気持ちをどんどん忘れていってました。

写真花嫁というものが登場します

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1907年に日米紳士協約ができたことは前回書かせていただきました。

・日本からの新規の移民をすべて自主的に禁止する

これにより、基本的に移民はできなくなりました。が、特例として、

・アメリカに住んでいる日本人の家族などは例外

とされていました。つまり、現在アメリカで暮らしている人間の家族であれば移民できるわけです。そこで、写真花嫁というものが誕生します。ハワイ日本人移民史でも紹介されています。こういうことをします▼

・ハワイで働いている男に、日本で妻をめとらせる
・その妻を家族としてハワイへ送る

ハワイで労働者移民として働いている日本人男性を結婚させて(籍を入れて家族にして)、その妻を移民させるのです。ハワイで働いている男性は奥さんが欲しいし、日本の女性は異国で働く男性に魅力を感じていた、といいます。で、見合いで結婚相手を決めて(と言っても写真だけで相手を選んで)、先に籍を入れてから奥さんを移民させるという仕組みが取られました。これが写真花嫁です。なんともめちゃくちゃな話です。1908年ごろから始まっています。

※そんなに数は多くないですが、夫を送るという逆パターンもあったみたいです。

現在のようなネット環境があるわけではなく、電話も一般的ではない時代。ふたりは1枚の写真だけで結婚相手を決めました。ハワイで毎日農作業をしている男性が、写真を撮りに行くなんてことは簡単にできません。時には、十数年前の写真を送ってきた男性もいたそうで、いろんな悲しいドラマが起きています。

1994年5月にカンヌ映画祭でリリースされたピクチャーブライドはこのことを描いた映画です。16歳の少女が、25歳も年上の男に嫁ぎます。映画は創作ですが、実話をもとに作られているので、よくある話やったそうです。

日系移民労働者による第一次ストライキが起こります

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花嫁を呼び寄せられるほど、日系移民の数は増えていましたが、その待遇はあまり良くはありませんでした。

上の写真は、オアフ島にあるハワイ・プランテーション・ビレッジ/Hawaii's Plantation Villageで撮ったもの。ここには、当時の労働者移民の生活状況が再現されています。

左/ポルトガルからの労働者移民に用意された住居
右/日系労働者移民に用意されていたトイレ

ポルトガルからの労働者移民に用意されている住居は、そんなに大きくはないものの一戸建てです。それに対して、日系労働者移民に用意されていた住居はいくつもの家がつながった長屋でした。妻帯者は少しマシでしたが、それでも2軒が同居するような長屋。何より驚くのがトイレはそれらの住居の中にはなく、外にあって、しかも便器に隔たりはありません。日系移民労働者は、人として扱われていないような感じです。

そして、当時の日系労働者移民は、ポルトガル系労働者移民よりも30%も安い給料でした。働きが悪いわけではなく、これは単なる人種差別です。この人種差別は中国からの移民にも行われていて、彼らはすでに何度かストライキを起こしていました。これを見てかどうかは定かでないですが、日本語新聞社2社が「日本からの労働者も給料を上げてもらうべき!」みたいな記事を書いています。

が、日本語新聞社2社はすぐにこの内容を撤回しています。経営側から圧力がかかったかお金もらったか、何かが動いたと思われます。とにかく、これがきっかけで、1909年5月からストライキが始まります。日系移民による第一次ストライキです。

ストライキは3カ月続きましたが、中心人物らの逮捕で収束します。このストライキ自体は成果がなかったみたいですが、経営サイドはこれにより待遇改善を考え始めたそうです。結果としては成功ですね。

※当時、経営者は労働者移民が結束しないよう(例えば中国からの移民と日本からの移民が結束しないよう)、移民たちの母国別に住居や職場をバラバラにしていました。


。。。。つづく


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