變電社:第0世代の「第一の青春」私論 序説 下


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「戦争責任論」としての「あのときの若者論」

この「戦」後の「世代」認識というものは"Generation"というアメリカ型パースペクティヴでもあり、文学史上ではフィッツジェラルド、ヘミングウェイ、アンダーソンの"Lost generation"やケルアック、バロウズ、ギンズバーグの"Beat generation"のように明らかな戦争体験でもって「世代」のシーンを形成した。

この「戦争」という共通体験が生んだ同じ「力学」とはいえ、敗れた日本においては特殊事情がある。すなわち「戦争責任論」の反省と反芻における「戦前」派・「戦中」派・「戦後」派といった「戦時体制下に自らをどう処したか」の体験区分による戦後「世代」認識である。

戦後世代論の口火を切ったのは「近代文学」のグループであった。私などはそそのころ二十歳と少しでしかなかったが、そのグループの所論に心引かれるというよりも、なんとまあ元気のいい連中が生き残っていたのものだと感心する方が多かった。事実彼等の提起した問題はほとんどあらゆる戦後的課題を網羅しており文字どおりテーマ・セッターとして華かなに登場していた。〜(中略)〜いらい、世代論は、その中から何でも引き出すことのできる近代的批評」のモードとして、当時の児童、現在のティーン・エージャーにまで浸透するにいたっているが、その功罪の大半が「近代文学」に帰すことはいうまでもあるまい。

——橋川文三「世代論の背景——実感的立場の問題」『日本読書新聞』1958年1月

「戦後世代論の口火を切ったのは「近代文学」のグループであった」と橋川文三は揶揄も込めて指摘しているが、その「近代文学」一派の平野謙、荒正人が展開したものは「前世代」批判たる「戦争責任論=転向論」としての戦後「世代論」である。

先の長山の「『世代』の正体」はこの重要なポイントを見過ごしていて、平野謙、荒正人「近代文学」一派に関する記述が一行もない。ゆえに長山の論では先行世代からの「いまどきの若者」論 vs 後発世代からの「大人は分かってくれない」を基軸に「世代論史」を振り返っている。結果そのまま現在の「俗流若者論」へとまっすぐ繋がる「わかりやすい整理」となっている。

僕はここで長山の論を離れ、橋川の論を敷衍して世代論を進める。何故なら『近代文学』一派は、「いまどきの若者」論と「大人は分かってくれない」論の軸から自らの「世代」を名乗り出たのではない。彼らは後発世代から前世代へ「あのときの若者論」としての「責任」追及だからである。そして事後言論上の(少々お手軽な)武器として「世代論」ブームの呼び水となる。

橋川の言う「近代的批評モードとして」の戦後ブームの一つの証左として国立国会図書館デジタルコレクションにおいて館内データも含む全データを含む「世代論」の検索結果を上げる。

また「世代」のサーチ結果である。

「世代論」でサーチでかかるものは戦前期においては1934(昭和9)年に一冊のみであり、この時代には当然戦争責任という問題意識がない「アカデミックな甘さ(橋川)」を含んだものである。1940年代も戦後1948(昭和23)年に高島善哉「社会科学と人間革命 : 一つの社会科学入門」から始まっており、これも「最近わが國のインテリの間で愛好の話題となってゐるのは、ヒューマニズム論議を別にすれば、世代に關する談義である」いう同時代「テーマ・セッター」であった『近代文学』一派への批判から始まっている。また「世代」でのサーチ結果でも、1930年代から増え始めているものの、1945年以後に爆発的に増えるのだ(ここの世代「語られ方」で戦前と戦後の細かい部分にて「アカデミックな甘さ」だけであるとは言い切れない興味深い「時差」が発見できているが、これも後章に記す)。ここで理解してもらいたいののは、「世代」概念の普及はあくまで「戦」後であるということである。

荒正人の「四十代」論

その「戦争体験」から、オルテガの「先立つた世代から區別」を自覚的に実践すすめたのは、荒正人と平野謙「近代文学」であり、形式は前世代への「罵倒」である。

この第二次世界大戦の敗戦国のアプレゲール(戦後派)の世代自覚を最も苛烈に展開したのが彼らのうちでも荒正人(1913年生まれ)であり、「世代」と「世代論」のレトリックを徹底して使い、それは時にある種の無節操なまでの前世代への攻撃性を帯びた(そしてここに平野謙との決定的な温度差がある。こちらに関しても後章で触れたい)。

昭和十二年の末には、『癩』の作者も沈思苦慮ののちに転向小説『生活の探究』を携げてわたくたちの眼前に現れた。ブルータス、汝も亦!わたくしたちはこの作者とも訣別した。かつての左翼文学者はわれもわれも武装解除していつた。いまだかつてマルクス主義者たりしことなしと声明したひと、旧同士鹿地亘を売国奴と罵ったひと、転向者全体にもういちど外科手術を行へと挑発したひと、等等——まことにひとさまざまであつた。わたくししたちが自分の翼で羽搏かうとしたときに目撃した地上風景はこのやうなものであつた。もはや天上の星をのみ見凝めることは許されなかつた。いやでも地上の塵芥を眺めなければならかつた。かくして青春のきよらかな眼は曇つていつたのだ。かつての人民の友がいかに下僕に、幸福な町人に堕ちてゆくか——その無数の事実を双眼に焼きつけてきた。それは仮面のずり落ちたあとの素顔の醜さであつた。ヒューマニズムの衣装にかくされたエゴイズムの肉体であつた。わたくし三十代が、四十代のあるひとびとにたいしてこんにちなおひそかに抱く不信、軽侮の念は、この日に萌したのである。

——荒正人『三十代の眼』1946年9月

荒正人は1913(大正2)年1月1日生まれたどんぴしゃり「大正世代」であるが、彼は自らを「三十代」という自己規定の下「四十代」とラベリングし「前世代」をクソミソに扱うわけだが、その時期に「二十歳と少しでしかなかった」橋川文三(1922年)が「なんとまあ元気のいい連中が生き残っていたのものだと感心する方が多かった」と侮るような軽さもあり、こ「世代」の用語の使い方の問題を、西村考次から「本来、世代(ジェネレーション)ということばは三十年間だから、三十代を中心に語るとしても前後の四十代と二十代をふくめてこそ意味がある」と揚げ足を取られた際に

無學を恥と思う歳でもないが、いくらわたしくが、物を知らなくとも、この程度のことは中學のリイダアで習つている。ロシヤ文學史では七十年代とか八十年代とかいつた十進方が行われているが、同じ後進國で、しかも戰爭という異常な體驗をつんできたのであるから、三十年が十年に壓縮されたとて、なんの不思議があるか。

——荒正人「用語例二つ」(「世代」と「エゴイズム」)『國際タイムス』1948年6月7日

この強弁もオルテガに則れば問題はないわけだが、この「先立つた世代から區別」への異常なまでのオブセッションは『近代文学』一派の色調である。そしてその強迫が

かれらのなかに、無傷で、のほほんとして、公式一点張りの戦争理論で押し切つてきたといふ人間がもしゐたとすれば、その象皮病みたいにあつぼつたい鈍感を評することばを知らない。さういつた部類のひとたちんは、われらの青春の日をおほいつくしたところの骨の髄まで凍らせるやうな暗黒の虚無感も、それを湛へる深淵の無気味さも、したがつてまた、日本軍国主義壊滅の日の無情の歓喜も、しょせん触感を通して理解することができないであらう。なぜなら、一切は驚くに価ひしない必然の道行であつたから。そして、かれらはわたくしが後にひきださうとする「第二の青春」もついに諒解に苦しむであらう。地獄を知らなかつたものは天国を見ることができない。絶望に徹しなかつたものは、つひに希望のなんたるかを解せぬであらう。〜中略〜 もししんの希望が敗戦日本といふ砂漠のなかから、不死鳥(フエニクツス)の羽搏き生れるとするならば、その死灰となるものは、第一の青春に夢みたヒューマニズムを悉く否定し、焼き尽くしたものにほかならない。似非ヒューマニストの、スコラ哲学弁証法などといふごまかしの形式を通らず、もつと直線的に電気のやうに肉躰に伝わつてくるものとしての、否定を通じての肯定、虛無の極北に立つ万有、エゴイズムの拡充した高次のヒューマニズム——これこそわたくしたちが、第一の青春といふ浪費のなかから購ふことのできた唯一の財貨ではないのか。
——荒正人『第二の青春』1946年2月

『第二の青春論』で「わたくしはここに、思想といふものにたいする恋冷めの青春についてかたることをせねばならない——」にはもう求められないものを求めようとする少年の地団駄から、この「先たつ世代」の「第一の青春」を「焼き尽く」して再生せよとまで言わしめる。それが戦時下むなしく「第一の青春」に騙されて二十代を送った戦後三十代が花咲かせたい「第二の青春」=戦後復興であるというのである。

荒の論と相前後するようにして平野謙(1907年生まれ)も「一つの反措定」から「前世代」の亡命した左翼インテリゲンチャ批判を繰りだし、荒と同じく「後世代=二十代」の間を取り持つ「三十代」として「四十代」へ向けて「戦争責任の文学的追求の方法が、轉向問題を起軸として、自己批判による基準の確立に求めねばならぬ責任と義務とはいよいよ明らか」と断言する。

二十代の學性でもかくも優れた發言をなし得る靑年の存在してゐることはたのもしいかぎりだが、いまここでの問題が蜷川親善が「もの心について以来」の「最初に遭遇した思想的嵐」として「新體制運動」をあげてゐる事実である。その「新體制運動」の擔當者をかつての左翼運動の生き残りにほかならなかつたと指摘してゐるその鋭敏な嗅覚に、実は一驚したのである。
文学の領域における「新體制運動」は山本有三を政治的な黒幕として、岸田國士、中島健蔵らが眞つ正直に挺身したかのだから、蜷川の立言とはづれてゐるやうだが、やはりここでも新體制と旧左翼とはイデオロギイ的に直結してゐたのである。二十代の新世代にまでかくも映じてゐるとすれば、戦争責任の文学的追求の方法が、轉向問題を起軸として、自己批判による基準の確立に求めねばならぬ責任と義務とはいよいよ明らかであらう。いや蜷川のやうな新しい世代に對する先進の義務として、それはなされねばならぬだけではない。同じ世代の文學者に對してもまさしく焦眉の急務なのだ。
——平野謙「基準の確立」1946年4月

このの戦後事情たる「戦争責任」としての「転向」問題は戦後の本多秋五・吉本隆明が展開していく所謂「転向文学論」であるから検索すれれば散々に出て来るだろうから、ここでは詳しく触れない。僕が問題にしたいのは、ここで彼らがターゲットとしている「四十代」である。その「四十代」が荒・平野へ真っ向から「鯖折り」を仕掛けるてくるのだ。

大人っぽく見えたい。未熟でなく見えたい。そしてやにさがりたいという欲望は人間的欲望といえるかも知れぬ。しかしただ子供っぽい、未熟な、無邪気なものとしてそういえるのにすぎぬ。やにさがることと戦うことで、文学が育てられるのである。やにさがること、思わせぶりにでることは宗匠根性である。荒や平野は宗匠根性におちている。人間の擁護、藝術の防衛を看板にした宗匠根性は非人間的であり、反人間的である。人間的にそれはいやしい。
——中野重治『批評の人間性 一』「新日本文学」1946年7月

戦後間もないタイミングで勃発したかの「政治と文学」論争である。こちらも検索すれば様々なその論争に関しての情報が出てくるのでここでそれに詳しくは触れない。中野自身後年「処理の仕方にもまずいところがあった」(「『近代文学』の人びと」1962年8月)と回想し、臼井吉見と対談でもその言葉の「高飛車」を問われた時に「ぼく自身の浅はかさだ」と回答する(「人間・文学・政治」『展望』1976年9月)ように、中野は「大人は分かってくれない」ではなく「子供は黙ってろ」とばかりに恫喝する態に終始したのである。

平野謙は中野を以前より敬愛してたがために「これらよくいえば倫理的批判、わるくいえば、悪口雜言は、それを最初に讀んだとき、グサと私の胸につきささり、ほとんど眼がくらむほどの衝撃を受けた。」と書かしめた。

一口にいって、中野重治は荒正人や私のモティーフを理解しなかったか、あるいは理解しないふりをした。中野重治は私どもの問題提起なりその問題提起にいたる心情なりを、いささかも汲もうとしなかつた。問題を高めず、問題をわざと低めて、それを猛烈な倫理的批判にくるめながら、打ち返してきたのである。

——平野謙「『政治と文学』論争」『群像』講談社 1966(昭和41)年3月

その打ち返した中野重治、1902(明治35)年生まれ、僕の言う「第0世代」である。「あのときの若者論」として「焼き尽く」せと言われた先が中野重治の「世代」における「第一の青春」でなのである。

第0世代の「第一の青春」

この中野重治を代表とする先行「世代」認識として振り返られた「あのときの若者」たる「四十代」の彼らが送った「第一の青春」とは何であったのであろうか。

今回は以下でアウトラインだけをなぞる。
1901年生まれとして通過した「年代」を並べるとこうなる。

・ 0代 → 1900年代(明治33年〜明治42年)
・10代 → 1910年代(明治43年〜大正8年)
・20代 → 1920年代(大正9年〜昭和4年)
・30代 → 1930年代(昭和5年〜昭和14年)
・40代 → 1940年代(昭和15年〜昭和25年)

中心の1901(明治34)年生まれで1922(大正11年)〜1931(昭和6年)と捉えられる。またそこをコア層として、その前後して6年分も含めた0世代の「先陣」1895年生まれから「しんがり」1906年生まれはまでのスパンで考えた場合、1915(大正4)年〜1936(昭和11)年の22年間にあたる。この第一次世界大戦から二二六事件までが第0世代の「第一の青春期」であると言っていいだろう。

改めて振り替えると「戦争の世紀」たる20世紀前半を全て体験したのが「第0世代」であるわけだが、その青春期が所謂1920年代 Roaring Twentiesという世界史的な文化・社会思想の百花繚乱期であり、後半に1930年代不況とファッショ台頭に押しひしがれた世代であるのだ。

 20年代に中野の同時代の詩に関してこんなことを言う。

 私はいわば幻想詩派とも称すべきものをしばしば見せられている。それは常に皇子であり七つのお城でありギタルであり足の爪さきである。またそれはおぼろな物のかげであり幽かな物のにおいでありあえかな物の色あやである。そこに支配するものは思いあがつた夢である。
 私はまたいわば回想詩派とも称すべきものをしばしば見せられている。それは常に嘆きであり風流であり東洋の神秘でありランプであり。またそれは「過去にたいする不断のながし眼」である。
 私はまたいわば叫喚詩派あるいは騒音詩派とも称すべきものをしばしば見せられている。それは常に街頭であり自動車であり首であり血みどろであり売淫であり爆弾であり革命でありやけくそであり、ドタン、バタン、クシヤツ、ギユウ等である。それはどうにも我慢のならぬ気持ちであり黒い虚無の風あなである。
 そしてこれらのいずれもが、それ自体には全然無産階級的でない。そして私たちはここにいう幻想詩派を捨てるであろう。ここにいう回想詩派を捨てるであろう。けれども私たちはここにいう騒音詩派のみは必ずしも捨てないであろう。何となれば「新しい形式への探究は実にあらゆる革命の本質的なダイナミズムにたいする偏愛からである」からである。そこには常に車輪を押しわまそうとする、前方へ押しまわそうとしる熱意が些少なりとも見出せるからである。

——中野重治「詩に関する二、三の断片」『驢馬』第三号 1926(大正15)年6月

いわば叫喚詩派あるいは騒音詩派とも称すべきもの」——ニッポンの1920年代前半期にアヴァンギャルド詩が一斉に開花した時代である。未来派やアナキズムやダダ、構成派、種々多様な「言語実験」がほぼ同時期に一斉に試みられた。既に欧州近代思想、新興芸術運動など、様々なタイミングで本邦に紹介されてきたものであるが、1920年代前半期、1923年関東大震災前後にニッポン「第0世代」にて着床した。それは近代都市風景の成立を条件とし、1917年の大戦景気における重化学工業と都市労働者としての「大衆」出現を待っていた。さらに「震災」による旧風景の大規模破壞が近代モードに強制アップデートをかけた。そのタイミングで時代・背景・主張・ジャンルが異なるこれらのイズムが一気に街路に放たれたのである。

それは常に街頭であり自動車であり首であり血みどろであり売淫であり爆弾であり革命でありやけくそであり、ドタン、バタン、クシヤツ、ギユウ等である。それはどうにも我慢のならぬ気持ちであり黒い虚無の風あなである。

この一群はブログでも様々に紹介している、『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』野川隆、『マヴォ』村山知義、、『世界詩人』「ドン・ザッキー」こと都崎友雄、「三角形の太陽」野村吉哉、「ダダイスト」高橋新吉、「黒き犯人」岡本潤、「橋本健吉」こと北園克衛、『詩と試論』春山行夫、『一千一秒』稲垣足穂、『雨になる朝』尾形亀之助、『三半規管喪失』北川冬彦、『死刑宣告』萩原恭次郎「、のらくろ」田河水泡こと高見沢路直、『軍艦茉莉』安西冬衛、アクション未来派神原泰、「赤と黒」『頭の中の兵士』壺井繁治、発禁詩集『夢と白骨との接吻』遠地輝武、『無産詩人』陀田勘助、等々であるが、彼らは皆「第0世代」である。そして野川隆への高見順の追想において言われるように" 

この北園克衛と『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム』をやっていた野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』に参加、のちに満洲で捕らえられて獄死した。私はここで野川隆の靈に脱帽するとともに、生きている北園克衛の操守にも脱帽せざる得ないのである。
——高見順「昭和文学盛衰史 第五章分裂時代」『文学界」1956年9月

彼らのアヴァンギャルド芸術運動実験たる「藝術左翼」が、先の中野の評論後の20年代後半期に入ると少数の例外を残して、野川隆と同じく「左翼藝術」へと左傾する。

大正時代の終わりには、「最も頭の良い學性は社会科学を研究し、次の連中が哲学宗教に没頭し、3番目のものは文学にはしり、最下位に属するものが反動学生」(「秀才と学問」『東京朝日新聞一九二六年九月二十日)とさえいわれている。昭和初期にジャーナリズム市場はマルクス主義者によって独占されれているとか、左翼下すればするほど雑誌が売れるといわれるようになる。新聞の見出しにも「左傾」「赤化」「赤い手」「極左分子」「赤色」「赤い女性」などの活字が踊った。マルクス主義を読んで理解しない学生は「馬鹿」であり、読んで実践しない学生は「意気地なし」となる。

——「左傾学生の群像」竹内洋・稲垣恭子遍『不良・ヒーロー・左傾』人文書院 2002年4月

中野重治の「歌のわかれ」として林房雄の紹介で「新人会」入りしたのが1925(大正14)年である。新人会は東京帝国大学法学部学生を中心にした学生運動団体として、1918(大正7)年12月から1929(昭和4)年11月の間、戦前の日本における学生運動の中核的存在であった。中野23歳、林房雄が1903年5月生まれ22歳ともに新人会であり「第0世代」の中心メンバーであるが、この1925年を一個の節目と見、1928(昭和3)年のナップ成立をピークとして、ダダもアナも「いわば叫喚詩派あるいは騒音詩派とも称すべきもの」も「ボル転」(ボルシェビキ転向)する。以後はその左傾本流とする。

 私が学校を卒業したのは昭和九年だが、翌年東京近郊のある中学校の教師になったところ、同僚に同じ学科の、5、6年先輩がいた。新婚早々で、花のようにうつくしい奥さんと二人で暮らしていたが、ある日笑いながら
「両親が将来にそなえて、月々貯金をしろというんだけどね、あと十年もしたら、日本は共産主義になるんだから、ばからしくて、貯金なんかできるものかといってるんだ」
 この人が共産主義者でもなければ、学生運動の経験もなくて、むしろ昭和初年のモダンボーイといわれた人たちに近い享楽家だったのだが、それでも、日本に共産社会が来ることは必至だと思っていた。
——杉森久英『昭和史見たまま』読売新聞社 1975年4月

戦前の左翼研究には必ずと言っていいほど参照される逸話であるが、この杉森久英は1912年生まれであるが、この先輩は5.6つ上であれば僕の言う「第0世代」に入るわけだ。なお杉森は島田清次郎の伝記小説『天才と狂人の間』で1962年第47回直木賞受賞する。そのモデル「島清」こと島田清治郎は1899年2月生まれの『第0世代』の代表的な人物でもある。

長い髪してマルクスボーイ 今日も抱える『赤い恋』

まず一筆書きに、都市とアヴァンギャルドと左傾までの「第一の青春」期の前半を説明したが、その中の細かいエピソードを含めた細かい部分は後章で改めて捉え直すつもりである。

なんという弱い心だらう。精神薄弱者だ。虚妄の生活だ。かつてマルクス・ボーイとかエンゲルス・ガールなどというあだ花が菜葉服をひとつの流行として纏つて、銀座界隈を闊歩したことがあったが、それとこれとの幾歩の差があるのか。ゲルツェンの切り開いた、民衆への罪障感、盲目的崇拝といふ、純粋のヒューマニズムも、菜葉服になれば万事おしまひである。

——荒正人「民衆とはたれか」1946年2月

この先の荒正人が批判的に参照する「マルクス・ボーイとかエンゲルス・ガールなどというあだ花が菜葉服をひとつの流行として纏つて、銀座界隈を闊歩した」第0世代の「第一の青春」を都市のユースカルチャーシーンとして捉え直してみたいと考えている。

例えば「日本の映画主題歌の第1号。1929年(昭和4年)5月にビクターレコードから発売され、25万枚を売り上げた」と言われた溝口映画の主題歌『東京行進曲』の

4番の「シネマ見ましょか お茶飲みましょか いっそ小田急で逃げましょか」の部分は、西條の原案では「長い髪してマルクスボーイ 今日も抱える『赤い恋』」だったが、当局を刺激することになるので、西條に書き直してもらったという。

——Wikipedia「東京行進曲

このエピソードに端的に表れたるところの「青春」である。このささやかなエピソードが、例えば

当時北洋に進出して鮭、鱒、蟹、などの缶詰を製造していた最大企業は、日魯漁業であった。他社と大合同をおこない、北洋漁業の大部分を独占するにいたるのであるが、その本社の所在地は東京市の電話名簿(昭和八年版)によると、丸ビルの7階であった。
労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった。」
 この『蟹工船』の記述は以上の事実を照らしてみると、"丸ビル"と"蟹工船"とをつなぐ空間をこの小説が領有していた点で、日本の近代小説の歴史のうちで新しい領域に足を踏み入れたものだったのである。
——「革命という外来思想」『近代日本文芸史誌 鹿鳴館の系譜』磯田光一 1983年10月

また

秘書が戻ってきた。
——お怪我は?大丈夫ですか?彼は息を切らしている
——丸ビルの中げ逃げ込みましたから、大丈夫捕まるでしょう。
警官が秘書に種々訊いた。モ一人の巡査は電話口げ飛んで行った。
——徳永直「太陽のない街」『戦旗』1929年6月-11月

丸ビル」は1923(大正12)年完成の当時最新鋭のビルヂング建築としての都市風景であり、先の『東京行進曲』2番が「恋の丸ビル/あの窓あたり/泣いて文書く/人もある/ラッシュアワーに/拾ったバラを/せめてあの娘の/思い出に」と唄った年が1929(昭和4年)4月である。翌月5月と6月小林多喜二「蟹工船」は『戦旗』に掲載され、徳永直「太陽のない街」はその6月から11月に連載されたものである。

この連続性の「射程」を手放さないで「世代」私論を続けたい。そこから「明るい景観」が見えるであろうことを信じて。

追補

以下は、この「第0世代」該当者リストとして、Wikipedeia上に記載ある誕生者リストを抜粋し變電社ブログに上げてある。

「第0世代」該当者リスト暫定

僕が把握しているいくつかのメンバーを足して作成したものである。当然ながら完成形ではないので、事後も更新していく予定である。

中に外国人を加えているのはその世界史的同時性の理解の一助になればと考えてもらえば幸いである。左右陣営問わず詩人・小説家から政治家、実業家まで代表的な人物を並べてあるがより詳しくは、年別リンクを辿ってwikipediaを辿ってもらいたい。さらにさまざまな人たちがいることもわかるだろう。例えばこの時期に映画監督という新しい職業における巨人がいかに多いか。先のLost Generation、たるフィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ドス・パソスなどもと同時代であることがわかり、ミリタリズム・ファッショ陣営のキーマンたちも同世代であった事実に驚くはずである。

(つづく)

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荒正人「晴れた時間」『第二の青春・負け犬』冨山房書房 1978年5月
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平野謙「『政治と文学』論争」『群像』講談社 1966
中野重治「批評と人間性一」『新日本文学』1946
中野重治「批評と人間性二」『新日本文学』1947
中野重治「批評と人間性三」『展望』筑摩書房 1947
中野重治「珍説とクルコフスキー将軍——『批評と人間性』のうち——」『新日本文学』1947
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『中野重治全集 第九巻』筑摩書房 1977
『中野重治全集 第十二巻』筑摩書房 1979
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『文学史を読みかえる②<大衆>の登場——ヒーローと読者の20〜30年代』1998


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持田 泰

noteでトルタル(暫定版)

電子雑誌トルタルに関係したnoteをまとめていってみます。どうなるかな
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